「神宮球場は神聖な道場です」再開発で揺れる神宮外苑…ヤクルト初の胴上げ監督、広岡達朗氏が聖地の建て替えに思うこと〈神宮球場プレ100周年〉
「神宮球場は神聖な道場です」再開発で揺れる神宮外苑…ヤクルト初の胴上げ監督、広岡達朗氏が聖地の建て替えに思うこと〈神宮球場プレ100周年〉

2026年で誕生100周年を迎える明治神宮野球場。この球場を本拠地とする東京ヤクルトスワローズでは前身球団を含めて今まで5人の監督が胴上げで神宮の空を舞っている。

1978年、球団初の日本一を成し遂げた広岡達朗氏は再開発に何を思うのか。

 

熱狂的ヤクルトファンとして知られるノンフィクションライターの長谷川晶一氏が著した『神宮球場100年物語』(朝日新聞出版)より一部抜粋、再構成してお届けする。

5人のヤクルト歴代優勝監督

長年にわたって東京ヤクルトスワローズの「応燕」を続けているということは、本書において何度も触れてきた。

前身の国鉄スワローズが誕生したのが1950(昭和25)年のことだ。
その後、サンケイスワローズ、サンケイアトムズ、アトムズ、ヤクルトアトムズ、そしてヤクルトスワローズと変遷し、古田敦也監督時代の2006(平成18)年からは「東京」が冠せられ、現在の東京ヤクルトスワローズとなった。これまでこのチームはリーグ優勝9回、日本一には6回輝いている。歴代優勝監督は次の通りだ。

広岡達朗(☆1978年)
野村克也(1992、☆1993、☆1995、☆1997年)
若松勉 (☆2001年)
真中満 (2015年)
髙津臣吾(☆2021、2022年)
※☆は日本一

広岡監督が神宮の夜空を舞ったのは、私が8歳の頃のことだった。この頃はまだ野球に興味も関心も持っていなかったけれど、優勝翌日のサンケイスポーツ1面をモチーフにした下敷をヤクルトレディ(当時は《ヤクルトおばさん》と呼ばれていた)からもらって、しばらくの間使っていたことを記憶している。

その後の野村、若松、真中、そして髙津監督の胴上げシーンはすべて現地観戦し、この目で目撃している。それぞれ、大学時代、会社員時代、フリーランスライター時代であり、たまたま私の20代、30代、40代、50代と重なっている。

私が10代だった80年代はまったく勝てず、初めてファンクラブに入会した80年に2位になって以降はずっとBクラスで、「弱い、弱い」と思っていたけれど、その後は実に8回もリーグ優勝を経験しているのだから、実は意外と強いのかもしれない。

野村監督が初めて神宮で胴上げされたのは93年のセ・リーグ優勝試合だ。

その前年は甲子園球場でリーグ制覇を果たし、日本シリーズでは西武ライオンズに敗れたため、本拠地である神宮球場での胴上げはこのときが初めてだった。

5人の歴代優勝監督が、初めて神宮球場で胴上げされた日時は次の通りだ。

広岡達朗……78年10月4日(セ・リーグ優勝決定)
野村克也……93年10月15日(セ・リーグ優勝決定)
若松勉 ……01年10月25日(日本一決定)
真中満 ……15年10月2日(セ・リーグ優勝決定)
髙津臣吾……22年9月25日(セ・リーグ優勝決定)

繰り返しになるけれど、広岡監督以外は、すべてこの目で見届けている。私にとって、唯一、この目で観戦していない優勝の瞬間、それが広岡達朗の胴上げなのである。

「神宮球場は神聖な道場です」(広岡達朗)

「優勝の瞬間? よく覚えていないなぁ……」

電話の向こうの広岡達朗は、困惑した様子で言った。すでに92歳となっている。半世紀近くも前の出来事だ。記憶が曖昧なのも仕方がない。
それでも、当時の状況を事細かに説明し、当時の選手たちから聞いたコメントを伝えていくうちに、少しずつ記憶の奥底に眠っていた感情が呼び起こされていくようだった。

