
ひと昔前と比べ、夫婦の働き方はかなり改善が進んだ。しかし仕事をセーブして子育てするのはまだまだ女性がメイン。
四面楚歌
娘が3歳になると、遠野アキさんは社会復帰を目指し、人材紹介会社に登録。
外資系日本企業の面接の際、日本人の男性面接官に「サンフランシスコかあー! すごいね! 遠野さんにうちの仕事はもったいないかもね」「誰がお子さんをみるんですか? 海外出張もできますか?」などと言われて面食らう。
そこで遠野さんは、かつて働いていた大手消費財メーカーの元同僚に相談すると、「しばらく専業主婦になっていたようなブランクのある人を、私なら雇おうとは思わない」と言われ、愕然。仕事のブランクのある女性が、日本で子育てしながら働くことの難しさを痛感させられた。
夫の無理解や日本の転職市場の現実に打ちのめされた遠野さんだったが、ある時インターネットで某雑誌の翻訳ライターの求人を見つけ、応募。面接を受けると、早速採用が決まる。最初は翻訳のみだったが、次第に取材や執筆の仕事が増えていった。
埋まらない溝
ようやく仕事を得られた遠野さんだったが、かつての収入や仕事内容と比較しては、「これでいいのか?」という思いと、「これしか稼げないの?」という悔しさに苛まれた。
ついそんな苦悩を夫に漏らすと、「なんでライターなんてお金にならないことやってんの? Uberの方が稼げるし、いつでも好きなときに仕事ができるじゃん?」と夫。
「私の友人はアメリカ人やフランス人の駐在員妻が多いのですが、彼女たちは夫に帯同して来日し、日本で専業主婦として数年過ごしても、母国に帰ると元の仕事や大学院に戻ることができます。そのため、自分の境遇との差に苛まれました。
私は特別キャリアアップがしたかったわけではなく、単に『以前と同じように仕事がしたい』と思っていただけ。
記念日にはよく花束をくれた夫だが、「もったいない」と言ってくれなくなった。夫婦の会話も、必要最低限になっていった。
「娘が完全に手を離れたら離婚しよう」
遠野さんがライターになって10年ほど経った頃、友人から「英語で記事を書けば、もっと仕事が広がるのでは?」と提案される。
遠野さんは、「英語で記事を書いても、英語圏の新聞や雑誌に掲載されるなんて、私には無理だ」と思ったが、「ダメで元々」。世界有数の新聞社数社に1~2回記事を送ってみた。
半年ほど経ったが梨のつぶてのため、編集部に勤める帰国子女の友人に相談すると、「やっぱりネイティブじゃないと難しいんじゃない?」と言われ、落胆もした。
それでも諦めず3度目の記事を送付すると、2週間ほど経った頃、掲載決定の連絡がきた。
「世界有数の新聞紙に載るなんて夢みたいで、自分が書いた記事をプリントアウトして夫に見せました。すると夫は、記事に目をすべらせるとその紙をぱっと投げ、『英語がひどすぎて読める代物じゃない』と……。ところがその記事は、既に現地の編集者が編集したもの。英語がひどいなんて、言いがかりもいいところでした」
この時、「この人とはもう無理だな。娘が完全に手を離れたら離婚しよう」と決意した。
「義父は東大卒の弁護士でしたが、しょっちゅう義母をバカにしていて、夫婦喧嘩が絶えませんでした。義両親を見ていて、『こんなふうに歪み合っているのに、経済的に自立できないせいで離れられない夫婦にはなりたくない』思っていました。『お金があっても幸せではない』と痛感しましたね」
「一家の大黒柱としての重圧を背負ってつらかった」と言い出す夫…
高校入学と同時に娘が留学したことを機に、遠野さんは離婚を切り出した。すると夫は、堰を切ったように、遠野さんに対する恨みつらみを吐き出し始めた。
「夫に『一家の大黒柱としての重圧を背負ってつらかった』と言われましたが、私は結婚して23年間、自分がハッピーじゃないことは何度も告げたのに、夫は聞く耳を持たず、『嫌なら離婚しろ』としょっちゅう言われていました。まったく共感力がなく、常に独善的で、歩み寄ることができない人でした」
23年前、「一生、君が働かなくてもいいように責任を持つから、一緒に帰国して結婚してほしい。君は仕事をしてもいいし、しなくてもいい。ただ幸せに笑って暮らしてほしい」という自分が放った言葉に、夫自身も縛られていたのだろうか。
