
西武ライオンズ、韓国の斗山ベアーズ、千葉ロッテマリーンズの監督を歴任し、現在は解説者として球界に携わり続けている伊東勤氏。1980年代前半から2003年まで長らく選手として活躍ができたのは、新人時代に当時の西部ライオンズ監督の広岡達郎氏に厳しく鍛えてもらったからだという。
書籍『黄金時代のつくり方』より一部を抜粋・再構成しその厳しさに迫る。
黄金期主力の体は広岡イズムの成果
※「広岡管理野球」として知られる名将・広岡達郎。1970年代にヤクルトスワローズの監督に就任すると飲酒や食事の制限、トレーニングメニューの改善などに取り組んだ。今では当たり前とされているが、当時の球界では異例の厳しさとされていた。
遠征先でも白米を食べさせず玄米を食べさせる、肉ではなく魚や野菜中心の食事制限に対しての先輩方の反発はかなり激しく、喧嘩になる寸前の状況までありました。やりそうな雰囲気はあったのですが、結局は裏で文句を言うだけで実際の行動には移しませんでした。
先輩たちは納得しないままでしたが、だんだんと時が経つにつれて、様子が変わっていきました。他のチームでは夏場になるとケガで離脱する選手が多くなる中で、当時の西武は故障者が出なくなっていました。戦力的にダウンすることなく、シーズンを走りきって、勝ちまくってみると、やはり食事が良かったのかもしれないと、みんなが思うようになっていました。
加えて、ただ制限するだけではなく、理屈を説明してくれたのも良かったと思います。疲れたときのバカ食いはかえって消化吸収に悪いとか、暑いときに冷たいものを摂取しすぎると疲れるとか、体力勝負だからといって肉ばかり食べていると疲労が回復しない、ケガが治りにくい体質になるとか……いろいろと誤った知識を改め、正しい知識を教えてくれるようなことがありました。
確かに、ケガをした選手たちが肉ではなく魚と野菜を中心とした食事にしたところ、思いのほか早く復活できたということもありました。とにかく、体力的に夏にバテる人が少なかったです。
ただ、首脳陣が率先して、そういう健康的な食生活をしていたかというと、まったくそうではありませんでした。節制が必要なのはあくまでも選手。
監督、コーチ陣は、寿司屋に行った、焼肉屋に行った、カラオケに行ったと、なんの制限もなかったようでした。でも、選手には「選手生活を長くしたいなら、しっかりやれ」とずっと言っていました。
オフに入ると、結婚している選手の奥さんを呼び、栄養士を招いて、食事や栄養の勉強会をやっていました。こういうものを食べさせてくれとか、野球選手にはこういう食事が適しているとか……。過去、他の球団ではやっていなかったと思います。
今でこそ、栄養指導をするチームもあるようですが、当時、オフにそういった勉強をするのは画期的でした。
体が資本というところを徹底していたとも言えますし、それから他の人があえてやらないところまで、いいと思うことは徹底的にやらせたことが大きな差を生んだように思います。
広岡さんが辞めたあとは、森祇晶さんが後任として監督を務めました。管理野球は継承していましたが、こと食べ物に関しては、好きなものを食べて良いということになりました。
それは大変な解放感がありました。その他の生活や野球に関しての管理は変わらなくとも、食べ物が自由になっただけで、広岡さんに比べたら全然楽でした。
一方、森さんに代わっても「広岡イズム」というようなものは浸透していました。みんな土台からしっかりとつくってもらっていたのです。その当時若かった選手たちが、西武黄金期と呼ばれる時代の主力になっていったわけですから。
私も、現役を終えて監督になったときに初めて「ああ、こういうことだったんだな」と、指導する側になってわかりました。
のちに広岡さんにお会いしたときも、当時、いろいろ教えていただいたことを参考に選手たちに指導をしていますと、話をしたことがあります。
時間管理も厳しく
広岡さんが築いた礎は、食生活だけではありませんでした。チームを運営していく上での規律については、厳しく指導していました。ただ、それが何か特別なものだったかというと、そういうことではなく、学生やアマチュアの強豪チームであれば当たり前のことではなかったかと思います。とにかく、シーズン中は野球に集中するというのが貫かれていました。
ただ、プロは職業ですから、個人が自分の人生を切り拓いていかなければいけない中で、すべて管理されるままではいられないと思う瞬間がどうしてもあるわけです。そこが難しいところです。
たとえば、時間の管理も大変厳しく、罰金制度が導入されていました。今はそういったことは許されていないと思いますが、当時は罰金があるチームも少なくなかったと思います。
たとえば、バスの出発時刻が3時だとしたら、ベテランでも2時50分には乗っていました。そうなると、我々若手はそれより前にいないといけませんから、2時40分には乗っていました。
それが、ベテランと同じような時間になろうものなら、きつい目で見られました。もちろん、遅刻する選手はいません。
さすがに首脳陣はそこまで前もって来ることはありませんが、バスが定刻から遅れて出るということはあり得ませんでした。
圧のある監督
広岡さんの管理方法には決まりがあって、必ず担当コーチやマネージャーを通して指示を出していました。
私も4年間お世話になりましたが、最初の3年間は、世間話のような会話をしたことは一度もありませんでした。野球の技術、バッティングやスローイングの形だとか、そういう指導は受けましたが、それだけでした。
そして、笑わない人でした。なので、近くに来るだけで何かすごく「圧」がありました。『がんばれ!!タブチくん!!』というアニメで、ヒロオカさんというキャラで登場していましたが、まさにそんな感じで、空気がひんやりしていました。
高知の春野でキャンプをしていたのですが、当時はまだ室内練習場がなくて、雨が降ったときはメイン球場の脇にある狭いブルペンで投球練習をしていました。広岡さんは、投げているピッチャーのすぐ横に立って見ているんです。
私にとっては、それがものすごいプレッシャーでした。「そこに広岡さんがいる」っていうだけでダメなんです。
私はキャッチャーだったのでピッチャーに返球するとき、もし抜けてしまって広岡さんに当たってしまったらと考えると、もう縮こまってピッチャーのところへ投げられません。引っかけてワンバウンドで返したりして、危うくイップスになりかけました。
「お前、なんだ、肩が痛いのか?」って広岡さんに聞かれ、「いや、あんたがそこにおるからやろ!」と言いたかったのですが、言えるはずはありません。とにかく、プレッシャーをかける監督でした。
写真/shutterstock
黄金時代のつくり方 - あの頃の西武はなぜ強かったのか
伊東勤
80~90年代、「最強軍団」と称された黄金時代の西武ライオンズで正捕手を務めた著者が、直に見てきたチームが強くなっていく過程を語る一冊。
・今となっては感謝しきりの「広岡管理野球」
・捕手としての「本当の師匠」は誰なのか
・他チームの監督になって初めて受けた衝撃
など、プロ野球ファン必読エピソードが多数!
監督としても西武を日本一に導いた後、ロッテや中日など他チームでも監督・コーチを務めたことで見えてきた「あの頃の西武」の強さが今、明らかに。