「部活動は教員のボランティア」のままでよい? 学校部活動が「地域移行」することで生まれる格差とは…今後保護者がお金で買うべきサービスに
「部活動は教員のボランティア」のままでよい? 学校部活動が「地域移行」することで生まれる格差とは…今後保護者がお金で買うべきサービスに

2024年10月に発売され、現在4刷と話題を呼んでいる『崩壊する日本の公教育』(集英社新書)。著者の鈴木大裕氏は2016年に『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店)を出版し、物事すべてを経済的な尺度で測り、様々な公共事業の市場化と民営化を押し進める新自由主義に翻弄されて疲弊していくアメリカの公教育の実情を描いていた。



その鈴木氏は最近の日本の公教育における変化をどう捉えているのだろうか。本記事では学校部活動の「地域移行」について話を聞いた。

アメリカの後を追い悪化の一途を辿る日本の公教育

――まずは『崩壊する日本の公教育』の出版までの経緯について教えてください。

執筆の背景には、近年急激に進む日本の教育「改革」への強烈な危機感がありました。

まずは、2006年の教育基本法の改正というより改悪です。日本では、政治が教育に介入し、教育が戦争に加担してしまった第二次世界大戦の歴史から、政治が二度と教育に介入できないよう、教育の独立性が保障されてきました。

しかし、2006年の教育基本法の改悪により、政治が教育に介入しやすくなったのです。そして、流行りの新自由主義的な、物事すべてを経済的な観点からのみ考えようとする政治家が教育に口を出し、思い付きで色々なことをやり始めました。

政府が進める「学校における働き方改革」は、その典型でしょう。本来、「学校」とはどういう場所なのか、「教師のしごと」とはどういうものであるべきかという根本的な話から始めなくてはならないのに、その部分が抜け落ちたまま政策が展開されているからおかしなことになるんです。

今や、「学校における働き方改革」を名目にして、教育の超合理化と公教育の民営化が進んでいます。「学校部活動の地域移行」の話題も盛り上がっています。

経産省やスポーツ庁のスポーツ産業への呼びかけを見ると、これもどうやら教員の働き方改革の文脈だけで説明できるような綺麗なものではなく、公教育の民営化の意味合いの方が強そうです。



あとは、コロナ禍が後押ししたGIGAスクール構想(※)の実現ですね。そして教員不足の穴埋めという名目で文科省が奨励した、特別免許状の乱発による「副業先生」の増加、それにともなう教員の使い捨て労働者化。

こういった一連の流れを見ていると、きっかけは違うにせよ、日本もアメリカと同じような道を進んでしまっているな、という危機感が大きいです。

※全国の児童・生徒ひとりひとりに対して、1台のコンピューターと高速ネットワークを整備しようとする文部科学省の取り組み。

アメリカでは、こうした新自由主義教育改革が教育の現場を壊し、格差を拡大してきた歴史があります。まずは今の日本の状況を正しく認識したうえで、私たちがどこへ進もうとしているのかを考えて欲しい、という思いから今回の新書を執筆しました。

ビジネスに侵食される日本の教育界

――日本の教育環境の激変は、ここ最近で急速に進んだように感じています。変化の背景には何があるのでしょうか?

ひとつの大きな要因は、例えば下村博文氏(第二次・第三次安倍内閣で文部科学大臣・教育再生担当大臣)のような、教育産業出身の政治家の台頭です。下村氏はもともと学習塾の経営者でしたよね。

安倍政権は「経産省内閣」とも呼ばれました。市場経済の活性化を目的とする経産省の影響を強く受けて、教育政策への介入が加速しました。

コロナ禍も大きかったですね。今までなかなか進まなかったICT授業などの導入を、一気に後押ししました。

学校での一斉教育が難しい状況になって、全国一斉休校もありました。どうやって遠隔で授業をするのか、と現場が困っている時に、教育産業の出番だという話になったわけです。

――教育の課題や危機を口実に、産業界がビジネスとして教育にどんどん入り込んできているということでしょうか。

まさにそうですね。「ショック・ドクトリン」※のような面があると感じています。

社会問題化している教員不足が良い例です。多くの学校が機能不全を起こすような深刻な教員不足を前に、政府は迅速な対症療法を迫ります。特別免許状の「積極活用」を推進し、英語やプログラミングなどのスキルを持った民間人に、月に数回でも良いから「副業先生」として学校に教えに来てください、と呼びかけるのです。

教員不足が続けば、英語やプログラミングを切り口に、どんどん他教科にも拡大していくでしょう。でも、そうなれば、もはや教員免許の意味が無くなり、学校の授業も塾に委託した方が良いじゃないかという話にもなります。

実際に千葉県では小学校の算数の授業に塾講師を活用して学力向上を目指す取り組みが行われました。このような流れが続けば、学校や教員の存在意義そのものが問われるようになるのです。

学校部活動の「地域移行」

――教員が不足していることへの根本的な対策は講じられていないどころか、問題が悪化していると。

本来であれば、なぜこれほどまでに教員が不足したのか、どうして多くの若者が教員になりたがらないのか、あるいは、なぜこれだけ沢山の教員が精神疾患を抱えているのか、といった本質的な問いと向き合う必要があるはずです。

また、このごろ話題になっているのが、学校部活動の「地域移行」です。もともと教員の長時間過重労働が社会問題化して、精神疾患も問題になったので、それを解消するという名目で議論されていますが、その本質は公教育の「民営化」の一環として位置づけて良いと思います。

経産省やスポーツ庁は、教職員には「これはあたなたちの働き方改革ですよ」と言い、民間企業には「これはスポーツ産業の活性化ですよ」と言うのです。これからは学校の運動場やプールや体育館といった施設を使って、民間企業がビジネスとして採算が取れるようにしていく、とまで明言しています。

