ボブ・マーリー「自分のためだけの命なら俺は要らない」…狙撃され、亡命もしたレゲエの神が命を懸けて歌い続けたワケ
ボブ・マーリー「自分のためだけの命なら俺は要らない」…狙撃され、亡命もしたレゲエの神が命を懸けて歌い続けたワケ

1981年5月11日、36歳という若さでこの世を去ったボブ・マーリー。ジャマイカの貧しい村に生まれ、音楽で世界を変えた男は、なぜ平和を歌い続けたのか。

その激動の人生を振り返る。 

世界中を駆け巡った「ジャマイカが救われた」というニュース

1978年、政治抗争に揺れるジャマイカには、ボブ・マーリーの力が必要だった。ボブは敵対する二つの政党、PNP(人民国家党)とJLP(ジャマイカ労働党)の代理人を英国に呼んで休戦協定の仲介を試みた。

そして1978年4月22日にはジャマイカの国立競技場で、抗争の終結を願って「One Love Peace Concert」の開催が決定。ボブ・マーリーはこのコンサートにメインアクトとして出演することになり、亡命先のロンドンから帰国した。

俺の命より、他の人々の命が重要だ。みんなを救ってこそ俺はある。自分のためだけの命なら俺は要らない。俺の命は人々のためにある。

首都キングストンにある会場には、ジャマイカを代表するレゲエ・ミュージシャンたちが集まり、最前列には首相や両党の国会議員らが招待された。

夜もすっかり更けた頃、国民的なスターの凱旋ステージに、観客の熱狂はピークに達する。ボブ・マーリーは『Jamming』の演奏中、PNPのマイケル・マンリーとJLPのエドワード・シアガに対して、「話があるんだ。二人ともステージに上がってきてくれないか」と呼び掛けた。

聞いてくれ。すべてを解決するために心を一つにしよう。至高の精神である皇帝陛下ハイレ・セラシエ1世が呼び寄せる。この国の2人のリーダーたちをここで握手させるため。人々に愛を示せ。団結の意志を示せ。問題はないと示せ。すべてうまくいくと示せ。心配などない。一つになれる。団結するんだ!

ボブの懸命な説得と観客の想いに背中を押されたのか、抗争の真っ只中にあった両党首はステージ上で握手を交わす。二人の手を、何も言わずに頭上に掲げたボブは、「愛と繁栄よ、我らと共にあれ。

ジャー・ラスタファーライ」と観衆に向けて伝えた。

それは白人と黒人の二つの血が流れる者、山の手とゲットーどちらでも生きた者だからこそ一つに結びつけることができた、歴史的な出来事のように映った。

「劇的な和解によってジャマイカが救われた」というニュースが世界中を駆け巡った。それは一瞬のことであったかもしれないが、ジャマイカには奇跡が起きたのだ。

心臓の鼓動をとらえたレベル・ミュージック=レゲエの誕生に貢献

ボブ・マーリーは1945年2月6日、ジャマイカの山間部の小さな村ナイン・マイルズ(蛍の光くらいしか輝きがないような田舎)で生まれた。

父は英国系の白人、母は黒人という混血児。両親はすぐに別れたので、幼いボブは母親に育てられた。

12歳の時、生活と職のために母とともに首都キングストンへ移住。郊外の貧困街トレンチタウンで暮らしながら、ある日音楽を始めた。ボブにはそれが吹き溜まりから抜け出すための唯一の手段であることが分かっていた。

混血児というだけで拒絶されたりすることもあったようだが、どちらにも属する(あるいは属さない)ボブのアイデンティティは、多感な思春期に形成された。ラスタファリ運動に出逢ったのもこの頃だ。

1962年に『Judge Not』を初録音して国内でプロデビュー。

しかし、レコードはまったく売れなかった。その後、バニー・ウェイラーやピーター・トッシュらとウェイラーズを結成。グループ名には嘆き悲しむ(=ウェイラー)町から来た連中という意味があった。ジャマイカは1962年8月に英国から独立した。

1964年、スタジオ・ワンで録音した『Simmer Down』が国内チャートで1位になる。ウェイラーズはそれからトップ10ヒットを連発していく。1966年はエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世がジャマイカを訪れたこともあり、ボブたちはラスタファリ運動により深く傾倒し始める。

