
18歳のときから7年間、家から一歩も出ずにひきこもった瀧本裕喜(ひろき)さん(44)。自分との対話を続けて、やっと部屋から出ることができたが、7年ぶりに鏡で見た自分の姿は変わり果てていた。
〈前編〉
人を殺さないためにひきこもった
瀧本裕喜さん(44)が、ひきこもりから脱する初めの一歩は、わずかな生活音の変化に気づいたことだ。
瀧本さんがひきこもって以来、1人息子を刺激しないよう両親は静かに玄関を出入りしていたのだが、玄関の扉を開け閉めする音が、ひきこもって5年過ぎた頃から大きくなったのだという。
「ひきこもっている間は、聴覚がすごく鋭敏になったんです。名探偵コナン君の推理じゃないけれども、生活音が変わるのは、何かしら心境の変化があったはず。
僕がひきこもっていることを、両親は特別視しなくなったんだと思ったんですね」
また、ひきこもった当初はひきこもりの人を犯罪者のように扱う本がリビングに置いてあったが、時間が経つにつれ、生きづらさを抱えるひきこもりを理解しようとする本が増えてきた。
瀧本さんは本を手に取り、両親が心理系の勉強をしているのだろうと考えた。
両親の変化を肌で感じたことで、「自分も変われるかもしれない」と思い始めたという瀧本さん。ひきこもって7年目のある晩、こんな夢を見た。
「理想の自分と対話した夢です。理想の自分は、ひきこもっている僕を全肯定してくれました。この7年は一見、生産性がないように見えても、自分は殺意が暴走しないようにひきこもることを選択したんだ。
心がボロボロになっても、誰かを守るために最善を尽くしたんだ。そのように自分のことを認めたら、忍耐強くてカッコいいかもって(笑)。
夢を通して自分の思いが整理されて、それが、部屋を出るきっかけになりました」
「どうして裸なの?」と母に聞かれて
7年ぶりに洗面所の鏡で自分の顔を見ると、あまりの変わりように驚いて15分ぐらい固まってしまった。
髪は伸び放題で、25歳なのに長年のストレスのせいか白髪まである。体重計に恐る恐る乗ると、何回測ってもエラー。100キロを超えていたので測定不能だったのだ。
お風呂に入った後、タオルを体に巻き付けて、ずっと触っていなかったピアノの前に座る。
『エリーゼのために』『月光』『別れの曲』など慣れ親しんだ曲を弾いていると、母親が車で帰って来る音がした。いつもなら顔を合わせないよう、脱兎のごとく逃げてしまうのだが、そのまま弾き続けた。
母親はピアノを弾く息子を見ると、こう声をかけた。
「どうして裸なの?」
まるで昨日の会話の続きのようで、瀧本さんは自然に答えていた。
「太り過ぎて下着も服も入らないから、タオルを巻くしかない」
母親はすぐ父親に電話をかけて「裕喜が7年ぶりに話した! 1番大きいサイズの服と下着を買ってきて」と頼んだ。
「歴史的な出来事ぐらいな勢いで(笑)。
だけど、それを言って、またひきこもったらマズいと考えて、次に気になったことを聞いたみたいです」
外に出て最初にしたのは、痩せるために真夜中に家の近所を歩くこと。お腹がつかえて自分では靴紐も結べず、母親が代わりに結んでくれた。
5分も歩くと息切れがして体が悲鳴を上げたが、じょじょに距離を延ばして行き、1年間で30キロ以上体重を落としたという。
面接でババを引いたような顔をされた
体力が戻ったところで、コンビニのアルバイトに応募した。面接で7年間ひきこもった話をしたら、それまで和やかに話をしていた面接官が目も合わせてくれなくなったそうだ。
「ババ抜きでババを引いたような表情をしていました(笑)。面接官からすると、ひきこもりは、おそらく理解する材料が少ないので、どのように向き合えばいいのか分からなかったのだと思います。
でも僕は、ひきこもっている自分を認められたから外に出られたのに、社会復帰するならひきこもりを隠さないといけないのかと矛盾を感じました。
そのとき頭に浮かんだのは、体重計に乗ってエラーが出たときの映像です。ひきこもりは人間としてエラーなのかと思いましたね」
地元ではアルバイトが見つからず、名古屋まで行ってキャリアカウンセラーに相談したが、「前例がないので申し訳ありません」と丁重に断られた。
