
『テクノ専制とコモンへの道 民主主義の未来をひらく多元技術PLURALITYとは?』(集英社新書)の著者である哲学者・李舜志が、思想家で武道家である内田樹の道場「凱風館」を訪問。市民たちが政治的に成熟していないと維持できないという民主主義という政体の難しさを語り合った。
地方議会で誕生しつつあるマニュフェストなきコモンとは? そして韓国と連携することでうまれる世界第3位の経済圏とは? これからの日本の未来についても話を聞いた。
悪意のないフリーライダー
内田 トップダウンの組織の一番いけないところは、「トップが全知全能である」ということが前提になっていることですね。この人たちがマネジメントをしようとすると、定期的にブルシットジョブを発令することになる。しなくてもいい仕事を発令して、部下が全員それに従うのを見て、トップダウン組織がきちんと機能しているかどうか確認する。
今の文部科学省だって、自分たちが教育行政をグリップできないということはよくわかっている。にもかかわらず自分たちは組織のトップにいるんだと、教育行政の政策決定をしていることを確認しようとして、やらなくてもいいことばかり指示してくる。それによって日本の教育現場がますます疲弊してゆく。疲弊すれば教育が荒れてくる。それを何とかしようとさらに新たなどうでもいいジョブを発令して、現場はさらに疲弊する……そういう悪循環になっている。
李 トップに立つ人間が無意味なことをやらせると、無意味であるがゆえに、指示を出された方もはっきりわかるじゃないですか。そうするとちゃんとやらない人が出てきて、上がまた言うことをきかせようとして、事態がエスカレートしていく。
「フリーライダー」の問題でいうと、何かを共有するときにフリーライダーって生じざるを得なくて、それを取り締まるコストのほうがあまりにも高すぎる。
内田 たいへんなコストがかかるんです。
李 一人ひとりの一挙手一投足をチェックするとか、されている方も作業は捗らないし、生産性も上がらない。もちろんフリーライドする人ばかりだと、資源が枯渇してしまう「共有地の悲劇」が起こりますから、そこは財産の性質を見極めないといけない。
たとえば、僕がビートルズのレコードを買って自分で好きな時に聞ける。これは「私有財産」ですけど、そこで友だちが来て一緒に聞くって、ある意味では窃盗じゃないですけど、でも別にフリーライドしてもビートルズは怒らない。
内田 それは窃盗とは言わないですね。一緒に聞いて、「このハモりはいいね」「セブンスだよね」とか言い合えば音楽から享受できる愉悦の量は増えるわけです。愉悦が増加するんですから、何も盗んでいない。
李 そうですね。共有するからこそ生まれる価値とかイノベーションって絶対あって、「フリーライドを許さない」としてしまうと、たとえば「友だちの家でビートルズを聞いてミュージシャンを目指しました」みたいな人がいなくなるから、本当によくない。
とはいえ、「レコードを全部無料で配布しろ」って、そこまでいくとやりすぎになる。その間の「いい塩梅」というのが現実に働いているわけで、「コモンはフリーライダーを生んでけしからん」「財産は全部私有にすべきだ」という議論は、どちらもナンセンスなんですよね。
内田 それはなぜかというと、フリーライダーがいる一方に「オーバーアチーバー」という存在がいるからです。
オーバーアチーバーという尊い存在
内田 僕の経験から言って、たぶんどんな集団にも全体の10%から20%ぐらいのフリーライダーは必ず発生する。それはその人たちの気質や能力の問題じゃなくて、「なんとなく、もののはずみで」なんです。
それが20%を超えると困るけども、15%以下までなら、それはその集団の制度設計が「わりと雑」だということで、それはむしろ「居心地がいい」ということの証明なんです。そして、組織が「わりと雑」である方がオーバーアチーバーはオーバーアチーブできる。