だが、レコード会社の搾取もあってギャラは安く、とても音楽だけで食べていける額ではなかった。ウェイラーズは国外ではまったく無名だったのだ。

リタと結婚したボブは、仕事を求めて米国デラウェア州ウィルミントンへ移住。しかし、すぐにジャマイカに戻って今度は独立レーベル「Tuff Gong」を立ち上げる。プロデューサーにリー・スクラッチ・ペリーを迎え、心臓の鼓動をとらえたレベル・ミュージック=レゲエの誕生に貢献する。

そして1972年、黒人のロックバンドを求めていたクリス・ブラックウェル率いるアイランド・レコードと契約。ウェイラーズは録音費用として4000ポンドを受け取り、ジャマイカで吹き込んだテープをロンドンに送り返した。これが1973年にリリースされた世界デビュー第1弾『Catch a Fire』だった。

わずか半年後には第2弾『Burnin'』が発表されるが、英国や米国ツアーはアルバムの販売促進のためでギャラもほとんど入らず、クリスとも確執が絶えなかったバニーとピーターは正当な評価を求めて脱退。オリジナルのウェイラーズは解散する。

ボブの心に宿った「死の意識」 

その後はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして再始動。『Rasta Revolution』『Natty Dread』をリリースするが、転機となったのは1975年7月のロンドン公演の一夜を収録した『Live!』で、ボブ・マーリーの名は遂に世界中に知れ渡っていく。 

また、前年のエリック・クラプトンの復帰作『461 Ocean Boulevard』にも、ボブの「I Shot the Sheriff」が収録されて大ヒットしており、レゲエ音楽は多くのロックファンを魅了した。 

ジャマイカ(特に首都キングストン)は、PNPとJLPという二つの敵対する政党による抗争がエスカレートし、政治家や支持者ら多くの者が凶弾によって命を落としていた。治安や秩序の悪化を招き、人々は犯罪に巻き込まれるかもしれないという不安な日々を送っていた。

ボブはどちらの過激派メンバーとも友達だったので、中立のようにも見えた。この立場が災いして1976年12月3日、自宅にいるところを狙撃されてしまう。

自宅のキッチンで見知らぬ男たちの襲撃を受け、左わき腹と左腕を銃弾で負傷したのだ。

ボブはそれでも8万人の観衆を前にフリーコンサートを決行して、再び命を狙われるかもしれない状況で熱い演奏した。

翌年、身の安全を心配する妻リタの意向でロンドンに亡命。チェルシーに住むようになる。ボブの心には「死の意識」と「一瞬を無駄しない」ことが強く宿った。

1977年の『Exodus』は最高傑作と言われる作品であり、以前にも増してボブのメッセージが聴き手の胸を打つ。冒頭の伝説のコンサートはこの後のことだ。

『Kaya』と『Babylon by Bus』をリリース後、ボブは白人だけでなく黒人の聴衆にも自らの音楽を届けるべく、アフリカの国々を訪問。ジンバブエ革命の心の支えになったり、米国の黒人にも完全に浸透していく。『Survival』『Uprising』といったアルバムはそんな頃に録音された。

人生は非情。

ボブは足の親指にガンを発症。

部分切除を思想上の理由で断ったが全身に転移。ツアーも限界だった。ラストステージはピッツバーグ公演。体調が優れなくても、アンコールに何度も何曲も応えた。

雪景色のドイツへ治療に向かうが、死は迫っていた。ラスタマンとしての誇りであるドレッドヘアーを切り、痩せこけていくボブ。

そして1981年5月11日、フロリダ州マイアミにて妻や母に見届けられて永眠。享年36。祖国ジャマイカのキングストンで国葬。

俺には野心なんてない。ただ一つ叶えたいのは、人類が共に生きること。
黒人も白人も黄色人種も共に。それだけだ。

文/中野充浩 編集/TAP the POP サムネイル/Shutterstock

参考・引用/ボブ・マーリィ財団による初のオフィシャル・ドキュメンタリー『ルーツ・オブ・レジェンド』

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