
専門科目を教えられる先生がいない、クラス担任がいないなど、いま全国の公立学校は深刻な教員不足となっている。政府は“特別免許状”を発行し、教員免許を持たない人材を「副業先生」として確保しようとしているが、それこそが問題を助長してしまっているという。
教育の問題に詳しい鈴木大裕氏の著書『崩壊する日本の公教育』から一部を抜粋・再構成して解説する。
なぜ教員がこんなにも不足しているのか?
新自由主義の理想を追い求め、公教育に市場原理を徹底的に導入した場合、「教員」の存在とその仕事はどのように変化するだろうか。その行き着くところは、教員の非専門職化、さらには「使い捨て労働者化」ではないだろうか*1。
2016年、前著『崩壊するアメリカの公教育』(岩波書店)の中で私が発した日本への警告が、残念ながらまた1つ、現実のものとなりつつある。
「発展途上国からの『教員輸入』と使い捨て教員」と名づけた章の中で、私は教員派遣という「ビジネス」について書いているが、冒頭の文章はそこからの一節だ*2。
また、『クレスコ』の2019年5月号でも私は、教員不足に便乗した「教員市場」の形成と公教育のさらなる新自由主義化に警鐘を鳴らしている。
「今後、欠員教員を埋めるための議論が活発化する中で、国は教職の非専門職化と教員の『使い捨て労働者化』を加速させる危険はないだろうか」、また教員不足と言っても、いざ新自由主義的な視点に立てば、「日本の教員市場がようやく熟した」という見方になることを、私たちは意識しておいた方がよい、と*3。
そして今、日本では「副業先生」という言葉がジワジワと浸透し始めている。背景には、すでに社会問題となっている教員不足を、特別免許状を駆使した民間人の登用で補おうとする政府の思惑がある。
実際、2022年4月には、末松信介文科大臣が教員不足の解消に向けた特別免許状の「積極活用」を促す事務連絡を全ての都道府県教育委員会に発出している*4。日本の教員市場が熟したのだ。
特別免許状、つまり特例であるはずの免許状を、すでに常態化している教員不足の解消に用いることには深刻な危険がある。「いかに教員不足を補うのか?」は応急措置的な問いに過ぎない。
長期的により大事なのは、「なぜ教員がこんなにも不足しているのか?」という問いであり、そこを問わずして次々と非正規免許しか持たない教員を現場に送り込んでも、問題の本質的な解決にはならない。
非正規教員への依存こそが、教育現場から持続可能性を奪った
では、教員不足の原因はどこにあるのか? 慶應義塾大学の佐久間亜紀は、2000年代の小泉政権下で始まった地方分権改革と規制緩和による正規雇用教員の削減と非正規教員への依存こそが最大の原因だと指摘する。
2001年の義務標準法の改定は、それまでは生徒40人に対して1人の正規雇用教員の配置が義務づけられていたが、それを複数の非正規雇用教員で分割可能にした。
2004年の義務教育費国庫負担制度への総額裁量制の導入は、教職員給与費の総額範囲内であれば教員の数・給与・待遇を自治体が決められるように規制を緩和した。
2006年には、公立学校教員の給料の国庫負担が2分の1から3分の1に削減されたため、多くの自治体が非正規教員を雇用することで教員の数を揃えることを優先した。こうして、正規教員の数と給料が減る反面、非正規教員が激増していったのだ*5。
非正規教員は教員採用試験に受からなくても教壇に立てる反面、給料も安く、それだけで生計を立てることは難しい。教壇を去る心理的ハードルも低く、離職率も高いため、出入りの激しい「回転ドア」の図式がそこに生まれる。
つまり、非正規教員への依存こそが、教育現場から持続可能性を奪ったのだ。
「教員不足」という問題は、新自由主義的な政府による度重なる規制緩和によって作り出されたものだ。それを今、さらなる規制緩和で解決しようとする姿には、悪意すら感じられる。
政府は、2007年の教育職員免許法の改定で免許取得条件を厳格化し、さらには教員免許更新制度まで導入。このように、正規のルートで教員を目指す者への締めつけによって教員不足を加速させつつ、他方で「副業先生」をどんどん現場に送り込もうとする政府のダブルスタンダードを、私たちはどのように理解したらよいのだろうか。
大事なのは、終身雇用資格の剥奪や正規公務員から非正規契約雇用への切り替えといった、教員の身分保障の脆弱化はもはや世界的な傾向となっているということだ*6。
「副業先生」を増やすことで教職のさらなる非正規化と時間労働者化は避けられない。教員免許は、持っていれば「良い教員」というわけではないが、教員として子どもたちの前に立つための最低限の保証だ。「特別免許状」の交付に、そして教員の非正規化に、いったいどこで歯止めをかけるのだろうか。
「何で教員になったの?」
1980年代、瀕死だったアメリカの大手自動車会社クライスラーを立て直した伝説の経営者、リー・アイアコッカがこんな言葉を残している。
「真に理性的な社会では、最も優秀な人間が教員になって、他の人間はその他の職業で我慢するしかない」
残念ながら、私たちが生きるこの日本は、アイアコッカが切望した「真に理性的な社会」からは程遠い。
高校から大学院まで計8年のアメリカ留学を経て、帰国後に通信教育で2年半かけてやっと免許を取得して教員になった私に、人々は繰り返し同じ質問をした。
