〈カープ・新井貴浩の流儀〉踏まれても踏まれても真っすぐに…選手会会長時代はWBC辞退も示唆した“広島のガンボたれ”の原点
〈カープ・新井貴浩の流儀〉踏まれても踏まれても真っすぐに…選手会会長時代はWBC辞退も示唆した“広島のガンボたれ”の原点

野球のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。日本は第1回、2回大会を連覇したものの、その収益分配をアメリカがほぼ独占する不公平な状態となっていた。

そんなとき、『絶対譲らない。もう出ませんよ』と言い切った男がいた。当時、プロ野球選手会の会長を務めていたカープの新井貴浩である。 

「守れない、打てない。よくプロに入ったなと思った」(中畑清) 

新井貴浩は決して自ら望んで日本プロ野球選手会会長になったわけではなかった。むしろ、前任者の宮本慎也から何度も電話でオファーを受けながら、断り続けていた。

当時、FA で広島カープから阪神タイガースに移籍してきたばかりの男は、のしかかる人気球団の重圧の中で、選手としての責任を果たそうと必死にあがいていた。そのためには、選手会の仕事よりもまずはプレーに集中したかった。

しかし、宮本は諦めていなかった。では、少しでいいから時間を作ってくれ、と告げて直接要請にやってきた。

「宮本さんが、事務局のスタッフと一緒に日帰りでわざわざ、大阪のホテル阪神に来られて頭を下げられたんですよ。そこまでされるともう断れないじゃないですか。

本当はやりたくなかったんですよ」

しかし、いったん会長を引き受けてからの新井の活躍は水際立ったものがあった。1985年に選手会労組を立ち上げた初代会長の中畑清は駒澤大学の先輩にあたる。その中畑がこう言う。

「新井は人の心の痛みを知っているやつだからね。世のため人のために動くっていうのは、あいつの性に合ってんのよ。選手としては、俺は駒大時代から見てるんだけど、全然使い物にならなかったよ。よくプロに入ったなと思った。

カープのキャンプを見に行ってもひどかったんだ。守れない、打てない。でも、本当にひたむきに、とにかく一生懸命やって名球会まで入った。だから、下手くそと叩かれても辛抱強く努力する選手の気持ちが分かる。そんな新井だから、あの大役を担えたんだよ」

その新井が静かに深く憤怒していたのは、2011年のことである。

「WBC (ワールド・ベースボール・クラシック)ではジャパンマネーがほとんど全部、アメリカにいっているんです。しかも日本は二大会連続して優勝しているにもかかわらず、NPB(日本野球機構)が赤字だったんですよ。

日通とか、日本マクドナルドとか、日本生命とか、そういう日本ラウンドのスポンサーの収益も全部、MLB(米国メジャーリーグ)と MLB の選手会がずっと吸い上げていたんです。『それは、おかしいでしょう』というところから、問題を提起していきました」

二年後の2013年に控えた第3回 WBCを前に、日本プロ野球選手会会長は大会二連覇の熱に流されることなく、冷静に WBC というトーナメントの在り方を検討していた。

あまりに不公平だったWBCの収益分配 

FIFA(国際サッカー連盟)や IOC(国際オリンピック委員会)がそれぞれ主催するサッカーW 杯やオリンピックと大きく異なり、WBC は出場参加国に対するスポンサー権、商品化権が一切認められていなかった。

アサヒビールをはじめとする日本企業は膨大なスポンサー料を WBC に支払っているが、それがまったく還元されずに主催組織である米国 WBCI(MLB と MLB 選手会の共同設立会社)に吸い取られていた。

サッカーW杯であれば、本大会に出場すれば、ボスニアのようにサッカー協会が自社ビルを建設するほどの大きな恩恵がある。

しかし、アメリカが一方的に収益配分を決める WBC は、例え大会スポンサーのほとんどを日本企業が占めていても、そしてまた日本代表が戴冠を続けても、収益の66%を WBCI が独占(日本は13%)していた。