オーバーアチーバーは別に出世や昇給を求めているわけじゃない。彼らが一番求めているのはフリーハンドなんですよね。僕たちの好きにさせてください、と。管理されること、成果を査定されること、素人にあれこれ口を出されることが嫌なんです。だから好きにさせておけばいい。フリーライダーがもたらす損失なんて、彼らが埋めて余りある。
この道場にもフリーライダーはいますよ。月謝を払わずに稽古だけして、宴会でただ酒飲んで、それっきり来ない人だっている。でも、しようがないんですよ。探し出して、「未納分払え」とかいうコストを考えたら、「けっこう陽気な奴だったね。あいつがいると座が盛り上がったなあ」くらいで笑って済ませる方がいい。
でも、いろいろなコモン論を読みましたけれど、フリーライダーのもたらす害悪について書かれたものはあるけれど、「オーバーアチーバー」という文字列を見たことがない。
李 コモンの自治に関しては、「共有地の悲劇」を提唱したギャレット・ハーディンは、「フリーライダーが絶対生じるから、企業が占有するか国が所有するしかない」と言っていますが、ノーベル経済学賞のエリノア・オストロムは、「現実の事例を見たら、国も企業も所有していない自治で行われるコモンもある」と、膨大な事例からいくつかの成功例を紹介しています。ただ「オーバーアチーバー」という単語はないですね。
内田 ないと思います。その発想がないんです。コモンは静態的なものじゃないんです。生き物なんです。
李 オーバーアチーバーと聞くと、両親が教師だからかもしれないですけど、僕は「先生」が思い浮びます。たとえば子どもの頃、家でニュースを見ていて東欧の民族紛争の話が出てきたら、聞いてもないのにたくさん教えてくるんです。「昨日までの隣人が殺し合うことがいかに悲惨か」みたいに。「へえー」と思って聞いていましたけど、でも気がつくと僕も同じようなことをしている。
「こういうことを知りたいけれど何かいい文献ありますか」と学生に聞かれたら、めっちゃ調べて、めっちゃ本持っていくんですけど、「いや、そこまでじゃなかったんですけど」みたいな(笑)。ああ、そうだったんだ……って気落ちしますけど、教師もやっぱり「何か教えたい」という衝動があって、教える仕事をしているのだと思います。
「差別なんてつまらない」と思える社会に
李 僕が大学に入って、基礎演習でレポートの書き方を学ぶ授業があった時、実は課題文献が内田先生が書かれた文章だったんです。そこで僕が書いたレポートが満点で、うれしくて、その時に初めて「自分は研究に向いているのではないか」と思いました。
あと、こういう出自なので、思想的にリベラルではあったんですけど、でもリベラルって端的に言うと、他人への寛容を説きつつ、自分には厳しく、常に「自分が何らかの偏見を持ってないか」をチェックする必要性に駆られて、それではみんながついてこられないと思ったんですね。
他方で、僕が高校生から大学生の頃は、いわゆる「新自由主義」がはやっていて、弱肉強食の思想で、自分にも他人にも厳しくみたいな。これもほとんどの人はついていけないだろうなと思いました。
「自分に甘く他人には厳しい人」だけだったら、社会は成立しないんですけど、僕が大学生の時は東浩紀の環境管理型権力みたいな、「インフラストラクチャーを操作して政治を行おう」という議論がはやっていた。もちろん東さんはそれほど単純な議論をしていませんが、それが今では「無意識データ民主主義」といって、一人ひとりが社会のことを考えなくても、AIがいい感じに調整して社会を構築してくれる、みたいなビジョンが生まれています。それなら「自分に甘く他人には厳しい」人たちばかりでも社会は成立するんですけど、それもまずいだろうと。
僕が望んでいたのは、「自分にあまり負荷がかからないけれど、他人に優しくできる社会」。常に「おまえ今差別しただろう」とか言わずに、でも「差別なんてつまんねえよな」と思える、そういう社会システムって誰か提唱していないのかなと思った時に、内田先生の『ためらいの倫理学』に「とほほ主義」というのがあった。これがばっちりというか、「まさにこれだ!」と思いまして。