「そうそう、あのときは優勝と同時に観客がグラウンドになだれ込んできて、収拾がつかない状況の中で胴上げをされたんだ。選手たちに胴上げされながら、興奮したファンの人たちが狂喜乱舞しながら取り囲んでいる。ある種の恐慌状態だったと言えるでしょうね」

球団史上初となる優勝監督となった広岡さんは早稲田大学野球部員として、大学時代から神宮球場で活躍した。神宮球場の思い出について尋ねると、少しだけ饒舌になった。

「私は広島の呉から上京して早稲田に入学した。当時から、神宮球場は憧れの球場ですよ。初めてグラウンドに足を踏み入れたとき、試合に出たとき、いずれも震えるような興奮と感動を覚えたものでした。何しろ、学生野球の聖地なんだから」

ちなみに、明治神宮外苑が1977年に発行した『半世紀を迎えた 栄光の神宮球場』には、この時期の思い出を語る杉下茂のコメントが掲載されている。明治大学から中日ドラゴンズに入団し、「フォークの神様」と呼ばれた大エースである。

神宮球場は接収されていましたから好きな時間に使えるはずもなく、たしか早大とのゲームであったと思いますが、午後もおそくの試合開始で九回近くには暗くなりました。その翌日、二回戦でしたが、朝八時か九時からのゲームです。これを連投したのですが、あの食糧事情でしょう。これはこたえました。

この『栄光の神宮球場』には、当時ヤクルト監督だった広岡氏のコメントも掲載されている。

神宮球場は神聖な道場そのものでした。

それから半世紀近くが経過した今、改めてこの言葉を広岡さんに伝える。

受話器の向こうで、彼は静か口調で言った。

広岡達朗が語る新神宮球場に望むこと

「その思いはまったく変わりません。神宮球場は神聖な道場です。選手として、コーチとして、そして監督として、私は神宮球場に育てられました。ヤクルト時代は、私にとって、今でもいい思い出ですから」

92歳となった名将の言葉が、深く、静かに私の中に染み入っていくようだった。

球界のご意見番として、現在でも舌鋒鋭い提言を続ける広岡さんに改めて「神宮再開発」について尋ねると、「ラグビー場と野球場を入れ替えるんだろう」と彼は言った。
これまでの広岡氏の発言から、開発に否定的なコメントとなるのだろう。そんな予想をしていると、彼は意外な言葉を口にした。

「古くなって不具合が生じてきたのなら、新しくするのは当然のこと、修理して対処できないのなら、取り壊して新しいものを作ることは自然の摂理」

いいものはいい、悪いものは悪い。常に是々非々である広岡氏らしい発言だと言えるのかもしれない。さらに彼は続けた。

「大切なのは、これまでの神宮球場らしさをきちんと受け継ぐこと。その上で、選手たちにとって最適な野球場を作ること。

そうであれば。私としては何も言うことはない」

順調に計画が進めば、新球場が完成するのは2032年のことになる。このとき、広岡さんは百寿、つまり100歳となる。

「私が100歳のときに新球場が完成する? その頃には私はいない……」

決して冗談めかした口調ではなく、真剣な物言いだった。

「……新しい時代は、新しい人たちが作っていけばいい。大切なのは、常に真理を見つめ続けること。物事の本質を忘れないこと。そうすれば道を誤ることはない」

92歳の老賢人の言葉は重い。

『神宮球場100年物語』(朝日新聞出版)

長谷川晶一
「神宮球場は神聖な道場です」再開発で揺れる神宮外苑…ヤクルト初の胴上げ監督、広岡達朗氏が聖地の建て替えに思うこと〈神宮球場プレ100周年〉
『職業・打撃投手』
2025年2月21日発売2,420円(税込)304ページISBN: 978-4022520364明治神宮外苑の再開発で歴史ある景色が一変しようとしている。数々のヤクルト関係の著書もあるファンとして神宮球場に通い続ける著者が、神宮にゆかりのある人々をたずね、その100年の記憶をたどり神宮の過去、現在、未来を描く。
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