
新潟県糸魚川市能生(のう)に全国の相撲少年が集まる元旅館の相撲部屋がある。作家の小林信也氏の新刊『大の里を育てた〈かにや旅館〉物語』は、ここで繰り広げられる子育て、力士育成の物語。
本書より一部抜粋してお届けする。〈全2回の2回目〉
小学生で牛丼大盛を三杯ぺろり
大の里こと、中村泰輝は2000年(平成12年)6月7日、石川県河北郡津幡町で生まれた。
小学一年生のころ、アマチュア力士だった父・知幸がコーチを務める津幡町少年相撲教室で相撲を始めた。
「最初、泰輝は『野球をやりたい』と言っていたけど、『足腰を鍛えるために相撲をやってみないか』と言って稽古に連れて行ったら、すぐのめり込んだんです」
いまは相撲ファンに「父の里」とか「パパの里」と呼ばれ、大の里同様に愛される存在となっている知幸は、地元の金沢松陵(しょうりょう)工業高校(現・金沢北陵高校)で相撲に打ち込み、卒業後、実業団の全国青年大会無差別級で準優勝した実績がある。
泰輝少年は、その父に胸を出してもらい、相撲の基本を叩き込まれた。
「相撲教室には他の子どもがいるから、自分の子どもに甘くするわけにいかない。自然と泰輝には厳しく指導しました」
知幸が振り返る。小学生のころから同級生より頭ひとつ大きかった泰輝は、相撲教室の中ではすぐにとびぬけた存在になった。
それでも父にはかなわなかった。
「手加減しない私に、泰輝は泣きながら食らいついてきました。負けず嫌いはその時からですね」
知幸が満足気に笑う。頼もしい息子に、自分が果たせなかった大相撲入りの夢を託す思いは年を追うごとにふくらんだ。
「小学生のころから、牛丼の大盛を3杯、平らげていました」
相撲の世界で、「食べることは大事な稽古」と認識されている。
だから、無理強いされなくても喜んで丼3杯の大盛ご飯を平らげる泰輝は、体格、技量、食欲、三拍子揃った頼もしい金の卵だった。
ここ数十年の日本では、高校野球が華やかだから、少年野球も盛んで、小学生のころからプロ入りを目指す親子が星の数ほどいる。それを大半の国民が知っている。相撲は国技であり、大相撲はずっと人気があるけれど、日本の少年たちがこぞって打ち込む競技でなくなって久しい。
角界に入ろうと志す日本人が激減し、だからモンゴルなど外国人力士が土俵の大勢を占める状況も生まれた。ところが、実際には、小学生のころから親子で熱を入れ、相撲に懸ける相撲少年は確かに存在し続けている。
そのいちばんの晴れ舞台が毎年開催されている「わんぱく相撲全国大会」(以下、わんぱく相撲)だ。
わんぱく相撲の五回戦で泰輝は負けた
甲子園出場がプロ野球への登竜門と思われているのと同様、わんぱく相撲で優勝すること、上位に食い込むことは将来の角界入りにつながる、と参加する親子は信じ、勝負に一喜一憂する。
考えてみれば、高卒18歳でプロ入りする野球に比べて、かつては大半が中卒15歳でプロ(角界)に入門していた相撲界では、「3年早い現実」がある。小学六年生は「あと3年」で角界入り適齢期を迎える。進路の決断は遠い先ではない。
12歳の泰輝少年も、わんぱく相撲で優勝を狙っていた。
ところが、トーナメントの5回戦で自分より小さく、身体も細い相手に上手投げで敗れてしまった。対戦前、負けるとは思わなかったから、ショックだった。優勝して、地元石川県の強豪中学に誘われて入る……、漠然と描いていた未来がその瞬間に消え失せた。
パリ五輪(2024年)の後になって、その時、泰輝を投げ飛ばした相手が、柔道男子90キロ級で銀メダルを獲った村尾三四郎だと報じられ、「そうだったのか」「相手が村尾じゃ、まあ納得もいく」といった感想が聞かれた。しかし当時は互いに無名。しかも村尾は泰輝よりずっと小さく、線も細かったから、泰輝の落胆は半端ではなかった。
「もう負けたくない。もっと強くなりたい……」
打ちひしがれた泰輝の脳裏をよぎったのが、春、高校相撲金沢大会で見た、穴水町出身・三輪隼斗の雄姿だった。
「三輪君は、金沢の西南部中学に入れてもらえなかった。それで新潟県の能生中に行って、強くなったんだ」
父から教えられていた。