またいろいろな人から、「社会復帰するなら、ひきこもったことは絶対に隠した方がいい」とアドバイスを受けた。
27歳のとき、拠点を東京に移して祖母と2人で暮らし始めた。カウンセラーの資格を取れる学校に通うためだ。
だが、そもそも18歳で上京した際、祖母から愚痴を延々と聞かされたことで精神的にダメージを受け、ひきこもってしまったのだ。
そんな祖母の元に戻って大丈夫だったのかと聞くと、瀧本さんはあっさり言う。
「おばあちゃんの毒は相当強かったけれども、18歳のときみたいにグサッときたり、憎しみを感じることはなかったです。おばあちゃんはそう思っているんだね、みたいな感じで。
僕の盾が強くなったのかわからないですけど。あんなに悩んでいたのは何だったんだと思うぐらい(笑)」
東京に来てもアルバイトの面接が通らなかったので、苦し紛れに公園で悩み相談を始めた。
「悩み相談も含めて、どんな話でも聞きます」と書いたプラカードを持って公園のベンチに座っていると、珍しがって声をかけてくれる人が12分に1組くらいいたそうだ。
「女子高生は好きな人にどのように告白するか、お年寄りの方は余生をどう過ごすか、みたいな感じで。これをやり続けていれば、誰かとつながれるかもしれないと思ったけれども、半年後に管理局の人に『ベンチを占拠しないでください』と怒られてやめざるを得なくなったんです」
ひきこもりの経験は資産だ!
カウンセラーの仕事をしながら30代半ばでライタースクールに通い始めた。「表現力を磨いていけば周りに理解してもらえるのではないか」と思ったのだ。
事務局の人に「ひきこもりのことを発信してみたい」と伝えたところ、『ひきこもり新聞』、『不登校新聞』(24年に終了)という媒体につながりができて、自分の体験談などを書いた。
記事を書くとクレジットが残るので、編集者に名前を覚えてもらえる。少しずつ理解者が増えて、ひきこもりの家族会が発行する雑誌でもインタビュー記事などを書くようになった。
ただし、ひきこもり関連の媒体で記事を書いても、食べてはいけない。瀧本さんは、貸し会議室の管理の仕事をはじめ、いろいろなアルバイトをして生活費を稼いだ。
「バイトは信頼できる人の紹介だったので、ほぼ顔パスでした。ひきこもりでも特別視されず、むしろユニークでおもしろいと言われました」
ひきこもった話をあちこちで発信していたら、「おもしろいから講演をしてみたら」と勧められた。今では年に数回、ひきこもりの家族会や自治体などに招かれて、経験を話している。
「僕は、ダメダメな弱い部分を最初からさらけ出すんですよ。だから、瀧本裕喜という名前は忘れても、体重計のエラーとかババを引いた話、『どうして裸なの?』という話をした人だと覚えてもらえる(笑)。
親御さんからは『安心した』とよく言われます。ひきこもりから立ち直った直後の写真を見せると、『うちの子はここまでひどくない』って(笑)。
今までマイナスだと思ってモヤモヤしていたことが、話のネタや人とつながるきっかけになるんですね。
おかげで、ひきこもりの経験は恥ずかしい黒歴史ではなく、資産なんじゃないのと発想を転換できたんです」
理想のタイプは絶滅危惧種⁉
昨年から力を入れているのは、自分がピアノを弾く動画をYouTubeにアップすること。
その動画を観てコンタクトしてくれた人にインタビューして、「悩んだときの自分との向き合い方」など、生きるヒントにつながる記事を書いてみたいという。
「ピアノを弾くと、普段は知り合えないような人と仲よくなれるんですよ。ショパンコンクールで審査員をしている先生とは、弾き合い会でつながりました。
ひきこもり関係にいると希少価値がないけれども、ピアノが弾けるひきこもり経験者は、一般社会ではレア枠なので、サクサクと交友関係がつながるんです。バイトの面接は通らなかったのにね(笑)」
目標に向かって着実に進む瀧本さん。「あとは結婚ですね」と言うと、「こんな僕を受け止めてくださる方がいれば」と謙虚に答える。
「でも、母には裕喜の理想のタイプは心が透明で知性があって奥ゆかしい絶滅危惧種のような人だよねって茶化されますが(笑)」
〈前編はこちらから『祖母の呪言で7年間、自宅にひきこもり…「それが僕の最大の社会貢献だと思った」44歳男性の孤独な戦い』〉
取材・文/萩原絹代