「1人の女子生徒が突然、バッタリと倒れた」誰も助けようとしなかった甲子園の開会式…日本人の多くが「何もしないほうが得」と考えている危険
「1人の女子生徒が突然、バッタリと倒れた」誰も助けようとしなかった甲子園の開会式…日本人の多くが「何もしないほうが得」と考えている危険

2017年の甲子園・夏の高校野球選手権の開会式の最中、プラカードを持つ女子生徒が倒れた。だが周りにいる球児たちは誰も助けようとしなかった。

「列を崩してもいいのか?」「テレビ中継もされているし、ものすごく目立ってしまうかもしれない」彼らは判断に迷って動けなかったのであろう。では自分なら即座に助けに行けただろうか?

書籍『日本型組織のドミノ崩壊はなぜ始まったのか』より一部を抜粋・再構成し、個人が短絡的なメリット重視するあまり、共同体が機能不全に陥ってしまう現状を明らかにする。

1人の女子生徒が突然、バッタリと倒れた

自ら行動しないし何も言わないという態度が、組織のなかで働く人たちの「常識」として定着、もしくは定番の処世術として徐々に浸透してきているようである。

さらにその「常識」は組織で働く人だけでなく、日本社会全体に広がっている可能性がある。それを印象づけるシーンがあった。

2017年8月に行われた夏の高校野球選手権大会の開会式。選手の入場が終わり、選手たちは各校のプラカードを掲げた女子生徒の後ろに並んだ。

球場全体が静寂に包まれるなか、1人の女子生徒が突然、バッタリと倒れた。周りの選手や生徒たちがただちに助けに行くかと思いきや、だれ一人として自分から助けようとしない。しばらくたってようやく大会関係者に救護され連れられていった。

このシーンはテレビの画面に映し出されたのでひときわショッキングだったものの、けっして特殊なケースではない。

電車で痴漢に遭ったとき周囲の人は皆知らぬふりをしていたとか、雨のなかで倒れても目の前の人はだれも助けてくれなかったという体験談は山ほどある。

むしろ助けてくれたという話が感動的な美談として語られたり、警察から表彰されたりするくらい「珍しい」のである。

いずれにしても日本人の間に、自ら行動しないという態度が広がってきていることはたしかなようだ。そして、それは少なくとも短期的には個人にとって合理的なのかもしれない。

蔓延する「消極的利己主義」

一般に、人は過去の経験や想像にもとづいて損得を計算する。自ら行動することのプラス面としては獲得できる有形無形の報酬がある。そこには具体的な利益のほか、達成感や自己効力感(やればできるという自信)、周囲からの評価や承認、だれかのために役立てたという満足感など、心理的・社会的な報酬が含まれる。

いっぽう行動することのマイナス面としては、心理的負担感や周囲からの嫉妬・反発、注目されることの恥ずかしさ、想定外のリスクに対する恐れなどがある。

これらプラス面とマイナス面を天秤にかけ、マイナス面のほうが大きいと判断すれば行動を控える。「見て見ぬふり」をするのもその1つである。時間的な余裕があればそれを頭のなかで冷静に計算するが、余裕がない場合は直観的に判断する。

このように個人にとって「何もしない」という選択にはそれなりに合理性がある。しかし見方によれば、きわめて利己的な態度である。

なぜなら、それは「自分がしなくてもだれかがやってくれる」という甘え、あるいは「どうなってもしかたがない」という考え方につながるからである。

別の表現をすれば共同体の一員としての責任を果たさず、ただ共同体の一員としての恩恵にあずかろうとするフリーライド(ただ乗り)の姿勢だともいえる。

だから私はそれを「消極的利己主義」と呼んでいる(前掲、拙著『何もしないほうが得な日本』)。

「消極的利己主義」は、だれもが同じ態度や行動を取ったら組織が成り立たないので、普遍性に欠ける行動規準だといえる。

にもかかわらず、それが個人にとって合理的だということは、有形無形のインセンティブが不足しているか、負のインセンティブが大きすぎるわけであり、社会システムに何らかの欠陥があることを意味している。