「何で教員になったの?」
もっと良い仕事に就けただろうに……。一様に驚く人々の反応は、日本という国が、教員が尊敬されない社会であることを物語っていた。
それと比べ、フィンランドでは教員の社会的地位が高い。そもそも大学院を出ていないと教員になれず、教員採用試験も狭き門だ。給料も待遇も良く、フィンランドの高校生の間で人気ナンバーワンの職業が教員だという。
そんな環境で学ぶことのできる生徒は、きっとスポンジのように教員から知識を吸収するだろう。
「教員の社会的地位の向上なしに日本の教育改革はあり得ない」。私が6年半の教員生活にピリオドを打ち、研究者の道を目指したのはそんな理由だった。
政府は特別免許状の「積極活用」によって、いわゆる「副業先生」をどんどん現場に送り込むことで教員不足を解消しようとしている。
私は、特別免許状が必ずしも悪いとは思っていないし、逆に正規の教員免許を持っている人間が必ずしも良い教員だとも思っていない。私自身、教員になったのは28歳の時だった。それまでに得たさまざまな経験は教員として確実に役に立ったし、人々が第二の人生として教員を目指し、多様な人々に子どもたちの教育に携わってもらうのは好ましいことだと思っている。
ただ、特別免許状の乱発による教員不足の解消が、問題の本質的な解決につながらないことは書いた通りだ。
危険な特別免許状の乱発
それにしても、なぜこのような発想が生まれるのだろうか? その背景には、貧弱な教育観に基づくいくつもの前提がある。
1 教員免許は必要ない。教科に関する専門知識さえあれば誰でも教えられる。子どもを教えるにあたり、教職課程で勉強するような子ども理解や指導に関する教育学的な知識は必須ではなく、民間企業における経験でカバーできる。
2 授業をするにあたり、指導者が生徒の名前や特性を知っている必要はない。そして、生徒は信頼関係のない大人の話でも真面目に耳を傾け、授業を受けることができる。
3 年間を通じて、複数の個人で教科指導を分割しても指導の一貫性や評価に支障はなく、生徒の成長を正当に評価できる。
4 授業時数さえカバーできれば、子どもの学習権は保障できる。
5 特別免許状を乱発しても、教員の質は担保できる。
もちろん、どれも間違っている。もし、授業を通して知識の伝達をするだけでよいのなら、確かに教員免許は必要ないのかもしれない。ただ、それなら学校と塾との違いがわからなくなる。
教育基本法が定める教育の目的は「人格の完成」であって、だからこそ学校にはさまざまな行事や課外活動が設けられており、生徒の人としての成長を促す機会がある。それらを含めたさまざまな活動を通して初めて子どもの学習権が保障されるわけであり、教科指導に関する専門的な知識だけではどうにもならない。
生徒一人ひとりの特性、長所、そして課題を見極め、年間を通して彼らの成長を見届ける「担任」が必要なのもそのためだろう。
日本における教員の社会的地位を高めることが必要だと思うか?
もし、この問いに対する答えがイエスならば、フィンランドのように教員志望者に高度で専門的な教育を課すと同時に給料を上げ、その専門性と現場での自由裁量を尊重し、多くの人々が「教員になりたい!」と思える労働環境を整えることを目指すべきだろう。
それなのに、「教員の仕事は片手間でやれる」というメッセージを送りかねない特別免許状の乱発は逆に危険だ。
確かに、日本の教員不足は猫の手も借りたいほど深刻だ。
しかし、大事なのは、これらの議論が新自由主義的な文脈の中で行われていることであり、長期的なビジョン、そして貧弱な教育観の克服なしには、いつしか教員派遣が純粋な「ビジネス」となり、利益追求の中で教育的な理念を失っていく可能性が高いということだ。
そうなれば「効率性」の追求に歯止めが利かなくなり、ICTを用いた遠隔での一斉授業、タブレットなどに依存し切った「個別最適化学習」、そして教員の削減へと向かっていくのだ。
片手間でもよければ教えたい、という教員はいらない。私たちが本当に必要とするのは、「子どもたちを教えることが私の夢」という人間ではないのか。誰もが教員になりたがる社会の実現ではないのか。
脚注
*1 鈴木大裕『崩壊するアメリカの公教育日本への警告』岩波書店、2016年、p.60
*2 ちなみに、アメリカにおける「教員輸入」の問題は、専門職職業ビザや交流訪問者ビザという政府による公式な入国許可証明制度がもたらす信憑性が、人材派遣会社による悪質な搾取の隠れ蓑になった点、先進国における人材不足を発展途上国からの派遣で解消する過程で専門職の「使い捨て労働者」化が進んだ点において、日本における外国人技能実習生制度を用いた介護士不足の解消と極めて類似している。
*3 鈴木大裕「もう『教員不足』という言葉を使うのをやめよう」『クレスコ』2019年5月号。
*4 「『教員不足』で緊急通知〝特別免許制度の積極活用を〟文科省」NHK、2022年4月21日。
*5 佐久間亜紀「なぜ教師不足が生じているのか」『教職研修』2022年6月号。
*6 勝野正章「教職の『非専門職化』と『脱』非専門職化』」『人間と教育』2018年春号。
写真/shutterstock
崩壊する日本の公教育
鈴木大裕
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