そのため日本をアメリカが ATM 代わりに使っているだけではないかとの批判がなされていたのだ。

この問題を重く見た選手会会長(当時)の新井は2011年7月22日に選手会労組の臨時大会を開いた。その会合で「WBC に出場するうえにおいては、スポンサー権、ライセンス権をすべて運営会社の WBCI に譲渡するとされているが、この規定を変更するまでは日本は出場しない」と決議し、宣言をした。

この年は3月11日に東日本大震災があり、被災地支援のためにセ・リーグのシーズン開幕をパ・リーグに合わせて延期させることに新井は奔走し、これを実現させている。つまり野球界の未来を左右する大きな事案を同じ年に二つも扱っていたことになる。

だが、WBC参加条件を提起してから一年が経過しても、WBCI 側からは何の反応もなかった。 2012年7月20日、新井は会見を開き「日本が本来持つべき固有の権利を MLB が奪い取る構図になっている」と指摘し、あらためて選手会の総意として「大会不参加」を表明した。

「それこそ、日本が連覇をしている今だからこそ、闘えると思って『もうこれ、絶対譲らない。もう出ませんよ』と言い切ったんです」

最後はアメリカか日本か、どちらかが妥協するまで意地を張り通すチキンレースになるだろうと目されたが、新井は一歩も引かなかった。一方、早い段階から、NPB は WBC への

参加を表明していた。選手会は独自の判断を選択したことになったのだが、このねじれは

NPB 側の思考停止に起因していた。

最もコミッショナーになってはいけない人物 

本来、日本代表のライツを守り、NPB の赤字を改善するように WBCI に要求すべきは、 NPB トップである加藤良三コミッショナー(当時)であった。加藤は元駐米日本大使であり、コミッショナー就任時に米国への大きなパイプを期待する声も一部の評論家の中ではあったが、それはあまりに浅はかな期待であった。

駐米大使であればこそ、米国に従順であることは、日本の戦後外交の歴史を見ていけば明ら かであった。日本の主権を侵害している日米合同委員会のトップは外務省北米局長である。実際、WBCI との不平等条約の改正についてはまったく逆に機能していた。

加藤は問題の本質に一切、触れようとせず、ただただ「ファンのために WBC へ参加すべきだ」との主張を繰り返していた。米国への交渉において、その属性から、加藤はこの時期に最もコミッショナーになってはいけない人物だった。

新井はなぜこれほど大きな国辱的問題にコミッショナーがまったく動かないのか、いらだ ちを感じながらも選手会として NPB との協議を継続させていった。結果的に NPB は選手会に尻を叩かれるかたちで WBCI と交渉し、付帯条件として WBC のロゴを使わなければ、独自のスポンサー活動ができるということを確約させた。

最終的にこのチキンレースは、WBCI による収益の配分こそ変わらなかったが、スポンサー権や日本代表グッズの商品化権は認められた。本来、保持して当たり前の権利を取り戻したことで、収益増は確実に見込めることとなった。

このあたりが、落としどころと見た新井は9月4日に WBC への参加を決めた。アメリカを前に腰の重かったNPB を選手会が動かしたことは大きかった。駆け引きを成功裏に終えた新井は、甲子園での試合開始前にユニフォーム姿で記者会見を行なったが、柔和で温厚な普段の表情とは打って変わり、珍しく語気を強めて名指しで球界の最高権威を批判した。

「これまでのこの屈辱的な条件の中で、加藤コミッショナーが、『日本の野球界のことを考えて WBCに参加すべきだ』と言われていたことが残念でなりません。コミッショナーこそ、先頭を切ってWBCI と闘ってほしかった」

「(新井は)広島弁でいうガンボたれですよ」 

この新井のふるまいを見て、「9歳の頃から、まったく変わっていない」と感慨に浸っていた人物が広島にいた。かつて広島市の小学校教員で、現在は広島都市学園大学で子ども教育学部の学生たちを指導している佛圓弘修教授である。

ここで外務省も腰を引くアメリカに頑として筋を求める新井のルーツに迫ってみる。

佛圓は20代のときに自ら望んで教育困難校に赴任していった。その西区の小学校で他の児童よりも頭ふたつ抜け出た体の大きい少年を三年時に受け持つことになった。

それが新井だった。

「広島弁でいうガンボたれですよ。負けず嫌いで勝負事は絶対に逃げないような子でした」

いつも強気で上級生にドッジボールで勝負を挑まれたら、真っ向から受けて立って勝利した。苦手な水泳では負けることが分かっていたが、それでも息が続く限り泳ぎ続けてクラスメイトからの喝采を浴びた。