泰輝の眼差しの先に、能生中学、海洋高校と進んで三輪隼斗のように強くなる未来がはっきりと浮かび上がった。海洋高校の道場、そして〈かにや旅館〉には合宿で行った経験がある。高校生と一緒に練習する厳しい光景と実体験が身体の中にある。(あそこに行けばきっと強くなれる)
中学、高校を通して、相撲に集中する進路を泰輝は選んだ。両親は当然、地元中学への進学を前提に考えていたが、泰輝の固い決意と、熱心に理解を求める眼差しに圧倒された。
「あの時から泰輝は、常に自分の進む道は自分で決める子でした。能生中に行ったのも、泰輝自身の決断です」(知幸)
その6年間が、どれだけ厳しい日々になるのか、小学校六年の泰輝には、全部想像できていたわけではない。
角界に入り、わずか7場所で幕内最高優勝を飾った直後、取材に答えて泰輝は語った。
「かにや旅館での6年間がなければ、いまの自分はありません。だけど、二度と戻りたくない地獄の6年間でした」
どう地獄だったのか。その詳細は、これからおいおい記すかにや旅館の日常から推察してもらえるだろう。とにかく、小学校を卒業した泰輝少年は、津幡町の自宅を後にし、しけた日には日本海の波しぶきが直接飛んで来る道沿いに建つかにや旅館にやって来た。
一緒にかにや旅館の門を叩いた同級生に、丸山竜也らがいた。一年先輩に高橋優太、嘉陽快宗らがいた。三輪隼斗は海洋高校を卒業し、日体大に進学した。三輪と泰輝はちょうど入れ違いだった。
明るくて茶目っ気のある少年
泰輝から「能生中に行きたい」と聞いて、田海哲也はもちろん胸を躍らせた。
「中村君と聞いてすぐ思い出したのは、三輪たちが優勝した時の金沢大会です。土俵下でメモを取りながらかじりつくように勝負を見ていた。その姿をよく覚えています。そんな子どもは他に見たことがありません。五年生の時、能生に稽古に来たこともありました。その時の明るさもすごく印象に残っていました」
すでに180センチ近い大きな身体。均整の取れた体型。肥満でもなく、筋肉質でもなく、古くから名力士と呼ばれる相撲取りに通じる柔らかさも兼ね備えている。
いかにもお相撲さんらしい雰囲気を持った泰輝が、将来有望な逸材であることは疑う余地もない。加えて脚が長く、現代的な魅力の持ち主でもある。
「身体も大きい、相撲も強い。それ以上に私が魅力に感じたのは、泰輝の明るさ、素直さです。物怖じすることなく、誰とでも話ができる。いい意味で目立ちたがり屋だし、クラスの人気者。そういう性格がすごく成長につながる感じがしました」
体格や相撲の実力以上に、哲也が最も手応えを感じたのは泰輝の持ち前の明るい性格だった。
小学校を卒業した泰輝は、父・知幸が運転する車で能生に入った。
かにや旅館の前で車から送り出す時、父と子が交わした短いやり取りを中日スポーツが伝えている(2024年9月23日)。
《2013年3月末、二人三脚の最後の日、知幸さんの運転で新潟県糸魚川市に入った。車を降りる。父からの「逃げて帰ってくるなよ」の声に、「帰らんし」。
文/小林信也
大の里を育てた〈かにや旅館〉物語
小林 信也
唯一無二の感動。少年たちの夢を支え育む相撲部屋。
新潟県糸魚川市能生(のう)に、全国の相撲少年が集まる寮〈かにや旅館〉がある。海洋高校相撲部の田海(とうみ)哲也総監督が経営していた元旅館だ。そこが実質、相撲部屋となり、続々と未来のスター力士を輩出している。パワハラ、いじめ、不登校など、難しい問題が渦巻く中、田海夫妻が彼らの心身の成長に深くかかわり、そのおかげで生徒たちは練習に打ち込めている。本書は、大の里をはじめ多くの力士たちと田海夫妻を中心にした、〈かにや旅館〉で繰り広げられる感動の子育て、力士育成の物語。
【本文より】
この本は、運命の糸に導かれるようにアマチュアの相撲部屋を受け持つことになり、いまや大相撲で活躍する人材を輩出するようになった新潟県糸魚川市能生町の〈かにや旅館〉に光を当てた物語だ。(「はじめに」より)
【目次より】
序 章 能生町が人・人・人であふれた日
第一章 相撲部屋〈かにや旅館〉の誕生
第二章 有望な少年たちが集まり始めた
第三章 中村泰輝(大の里)が来た
第四章 〈かにや〉の生活と人間模様
第五章 大相撲の敷居は高かった
第六章 祝勝会前夜 母たちの証言
第七章 中村泰輝から大の里へ
第八章 大の里快進撃の陰に
第九章 〈かにや旅館〉の未来展望