
数々の偉業をなしとげた偉人や文化人たちも、中年期には悩み、不安感にさいなまれ、絶望的な状況に追い込まれたというケースが多々あるという。日本を代表するギャグ漫画家の赤塚不二夫も晩年は壮絶な日々であったことを知っているだろうか。
『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)より、一部を抜粋・再構成してお届けする。
『おそ松くん』の誕生秘話
『おそ松くん』は、どんな経緯で生まれたのでしょうか。
連載に追われた赤塚ですが、あるとき、『少年サンデー』から毎週読み切りの依頼が舞い込んできました。
読み切りくらいならなんとかなるか。そう思い描き上げると、今度は「2週続きのものを」と依頼されました。それにも応えると、「4週続きのものを描いてごらん」と言われて、赤塚は考え込みます。
4回分となると主人公が一人では持たないかもしれない。そんなとき、アメリカのコメディ映画『1ダースなら安くなる』を思い出してひらめきます。主人公を増やせばいいじゃないか、と。
当初は映画にならって1ダース、つまり主人公を12人にすることも考えましたが、さすがに多すぎて、1コマに収まりそうにありません。1ダースから半分にして6人、つまり、6つ子を主人公にすることにしました。
どうせ4回限りだと、6つ子をハチャメチャに暴れさせたところ、大反響を呼ぶことになります。たちまち連載へと格上げされました。
この『おそ松くん』の制作にあたって、いろいろとアイデアを出したのが、結婚したばかりの女性アシスタント、登茂子でした。
こうして25歳のときから描きはじめた『おそ松くん』の大ヒットにより、赤塚は中野区に家を建てました。それからも快進撃は止まりません。
『おそ松くん』の1カ月後に『りぼん』で始まった『ひみつのアッコちゃん』もヒットへ。のちにアニメ化もされています。
1965年1月、29歳のときに『おそ松くん』で「第10回小学館漫画賞」を受賞。その2年後、30代を迎えてからは、『週刊少年サンデー』で『おそ松くん』の後を受けて『もーれつア太郎』の連載が始まりました。
さらに同年、『週刊少年マガジン』で伝説的な連載が始まります。不朽の名作『天才バカボン』です。
公私ともに、すべてがうまくいっていました。赤塚は周囲から、こんなことを言われたそうです。
「漫画もヒットしたし、酒を覚えてもいいだろう」
何気ない一言だったに違いありません。
30代で豪遊の限りを尽くしてタモリも育てる
売れなければ貧苦にあえぎますが、その分、ヒットに恵まれれば大金をつかめるのが、漫画家の仕事です。
32歳のときには友人から頼まれてレーシングチームをつくったかと思えば、35歳のときにはアメリカに渡って豪遊。まさに湯水のごとく金を使いました。1200万円のクルーザーを買ったり、漫画雑誌を創刊するもまったく売れずに5000万円の赤字を出したりするなど、財布の紐は緩みっぱなしでした。
女癖の悪さも存分に発揮されて、ついに1973年、38歳のときに登茂子と離婚。自分から「別れてくれ」と妻に切り出しておいて、相手から離婚を迫られたと思い込み、別れて20年以上経ってから「あっ、オレが言ったの? うそ……」と言い出すという、オチまでつけています。
離婚してからは、目白のマンションに移り住んだ赤塚。飲み歩くことがますます増えるなか、ある「男」に夢中になりました。それはタモリです。
赤塚は、新宿歌舞伎町の酒場で宴会芸などを披露していた、福岡出身のタモリをスカウト。自分が住むマンションに居候させました。
そのときの心境をのちにこう語っています。
「僕が一番金を持っていたし、九州に帰したら日本のエンターテインメント界の損失になると思った」
どんな仕事でも、自分がある程度の結果を残すと「人を育てる」というフェーズへと移行していきます。赤塚もまたタモリを見出し、いわばパトロンのような存在となり、芸に集中する環境を与えていました。
赤塚の目に狂いはなく、タモリはフジテレビのバラエティ番組『笑っていいとも!』の司会に抜擢されて、以後は大ブレイクしています。
赤塚が亡くなったとき、タモリが弔辞を読んで話題となりました。弔辞はこんな言葉で締めくくられました。
「私もあなたの数多くの作品のひとつです」
二人の関係性を思えば、決して大げさな表現ではないでしょう。
どん底から復活! 新たな挑戦も
連載を多数抱えて、作品のアニメ化も大ヒットし、テレビでレギュラー番組を持つなど、「天才ギャグ漫画家」として、一世を風靡した赤塚。
20代前半でいったん売れ出してからは、30代、そして40代前半と怒濤のように駆け抜けました。ところが、酒量が増えるにつれて、順調だった仕事に陰りが見えはじめます。