内田 なるほどね。それは宮崎哲弥を少し批判的に論評したときに使った言葉なんです。「彼には〝とほほ〟の感覚がない」と。小田嶋隆や高橋源一郎にはあるけど、彼にはない、と。
「今の社会がろくでもない」というのは確かですけれども、それを外側から批判する権利は僕たちにはない。だって、現に選挙権を得てから何十年も経っているわけです。言論の自由、集会結社の自由を享受してきながら、「こんなふう」になってしまったとしたら、それをもたらした責任の一端は自分にもある。自分が非力だったから、自分のアイデアに現実を変える力が足りなかったから「こんなふう」になってしまった。
だから、切れ味のいい、他責的な言葉づかいでは現実について語れない。語ってもいいけれど、その批判はそのまま自分に跳ね返ってくる。そうすると、つい「とほほ」というため息が洩れるわけです。
「とほほ」とへたり込んだところから、またなんとか立ち上がって、「なんとかしなきゃいけないなあ」と思う。とりあえずわかってることは、集団のパフォーマンスを上げるためには、誰かのパフォーマンスを下げるというのはしちゃいけないということです。これも繰り返しになりますが、集団のメンバーの誰かを傷つけたり、論破したり、屈辱感を与えることによって集団全体のパフォーマンスは上がらない。
長く教師をやっていると本当にわかるんですけれど、「みんなに可能性がある」というのは理想論じゃなくて、教師の実感なんです。でも、可能性の発現を自分自身で抑圧している。小さく固まった自分自身であることに居着いている。その「居着き」からどうやって彼らを解き放つかと、というのが僕の教える者としての課題なんです。
その子たちを責めてもしようがないんですよ。撒いた種子が芽を出さないからと言って、種子を責めても仕方がない。それよりお水をやって、肥料をあげる方がいい。教育はそういう植物的な比喩で考えた方がいいんです。なかなか芽を出さない種子に対しては、忍耐強く、芽が出るのを待つ。
愛は伝わらなくても「敬意」は伝わる
内田 集団としてのパフォーマンスを上げる、全体としての収穫を豊かなものにするには、「誰が集団の足を引っ張っているんだ?」という「犯人捜し」をするより、誰に対しても親切にするのが一番効率的なんです。
人って親切にされると、ちょっと「開く」んですよ。親切とか敬意には感染力があるんです。こちらが愛情を示しても全く気付かないという人はいるんです。でも、不思議なもので、敬意を示されて気がつかない人っていないんです。「鬼神を敬して之を遠ざく」と『論語』にありますけれど、鬼神の類でさえ、敬意を持たれていることはわかるんです。鬼神に伝わるものが人間に伝わらないはずがない。
だから、小さく固まって自分に居着いている頑なな子たちには愛を示しても通じないけれど、敬意を持って接すると「敬意を以て接している」ということだけは通じる。この人は自分に敬意を持っているということはわかる。
敬意って「距離感」のことですからね。相手は結構遠くにいて、自分の方を見ているだけです。もしここで心を許して、心を開いても、急に近づいてグサッと刺すというようなリスクはない。あんまり近間に寄らず、遠間を保ちながら、ただ見ている。そうするとちょっとずつ心が開くということがある。武道における「間合」と同じで、「適切な距離をとること」ってすごく大事なんです。
李 そう考えると、いくらインフラのテクノロジーが発達しても、教育においては、先生がおっしゃるような人間関係というものが、むしろ必要になっていくのではないかと思います。
内田 人間ってやはり生き物ですから、誰もが豊かな潜在可能性を蔵している。まだ芽が出ていなくても、きっかけさえあれば開花する。それは僕の教育者としての経験がもたらした信念なんです。可能性を持たない人は一人もいない。それが開花しないのは、周りの支援が足りないからだという気がするんです。
査定とか評価とかは、可能性を開花させる上ではほとんど意味がないと思います。それよりは、学生と向き合っている時にそこで行き交う言葉が豊かなものであるということが、一番大事だと思います。
