
「バイデン大統領の行動は恥ずべきものであり、腐敗している」「私たちは政治的腐敗と戦うつもりだ」これは日本製鉄による買収禁止命令を受け、USスチールのCEOが発表した声明文の一部だ。ここまで怒りをあらわにしたリリースも珍しい。
中国の鉄鋼業界が抱える爆弾とは?
USスチールのリリースには「中国共産党の指導者たちは北京の路上で小躍りしていることだろう(The Chinese Communist Party leaders in Beijing are dancing in the streets)」とも書かれている。
そしてこの一文が、日本製鉄によるUSスチール買収計画に至った背景をよく物語っている。
2023年の段階で、中国は世界粗鋼生産量の54%を占める圧倒的な強者だった。
2000年以降、急速に経済成長を遂げた時期から飛躍的に生産量を伸ばし、中国宝武鋼鉄集団は粗鋼生産量が1億トンを超えて世界トップに立っている。
アメリカの2023年の粗鋼生産量は8100万トン、インドや日本に次いで世界4位だ。日本は8700万トンとなっているものの、生産量は前年比で2.5%減少しており、その存在感は失われている。
日本製鉄のUSスチール買収は、圧倒的首位に立つ中国を牽制する意味を持っていた。
中国の2023年の粗鋼生産量は前年比プラスマイナスゼロとなり、国内の需要は減退し始めたのだ。
中国政府はかつて鉄鋼メーカーの経営統合を推進し、高シェアを獲得するに至った。加えて産業補助金を投入し、機械や電気自動車メーカーの競争力向上を図っている。そこに不動産バブルが加わり、粗鋼生産能力の膨張を促した。
しかし、この過剰なまでの粗鋼生産力が、今や爆弾になってしまった。
つまり、中国の不動産バブルが弾け、建設需要が停滞。多すぎる鉄鋼が世界市場に流れ込み、価格を押し下げるという最悪な未来が見えてくるのだ。
製鉄所の閉鎖で失業者が出る懸念も
鉄鋼価格が下がることそのものは、自動車製造など鉄を必要とする会社にとって歓迎すべきことだが、鉄鋼メーカーにとっては悪夢以外の何物でもない。
USスチールの2023年度の売上高は、前年度比14.3%減の180億ドル、営業利益は74.7%減の8億ドルだった。
営業利益率は前年の15.0%から4.4%まで下がっている。
2024年度は更に13%程度の減収、70%近い営業減益となる見込みで、会社は2024年10-12月が最終赤字になる見通しも示している。
日本製鉄による買収は、USスチールにとってまさに渡りに船だった。買収総額は2兆円にも及ぶ巨額のM&Aだが、日本製鉄は4000億円以上もの追加設備投資を行なうとも発表。10年間、生産能力を削減しないことを約束する提案もアメリカ政府に行なった。
これはつまり、従業員の雇用が維持されることを示している。2024年12月12日にUSスチールの従業員300人が買収に賛同を示す集会を開いているが、経営陣と従業員の多くは買収に賛同していた。
USスチールの強みは、高付加価値自動車用鋼板だ。
特にEV向けのボディーやパーツに必要な熱延鋼板が好調で、2024年1-6月の中国における熱延コイルの生産量は1.1億トン。前年同期間比で5.5%増加しており、付加価値の高い鋼板類の生産が活発になってきた。輸出量の増加は、USスチールの脅威となる。
USスチールのデビッド・ブリットCEOは、買収が成立しなければ製鉄所の閉鎖や本社の移転を行なう意向を示してきた。
実は買収にはアメリカの鉄鋼メーカー、クリーブランド・クリフスも前向きだった。しかし、買収額は1兆円であり、独占禁止法の観点からも難しいと法律専門家が助言している。USスチールは、単独での立て直しが視野に入ってくるのだ。
技術力で世界をリードする日本製鉄
ここで疑問に感じるのは、日本製鉄がアメリカ国内の同業他社が提示する2倍もの金額で買収する目的だ。
傾きかけたUSスチールを巨額買収する意味はどこにあるのか。
最大の魅力はアメリカの需要の高さだろう。日本は2022年に8900万トンの粗鋼を生産する一方、需要は5500万トンほど。供給能力が上回っているため鉄不足に陥ることはない。
しかし、アメリカの需要は国内の供給量を上回っており、自給率は7割ほどだ。
USスチールは稼働が停止しているものや建設中のものも含めて高炉8基、電炉5基を持っており、4000億円の設備投資で日本製鉄の技術を導入することができれば、生産量を引き上げられるというわけだ。
加えてバイデン政権は2024年4月に中国製の鉄鋼に3倍の関税をかけることを示唆。アメリカ国内の生産性を高めることで、高値で販売できる未来も見えてくる。
アメリカの遅々として進まない脱炭素化も、日本製鉄にとって重要なマーケットだ。
バイデン政権は過去に、2030年までに温室効果ガス排出量を2005年比50~52%削減する目標を掲げているが、アメリカの民間調査会社は2022年の温室効果ガスの排出量が、前年比1.3%増加したと発表した。
そこに日本製鉄は高炉水素還元で、二酸化炭素を40%以上削減する試験炉を確立したと発表している。40%の削減は世界初であり、開発目標を1年前倒しで達成した。
鉄鋼製造は、鉄鉱石から酸素を分離する過程で石炭を使う必要があり、そこで大量の二酸化炭素を放出する。
しかし、日本製鉄は水素での還元に成功しており、この方法であれば水蒸気の発生に変えることができる。
ただし、水蒸気で炉内の温度が低下するため、鉄が溶融しないなどの乗り越えるべきハードルが高い。日本製鉄は高温での水素吹込みなどの対策を行ない、環境に優しい夢の製鉄技術の確立に邁進している。
買収によってUSスチールは、2030年までに2018年比で20%の二酸化炭素排出量削減を行なうというビジョンを描いていた。
M&Aが成立すれば、日本製鉄の粗鋼生産量は世界第3位となる。シェアが高まることによって、環境負荷の低い高級鋼材を世界中で販売する足掛かりとなる期待もあった。
経済合理性に欠ける労働組合の感情論
ここまでのメリットがあったにもかかわらず、バイデン大統領が配慮したのは、全米鉄鋼労働組合(USW)だった。
USWは民主党の支持基盤で、鉄鋼業界や製紙、林業など広範な産業85万人の組合員で構成されている。
大統領選の際、トランプ氏が日本製鉄の買収を阻止すると宣言すると、バイデン氏も組合側の意向を重視するようになった。将来的な選挙戦に配慮したものと考えられる。
USWが反対しているのは安全保障上のリスクというものだ。しかし、同盟国である日本がリスクになりえる根拠は薄い。単なる外資系企業を忌避するセンチメンタリズムとの見方が大半である。
日本製鉄による買収が完全に潰えたかといえば、そうでもなさそうだ。
自民党の木原誠二選挙対策委員長は、フジテレビの番組でバイデン大統領の買収禁止命令を非常に残念だと述べ、買収の必要性を強調した。
日本製鉄はバイデン大統領の決定は不当だと反発。バイデン大統領などを相手取り、違法な政治的介入だとして禁止命令の無効を求めて提訴した。
アメリカ大統領を日本企業が訴えた事例は過去になく、異例中の異例の出来事だ。買収の行方は司法の場に持ち込まれることとなった。
理論上は、買収提案を断る理由はないはずだ。USスチールが単独での再建を求められるようなことになれば、製鉄所の閉鎖で大量の失業者を出す恐れもある。
取材・文/不破聡 サムネイル/Shutterstock