
ヴィジュアル系バンドの黄金期である1990年代後半に、メジャーデビューからわずか2年で解散したバンド「D-SHADE」。田辺エージェンシーの期待の新人としてデビューし、その楽曲制作や宣伝費用は当時「3億円」と騒がれた。
人気絶頂期にボーカルの意向で解散
1998年4月にメジャーデビューしたD-SHADEは中高時代の同級生ら4名で結成され、インディーズ時代から10代とは思えない作曲能力と演奏力の高さで人気を博した。
デビューシングル『BELIEVE』はナインティナインの冠番組「ナイナイナ」の、セカンドシングル『ENDLESS LOVE』はMAXが主演を務めたドラマ『スウィートデビル』の挿入歌となるなど、デビュー当初から大きく期待されていたことがわかる。
同バンドでドラマーを務めたYUJIこと秋好祐治氏は、幼少期からさまざまな病を抱えながらも、今なお精力的に活動を続けている。
その原動力はどこにあるのか。D-SHADE時代の知られざるエピソードから、現在の活動まで、その波乱万丈な半生に迫った。
――なぜ、人気絶頂で解散することになったのでしょう。
秋好祐治(以下、同) それはボーカルのHIBIKIが別の道に進みたいって言い出したからですね。僕らメンバーは何度も止めたし説得したけどダメでした。
――解散後、秋好さんはどういう活動をしていたのですか?
東京での暮らしが嫌になり川崎のアパートに引っ越しました。稼ぎが途絶えたんで、寝る間も惜しんでバイトを何個も掛け持ちし、ドラムの練習をしてました。
“トラ”っていう、業界用語で言うところの代役的な仕事を何度もしました。実はバンドの中には実際に演奏してないドラマーがいて、その方の代わりに僕がステージの脇でドラムを叩くのです。
――なんと! そんな役割があるんですか。実は有名なバンドのドラマーが演奏してなかった、なんてパターンもあるんですね。
はい。ドームで演奏するクラスのバンドさんでも、そういうケースはあります。D-SHADEを辞めた後が一番謙虚に練習を積み重ね、どんな仕事もありがたくさせていただいてました。
バイトも練習も寝ないでやってたんで、無理がたたって25歳で髄膜炎になり、2週間意識不明の重体になりました。
5歳でペルテス病、30代で狭心症、45歳で膀胱がんに
――えー! 2週間もの間、生死の間をさまよっていたんですか。
はい。夢の中で僕の祖母から「こっち来ちゃいけない」と言われました。若くして亡くなった友達も「こっち来るな!」と。いろんな亡くなった方々に会いましたが、誰も「こっち来い」とは招きませんでした。
――その後、なんとか生還したんですね。後遺症はないのでしょうか。
それが、去年と今年で2回、交通事故を起こしているんです。去年6月には昼間に原付に乗っててノーブレーキで軽自動車に突っ込み、今年10月は首都高で壁に突っ込み車が横転。どちらも居眠りしてたわけでもないのに、事故直前の記憶がまったくない。
もしかしたら髄膜炎の後遺症なのかもしれないと思っています。来年にでも検査してみようと思うんですけど。
――危なすぎです。幼少期にペルテス病(大腿骨周辺の血行が悪くなり骨頭が壊死する病気)も発症されているのですよね。その痛みは今もあるんですか。
はい。5歳のときに発症しました。
現在も足に痛みはあり、いつ歩行障害になるかもわかりません。30代で狭心症なども発覚したり、45歳のときには初期の膀胱がんになりました。朝、排尿したら血尿が出たんですよ!
男性の場合は血尿が出たらかなりの確率で膀胱がんの疑いがあるようなので、みなさんもお気をつけください。
デビュー当時はひとりで起きたことがなかった
――1998年にメジャーデビューしましたが、当時はデビュー直後から大忙しだったのでしょうか。
そうですね。広島から上京して事務所が自宅を用意してくれたんですが、東京のどこに住んでるかわかりませんでした。
年中24時間ほぼ休みなしで、ひとりで起きたことがなかったほどです。
――ひとりで起きたことがない、とは?
マネージャーが朝起こしに来て、パジャマのまま車に乗って、現場で顔を洗ってメイクさんに髭を剃られてメイクされてって感じで。
僕が座ってうつむいてるようなポーズを取ってる写真は、カッコつけてるわけじゃなくて実は寝てたんです(笑)。
――でも21歳とかでデビューしてそんなに忙しいと、きつかったんじゃないですか。
はい。NHKの音楽番組「ポップジャム」に出させていただいたとき、当時、司会をやっていた爆笑問題の太田さんが「今はきついと思うけど、これを乗り越えられたら良くなるから」と言ってくれたんですけど、その当時は「はぁ?」としか思わなかった。
でも今にして思えば、良い言葉をくださったなと思います。
――忙しすぎて女性関係とかそういう遊びも一切できないみたいな?
いや、音楽番組に出たときに、リハの合間でポケベルとか自宅の電話番号とかを出演者同士で交換し合ったりしました。出会いはそこでしたね。
朝8時に集合してリハを2回くらいするので、時間はたっぷりあるんです。歌手に女優さんにモデルさん、いろんな女性と仲良くさせていただきました。
――当時は写真週刊誌に撮られたりしたこともあったんですか?
ありましたねー。そういうときはバチくそマネージャーに怒られました。
「ドラムが叩けることが僕の活力」
――若さゆえに生意気だったところもあるのではないでしょうか。
そうですね。ライブ終わった直後、田邊昭知現会長が「さっきの演奏、お前、あれなんだ?」って言ってくださったときに、ライブ直後の興奮状態ということもあって、口答えしちゃったんです。
周りの空気がサーッと引いてしまって……ものすごい怒られました。
田辺会長は「ザ・スパイダース」のドラマーだったということもあり、僕をよく見てくださっていたのに、本当に生意気でした。
――当時の最高月収はどのくらいだったのでしょう。
月収数百万円はいってました。数百万もするドラムセットを何個も買ったり、1000万円近い旧車のマスタングを買ったり、全部使ってなくなりましたけど。
――現在も精力的に活動されていますが、今はお体の方はいかがなのでしょうか?
今年10月の事故時に切れてしまった右腕の親指の靭帯が痛いくらいで、あとは元気です!
――靭帯が切れた状態でライブしてるんですか?
してますよ!
このサポーターをつけてなんとかやってます。先日はライブで10曲叩きました。でもドラムが叩けることが僕の活力なんで!
まったく死ぬ気がしないです。来月12月にはドラマー3人が集まっての初のライブを開催しますし、来年には新たに組んだバンドを発表する予定で、その準備に追われています。
生きてる間に『D-SHADE』以上に売れるバンドを作る! それが今の僕の目標です。
※
ビートとともに波乱万丈という人生の軌跡を刻み続けきた秋好さん。D-SHADE時代に比べるとややぽっちゃりしていたが、彼のドラムパフォーマンスのキレはまったく衰えない。
取材・文/河合桃子 集英社オンライン編集部ニュース班