少なくとも夫は、遠野さんが幸せに笑って暮らしていなかったことにはまったく気づいていないばかりか、夫自身が苦しみを与えていたということさえ自覚していなかった。
一通り吐き出し終えた夫は、「やり直したい」と言い、遠野さんは耳を疑った。
「確かに優しい時もあり、娘の夜泣き対応をしてくれたことは一度もありませんでしたが、家事育児を全くしてくれなかったわけではありません。でも、私を小馬鹿にし続け、特に私の就職活動がうまくいかなかったときに、『そんなの日本なんだから当たり前じゃん』『最初から分かっていたことだろ? もしかして分かってなかったの?』と言われたことが頭から離れません」
遠野さんが「いや、もう無理でしょう?」と首を振ると、夫は離婚を受け入れた。
昔よりも「分かりません」「知りません」が言えるようになった
離婚は弁護士を通じ、半年ほどで成立した。
「1人になって、『経済的にやっていけるのだろうか』と落ち込むときがあります。その度に、『どんな仕事をしてもいいし、日本は生活保護がしっかりしているから生きていける!』と楽観的に考えるようにしています」
ビジネスパーソンとしてブランクのある女性には厳しい日本だが、最低限の生活は保障されている。遠野さんはこれを「安心材料」と捉えることで、ネガティブになる自分を留めている。
「私の友人に、『ローマは一日にしてならず』『できない理由を考える時間があれば、できる方法を考えよう』とよく口にする世界的な研究者がいます。彼女がある失敗を犯したとき、『よし! 私は頑張った!』と自分に言い聞かせていて驚きました。
当たり前の話ですが、成功するには人一倍時間をかけて努力することが必要。でも私たちはついつい焦って、すぐに結果を期待してしまう。彼女だけでなく、成功している人は常に楽観的で、建設的な考え方をしていることに気づきました。私たちには、お互いに高め合える友人や仲間、メンターが必要である一方で、自分がネガティブにならないためには、リアルでもネット上でも、愚痴ばかり漏らしているようなネガティブな人と交わらないことも大切だと思います。
1人になり、50代になって、昔よりも『分かりません』『知りません』を言えるようになり、いろいろな人と話すのが楽しくなりました。精神的には今、とても幸せです」
大きなことを成し遂げられる成功者に、楽観的で建設的な考え方をしている人が多いという遠野さんの言葉には、はっとさせられた。確かに、世界中で誰1人として味方がいなかったとしても、自分だけは自分の味方でい続けることができなくては、何ひとつ成し遂げることができない。
「日本の雇用市場は変わりつつあり、数年前よりは転職もしやすくなっています。しかし、履歴書に空白があると不利なのは今も否めません。もしもやりたい仕事があるけれど、ブランクがあるとか未経験だからなど『正社員は難しい』という状況なら、まずはフリーランスとして始めてみるのもひとつの手だと思います。
最近私も活用していますが、アメリカ生まれのビジネスSNS『Linkedin(リンクトイン)』は、ビジネスにつながりやすくてお勧めです。英語で発信するようになってからは、仕事の依頼だけでなく、『この人と会ったほうがいいよ』という紹介を受けるようになりました。インドや台湾、シンガポールの人々も、自分の世界を広げようとしている印象です」
遠野さんは現在、海外から執筆や調査依頼を受け、世界中を飛び回っている。
「現在はオンラインのウェブ制作を学んでいますが、ゆくゆくは海外の大学院でリスキリングをしたいと思っています。目標は、公共政策の修士号を取り、女性の権利にまつわる執筆活動を続けながら、文化的な仕事をすることです。現状、年齢や性別、転職歴などにこだわる傾向の強い日本では難しいと思うので、海外を考えています」
夫にしがみつき続けるという選択肢もあったが、遠野さんはそれを捨て、全く新しい自分だけの人生を歩き始めた。
“再起動”した遠野さんの今後の活躍を見守り続けたい。
取材・文/旦木瑞穂