一方で弱い者いじめは絶対に許さず、そんな現場を見つけると必ず抑止した。マサル君という障がいを持った子がクラスにいた。インクルーシブ教育などという言葉もなかった時代だが、人権教育の先進県と言われた広島では、当たり前のように一緒に授業を受けていた。

休み時間などで体の小さなマサルがからかわれそうな空気になると、新井は即座にそばに寄って、手を繋いでいた。「マサルをイジメる奴は、わしがシゴウしちゃるけえ、覚悟せえ」と無言でガードしたのである。

子どもたちに読者の習慣をつけてほしいと考えた佛圓は、自費を投じて学級文庫を作った。その中の一冊が「はだしのゲン」だった。9歳で親や兄弟を原爆で亡くしながら、戦後の混乱期をたくましく真っすぐに生きる少年ゲンの物語である。

新井はそれをボロボロになるまで読み込んでいた。

「私は被ばく二世、新井君は被ばく三世です。私は『ゲン』のシリーズを揃えましたが、彼は授業が終わってもすぐに帰ろうとせずにいつも残って食い入るように読んでいました。心優しい少年が社会悪や矛盾に懸命に立ち向かう姿に心打たれたんでしょうね。ガンボたれは『僕はゲンになりたいんです』と、ことあるごとに言っていました」

その夢はまず小学3年生で実現する。「学習発表会」というクラスごとに出し物をする会があった。佛圓学級は、当然のように「はだしのゲン」の演劇を行なうことになった。そして児童の投票で決められた配役では、主人公の中岡元に新井が全員一致で選ばれた。

「あのイチローでも野球殿堂入りは満票ではなかったですよね。でもうちのクラスは、100%でしたよ(笑)」

「はだしのゲン」の作者との会談 

マサルをはじめ児童全員が新井をクラスのリーダーとして認めてくれていた。新井は、ゲ ンが父から受けた遺言「どんなに踏まれても踏まれても真っすぐ伸びる麦のように生きろ」を舞台の上で力強く短いセリフでいい切った。

「わしゃあ、麦になるんじゃあ」

クラスの誰一人として取り残すことなく、全員が楽しい学校生活を送ってくれることを考 えて学級運営をしていた佛圓は「新井君は太陽のようにクラス全員を照らしてくれました」という。

佛圓はしかし、一年間しか新井の担任をすることができなかった。ガンボたれは3年生を終えると同時に転校することが決まったのである。佛圓はお別れの会を開いた。マサルは朝から、新井の胸に顔をうずめて「行かないで! 行かないで!」と号泣し、クラスの仲間もそれを見て皆、もらい泣きしていた。

新井と佛圓は転校後も深く結びついていた。新井が広島工業高校の三年生のとき、ユニフォーム姿で小学校の職員室に入ってきたことがあった。

「先生、広陵に勝ちました!」

二岡智宏(のちに巨人など)、福原忍(阪神)を擁し甲子園でも優勝するのではないかと言われていた広陵を県予選の3回戦で下し、そのことを報告するために球場から直行して来たのである。

「新井君がその後、カープに入団してプロになって、阪神に移籍して選手会の会長になってがんばっていたのは、知っていました。9歳のときの新井君がクラスの特に弱い立場の子たちと繋がりながら、物事を皆のために進めていくのを見ていましたから、私は強さと優しさを持っていたあのときと同じだと感じたわけです」

阪神の四番を務めながらの WBC との折衝はあまりの激務であり、新井の身体がガタガタになったときは、元担任の血が騒いだ。

励まそうと考えた佛圓は「お前の一番好きな人に会わせてやる」と伝えた。「はだしのゲン」の作者である中沢啓治氏との会談をセットしたのである。

当時、中沢は肺がんで入院中であったが、平和教育を長きにわたって行なっていた旧知の佛圓の依頼を快諾してくれていた。

「阪神に行くとは、いったいどういうことか!」 

新井は小学三年生以来、憧れていたゲンの作者との対面に緊張していた。病室に入ると、 中沢はあいさつもそこそこに、いかに自分がカープを愛しているかをとうとうと語り出した。

自分は「広島カープ誕生物語」という漫画を描いたほどにこの地元球団を創立以来、応援してきた。焼野原になった広島の復興のシンボルであり、資金難のときは市民が樽募金で支えた。それなのに広島生まれで広島育ちの選手が阪神に FA 宣言して行くとは、いったいどういうことか!