46歳のときに『週刊文春』で11年続いた連載『ギャグゲリラ』が終了。50歳を前にした時点で、連載はほとんど終了します。
そのうちに指が震えて、幻覚症状や色覚異常にまで苦しめられたというから、漫画を描くどころではありません。しまいには、ろれつが回らなくなり、言語障害にまで陥りました。
そんなどん底の中で行われたのが、冒頭で書いた、前妻の登茂子も同席する異例の再婚発表会見でした。
入院中も献身的に支えてくれた真知子が正式に妻となったことで、50代にして、赤塚の新たな人生が始まったのです。
それでも、依然として依存症との闘いは続き、仕事がない状態が続きます。
一時期は、真知子が家の売却を考えたほど経済状況は悪かったといいます。前途多難な50代が始まったと、赤塚自身も考えたことでしょう。以前のように世間が自分の作品に注目することはもうないだろうと、諦めの気持ちもあったのではないでしょうか。
しかし、赤塚はかつて何者でもなかった自分に、いきなりピンチヒッターとしてチャンスが巡ってきたかと思えば、たちまち道が拓けたことを経験しています。つらい時期には飛躍の記憶が、しばしば気持ちを落ち着かせてくれるものです。
そして、まさかの事態が巻き起こります。
1987年5月、テレビ東京でアニメ『天才バカボン』の再放送がスタートすると、放送時間帯視聴率で第1位に輝いたのです。
この快挙によって、漫画の『天才バカボン』は『コミックボンボン』で再び連載が行われることになり、さらに『おそ松くん』の連載までスタート。赤塚は1年半にわたって入退院を繰り返しながら、再び猛烈に漫画を描きはじめました。
とはいえ、仕事が復活しても酒を断つことはできず、入院して点滴で酒を抜いては、また退院後に酒を飲む……ということを繰り返しました。
唯一の救いは、仕事中には飲まなかったこと。そこで、赤塚は50代最後の年に、新しいことに挑戦しています。
絶望の50代を乗り越えて、実りある60代へ
それは、戦後50年を漫画家と振り返る『赤塚不二夫 バカボン線友録!』の「毎日連載」です。
1995年、第二次世界大戦が終了して50年の節目で行われたスポニチの記念特集のコーナーで、赤塚も原稿を書くことになったのです。
漫画ではなく文章とはいえ、毎日連載を続けるというのは簡単なことではありません。体調面をよく知る周囲が不安視するなか、赤塚は72回分、一度も原稿を落とさずにやり抜きました。
毎日連載の最終回が掲載された3カ月後、赤塚は還暦を迎えます。激動の50代を、大きなチャレンジで締めくくることができました。
再びエンジンがかかった赤塚は、61歳で新作漫画『誰も知らない偉人伝』に着手。
現役の漫画家が美術館で展覧会を行うのは、初めてのことでした。
しかし、そんな活躍ぶりにもかかわらず、人生のタイムリミットが近づいてきます。
2002年、66歳のときに、赤塚は検査入院中に転倒。脳内出血と診断されると、これ以来、仕事はできなくなりました。その2年後、68 歳から植物状態となり、2008年に72歳でこの世を去ります。
まだまだやりたいことはあったことでしょう。しかし、50代前半で数年後の死を覚悟していたことを考えれば、まさに「仕事によって生かされた」人生でした。
30代、40代で成し遂げたことが、50代でまた別の角度から評価されることもあるかもしれません。そして50代で新たな挑戦を行うことで、60代以降を生き生きと過ごすことにもつながっていきます。
50代で絶望感に打ちひしがれても、また浮上できる――。赤塚の壮絶な人生は、そのことを私たちに教えてくれているようです。
文/真山知幸
『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
真山知幸 (著)
渋沢栄一、マルクス、安藤百福、ファーブル、……
あの偉人はそのとき、
どんな転機を迎えたのか
「遅咲き」の人生には共通点があった!
古今東西 人生の先輩に学ぶ
折り返し地点を越えて挑戦する秘訣
後世で「偉人」と称された人のなかには、人生の後半で成功した「遅咲き」の人が少なくありません。
「遅咲き」とは単に「年齢を重ねたのちに成功した」ということだけではなく、「学生時代にはまるで期待されていなかったのに、世界を変えてしまった」ような人物のことも含まれるでしょう。本書で紹介したようなアインシュタイン、エジソン、山中伸弥さんは、まさにそのタイプの「遅咲き偉人」です。
本書は、いわゆる「大器晩成型」の偉人たちが、どのように中年期を過ごしたのかに注目しました。今まさに、多くの人が中年期に直面する「ミッドライフ・クライシス(中年期危機)」を、偉人たちはどう乗り越えたのでしょうか?(「はじめに」より)