新書の中でも紹介しましたが、こうした議論を見ていくうえで、マサチューセッツ工科大学の名誉教授であるノーム・チョムスキーの言葉がヒントを与えてくれます。

民衆を受け身で従順にする賢い方法は、議論の範囲を厳しく制限し、その中で活気ある議論を奨励すること。

学校部活動の「地域移行」に関して政府が民衆に押し付けてくる議論の枠組みは、「部活動は学校でやるべきか、それとも地域でやるべきか」です。

しかし、問われていないのは、「スポーツや文化活動に触れる機会は、保護者がお金で買うべき『サービス』なのか、それとも全ての子どもに分け隔てなく保障されるべき『権利』なのか」ではないでしょうか。

私は、自分が住んでいる高知県の土佐町という町の議員もしています。

実際、2022年3月の土佐町議会で、教育長にこの質問をぶつけてみました。教育長からは、「保護者がお金で買うべきサービスではない」との明確な答弁がありました。

それは、子どもたちがスポーツや文化活動に触れる機会を、町が全ての子どもの権利として守っていくという決意表明でした。そこから予算の議論が始まるわけです。

2022年夏には、『学校部活動の地域移行:その課題と対策』をテーマに「教育関係者と地方議員のつどい」を土佐町にて企画し、意見書を作成して政府に2つのことを要望しました。

1 部活動の地域移行に関しては当事者である子ども、教職員、保護者等の声を十分に聞き、それぞれの地域の実情に合わせて進めること


2 「人格の完成」に値する豊かな学校教育を守り、教職員の負担軽減を進めるためにも、部活動を含む教員のすべての業務を勤務時間内に収める取り組みも推進すること

この意見書は、全会一致で採択され、教育新聞でも速報として取り上げられました(部活動地域移行「地域の実情に合わせて」 土佐町議会で意見書採択 )。

そして、2点目の要望の実現可能性を探る過程で、土佐町の中学校では異常に多い余剰時数(文科省が定める、1年間に教えるべき標準授業時数を上回る授業時数のこと)が存在することが発覚しました。

その後、余剰時数の削減に向けての取り組みを議会で問いただす度に着実に減少し、今年度はついに余剰時数「ゼロ」を実現することができました。

「日本が世界に誇ってきた部活動」

――実際に、兵庫県神戸市では「コベカツ」という名称で、学校部活動の地域移行が進められているようです(https://kobe-katsu.smartkobe-portal.com/)。一方で、「既存の選択肢が縮小されるだけ」といった声も聞かれます。

神戸は、市をあげて学校部活動の地域移行に取り組もうとしており、教職員たちからは概ね歓迎の声が聞こえてきます。一方、保護者からは不安の声が多く上がっていることも確かです。

「コベカツ」は、子どもたちにとっての幅広い選択肢、校区に関係なく活動を選べる柔軟性を前面に出していますが、指導者への謝金は保護者負担となり、校区外の活動場所への送迎もあるわけではありません。

そうであれば、謝金や交通費を払える家庭とそうでない家庭、活動場所まで送迎できる家庭とそうでない家庭、多様な活動を提供できる地域とそうでない地域など、家庭間、地域間格差が生じることは目に見えています。

大事なのは、中学校の部活動を通してこれまで当たり前のように子どもたちに保障されてきたスポーツや文化活動に触れる権利は、政府による教職員への搾取によって支えられてきたという事実です。

それが教職員の過重労働として社会問題化した際に、政府はその負の歴史を謝罪し、部活動を無理なく運営できるだけの人と予算をつくるのではなく、開き直って保護者の自己責任とスポーツ産業の活性化という道を選択した。ここに最大の問題があります。

教職員の多忙化は深刻で、彼らに対する搾取の上に成り立つ部活動が持続可能じゃないことは、疑いようのない事実です。

しかし、だからと言って、そもそも教職員の働き方改革と子ども達の部活動を天秤にかけるのがそもそもおかしいでしょう。

教育基本法が定める教育の目的は、「人格の完成」です。文科省が従来、部活動を学校教育の一環として位置づけてきたのは、スポーツや文化活動が「人格の完成」と無関係ないはずがないからでしょう。

これまで、政府はことあるたびに、「日本が世界に誇ってきた部活動」という言葉を使ってきました。ならば、これまでの教職員に対する搾取をまずは謝罪し、今度こそは真に胸を張れるような条件整備を進めれば良い。ただそれだけのことです。

※戦争や自然災害などの非常事態のタイミングを狙い、人々がショックにより思考停止状態に陥っているあいだに一気に新自由主義改革を断行する手法。

写真/shutterstock

崩壊する日本の公教育

鈴木大裕
「部活動は教員のボランティア」のままでよい? 学校部活動が「地域移行」することで生まれる格差とは…今後保護者がお金で買うべきサービスに
崩壊する日本の公教育
2024年10月17日発売1,100円(税込)新書判/288ページISBN: 978-4-08-721335-5安倍政権以降、「学力向上」や「愛国」の名の下に政治が教育に介入し始めている。
その結果、教育現場は萎縮し、教育のマニュアル化と公教育の市場化が進んだ。

学校はサービス業化、教員は「使い捨て労働者」と化し、コロナ禍で公教育の民営化も加速した。
日本の教育はこの先どうなってしまうのか? その答えは、米国の歴史にある。
『崩壊するアメリカの公教育』で新自由主義に侵された米国の教育教育「改革」の惨状を告発した著者が、米国に追随する日本の教育政策の誤りを指摘し、あるべき改革の道を提示する!
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