ただ、積極的すなわち作為による利己主義に比べて、不作為による利己主義は気づかれにくく、問題を見えにくくしている。

たとえていえば、公金を盗めば犯罪になるが、税金を滞納してもただちに犯罪になるわけではないのと似たようなものだ。

共同体の「空洞化」

ここで強調しておきたいのは、「何もしないほうが得」という態度がまかり通る実態は、本来の共同体のあり方から大きく隔たっているということである。共同体の存続には「受容」と「自治」という2つの必要条件があり、それが車の両輪のように働いて共同体を維持してきた。

ところが組織のなかで不正やパワハラがあっても積極的に告発したり、声をあげたりしないのは、自分たちの「共同体」を健全に保とうという「自治」の役割を果たしていないことを意味する。

真の共同体なら、仲間がいじめられたりハラスメントを受けたりしているのを平然と傍観することなどあり得ない。

まして「何もしないほうが得」だから行動しないと決め込むとなると、そこには一種の開き直りさえ感じられる。

一般に共同体型組織の負の側面として、社会的な利益や正義より共同体の存続やメンバーの利益を守るほうを優先しがちであることがあげられる。しかしメンバーが「何もしないほうが得」という態度を取るにいたっては、もはや「利益共同体」としての体もなしていないわけである。

それは一見すると陰徳や滅私を重んずる日本文化のもとではあり得ない態度のようだが、少し見方を変えれば、ある種の日本的な文化が、逆にそのような態度を取ることを可能にしているともいえるのではなかろうか。



西洋における「個」の倫理に対して、日本における「場」の倫理を強調する心理学者の故河合隼雄は、つぎのように述べる。

一度場の中にはいってしまうと、よほどのことがないかぎり、その場の中で救われるという利点ももっている。大学に入学すると、よほどの成績でないかぎり卒業できるし、その場の長となったものは場の成員の「面倒をみる」ことが暗黙のうちに義務づけられるのである。

(河合隼雄『母性社会日本の病理』講談社+α文庫、1997年、245頁)

この指摘は一種の性善説に立った寛容さであり、陰徳や滅私、礼節を重んずる日本文化のもと、まして狭い共同体のなかには利己的にふるまう者はいないと想定されていたのである。

だからこそ想定外、すなわち開き直って利己的にふるまう者が現れ、それが同調圧力に屈しないほどの勢力になったとき、組織としては手の打ちようがない。

いずれにしても、かつての共同体型組織が共同体の要素である「自治」的機能を失い、メンバーを「受容」する側面だけが残ったわけだ(図2-1)。

そして共同体に受容されるためにメンバーは、いわばその見返りとして上からの要求を無批判に受け止めるようになった。「受容」と「自治」の関係が、「受容」と「忍従」に変わったのである。

注意すべき点は、「受容」と「自治」の均衡と、「受容」と「忍従」の均衡は、まったく意味が違うということである。前者は共同体を健全に保つための「公的」な均衡であるのに対し、後者は後に論じるように特殊な利益を得ようとする強者と、それに対して身を守る、あるいは取り入る弱者との「私的」な均衡である。

いずれにしても、共同体型組織のなかから健全な自治が消えたのである。

共同体における自治の消滅。

それは共同体の「空洞化」である。

写真/shutterstock

日本型組織のドミノ崩壊はなぜ始まったか

太田 肇
「1人の女子生徒が突然、バッタリと倒れた」誰も助けようとしなかった甲子園の開会式…日本人の多くが「何もしないほうが得」と考えている危険
日本型組織のドミノ崩壊はなぜ始まったか
2025年3月17日発売1,012円(税込)新書判/224ページISBN: 978-4-08-721354-6

旧ジャニーズ事務所の性加害事件や、ダイハツ、ビッグモーター、三菱電機、東芝などの企業不祥事、自民党の裏金問題、宝塚、大相撲のパワハラ、日大アメフト部の解散、そしてフジテレビ…、近年、日本の名だたる組織が次々と崩壊の危機に直面した。

そこには共通点がある。「目的集団」であるはずの組織が、日本の場合は同時に「共同体」でもあったことだ。

この日本型組織はなぜ今、一斉におかしくなってしまったのか? 日本の組織を改善させる方法はあるのか? 

組織論研究の第一人者が崩壊の原因を分析し、現代に合った組織「新生」の方法を提言する。

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