新井は思わず、身をすくめた。しかし、中沢はすぐに満面の笑みを浮かべた。

「わしは阪神に行ったあと、選手会長になってからの君の動きをずっと見ておった。東日本大震災の年に文科省に掛け合ってシーズン開幕を延期させたこと。そしてアメリカに向けて、不平等な条件を抗議して権利を勝ち取ったこと。素晴らしかった。わしは君を見直した。君はどこへ行っても広島の子じゃ。ずっと応援しとるけえな」

佛圓は中沢との病室での会談の際、手垢でボロボロになった「はだしのゲン」の9巻を持 って行っていた。

「たまたまこれだけが手元に残っていましたが、これは新井君が読み込んだものです」

中沢は表紙を愛しそうになでると「漫画家冥利に尽きるのう」と微笑んだ。

ゲンの9巻にはこんなシーンがある。

ゲンと同じ戦災孤児の夏江という女子が原爆の後遺症で命を落とすと、病院の連絡を受けた役人がやってきて、夏江の遺体を渡してくれたら、立派な葬儀を我々で行ない、そのうえで3万円の香典料を出すと言う。ゲンはこれに激怒する。

「おどれらアメリカの手先になって原爆の資料をせっせと集めている ABCC(米国原爆傷害調査委員会)じゃろう」「おどれら日本人のわしらを助けるためじゃないわい。アメリカの国が原爆をおとされたときの準備にアメリカ人のためにせっせと資料をあつめるだけじゃ」「やっと静かなねむりについたのに死んでまで原爆を落としたアメリカのくいものにさせてたまるか」と怒りをぶつけて追い返してしまう。

はだしのゲンは現在、25の言語に翻訳されて世界中で出版されているが、原爆の悲劇を何も知らないアメリカの若者に読ませようと、初の英語翻訳版を1978年に完成させた編集者の大嶋賢洋氏はゲンの魅力をこう分析している。

「原爆投下は明らかに国際法違反で人類に対しての犯罪。でも漫画の中ではゲンだけが唯一アメリカに対して『お前たちなんでことをやったんだ!』と真っ当に怒っている。その真っ当に怒ること自体が日本政府としては今は困ったものだと思っている」

「買ったつもりもないのに次々と苦労に襲われるんです(笑)」 

戦後 GHQ の支配の下で言論までも統制されていく中、こざかしい日本の大人たちは保身と出世欲で同胞の遺体を平気で人体実験用に差し出すが、ゲンは、臆さず不条理に怒り、正論をぶつける。それは政治的な反米思想などではなく、7歳で父を亡くした体験から得た、不条理を放置せず真っすぐに生きる考えに根付いたものであった。

中沢は、文科省やアメリカに向かって筋の通った主張を続けた新井にゲンの姿を見たに違いない。新井は今、振り返る。

「若い頃の苦労は買ってでもしろと言われますが、僕は特に買ったつもりもないのに次々と苦労に襲われるんです(笑)。でも選手会の会長は本当にやって良かったと思います。しんどかったですけど、あれほど社会人として勉強になった経験はありません」

大学時代はエリートとは程遠く、打率.241、本塁打2本でドラフト6位での入団、FA で阪神移籍後は、地元のファンから手ひどいバッシングを受けた。そして選手会会長の任期中に起きた未曾有の大震災と原発事故、さらには WBC を直前に控えた米国との待ったなしの交渉。

それでも新井はこの2011年に初の打点王を獲得している。激務が続き練習どころか、睡眠もろくに取れないシーズンだったが、「選手会の仕事を不振の言い訳にしたくなかった」。

踏まれても踏まれても真っすぐに。新井は麦になった。

取材・文/木村元彦  

編集部おすすめ