4年間学校で過ごした後になって「大学の記憶って一つしかない」ということはよくあるんです。「あのとき先生がこう言ったその言葉が自分の転換点になった」みたいなことを後から言ってくる卒業生がよくいるんです。こっちは自分が何を言ったのか覚えていないんですけれども、向こうはその一瞬に「開いた」わけです。だから、いろんな先生がいて、いろんな授業をやって、いろんなことをつぶやくのが有効なんです。「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」で何かが誰かにヒットするかもしれない。
李 おっしゃるように、なるべくいろんな先生がいた方がいいと思います。僕も学生の頃、「生徒から大人気」みたいな先生よりは、ちょっとニヒリスティックな先生のほうが好きだったり、世の中にはいろんな大人がいるということを知ることが、受験勉強よりも学びになっていました。だから学校教育は学校教育がすべきことをやればいいし、学校教育が問題というより、「学校教育以外の教育の場が壊滅している」ことが問題で、やはり凱風館みたいなコモンが必要なのだと思います。
内田 今の教育行政の制度設計をしている人たちは、学校でいい先生に出会って、居着きから解き放たれた。おかげで人間として成長したという学校における温かい経験をたぶん持っていないんだと思います。でも、本当は学校に行ったことで自分は「開いた」という経験を持っている人こそが行政の要路に立つべきなんですけどね。
李 そうですね。ちょっと暗い話をすると、査定のテクノロジーって今すごく発達していて、教師の成果を数値化するアルゴリズムが、長足の進歩を遂げています。そのせいで目の前の生徒ではなく、「アルゴリズムの数値をどう高めるか」ということが、教える側の基準になりつつあるんです。
内田 どうやったら高まるんですか?
李 項目がありまして、生徒が全国学力調査で高得点を取ると上がるとか、クラスがいじめゼロになると上がるとか。そういう指標を常に気にして、たとえばイギリスでは、成績の悪い子は全国テストの時に欠席させる例なども報告されています。たしかにアルゴリズムの数値は上がります。本末転倒もいいところですが、そのように現場の教師を査定するテクノロジーが、次々と導入されつつあります。他にも、授業中の生徒の身体データを監視するとか。
内田 そこまで行っているんですか? 脈拍とか?
李 そうですね、脈拍とか集中力とか。血圧とか発汗とか。
内田 それで集中力がわかるんだ。身を乗り出して興奮したら血圧が上がるのかな。みんなの血圧が低い時は、「テンションの低い授業をしていますね」とか言われるのかな。やだなあ。
人が成長できる政体は民主主義だけ。
李 これからは学校教育でもテクノロジーは導入されていくので、もう少し有効に活用できるようにしたいです。ある種の教育を公共圏に変えていくために、ひいては社会全体というか、先ほども言ったように「民主主義というのは教育の場」なので、その場を提供できるように。
現在の社会状況を語る時、僕はあまりこの言葉が好きではないんですけど、「ポピュリストに動員された愚かな連中」みたいな言い方をよく聞きます。たしかに愚かかもしれないですけど、問題なのは動員されることではなくて、一人ひとりに教育の機会、学習する機会がないことです。
「あんなつまらないやつに投票しちゃった。今度からSNSでニュースを見る時は気をつけよう」とか、そういう学びの機会がないことが問題で、僕も含めて人はみんな愚かですけど、少しずつ学んでいくことはできる。学んでいくことができる政治形態というのは、民主主義だけなので。
内田 その通りですね。民主政は市民たちが政治的に成熟していないと維持できない危うい政体なんです。帝政とか王政とかなら、民衆は自分たちが統治されていることに気づかないぐらいに政治に無関心であることが許される。許されるどころか奨励される。人々が統治に対して無関心なのが帝政や王政の理想なわけですよね。
民主主義はその正反対で、「最悪の政治形態」とチャーチルが言ったように、一定数の「まともな大人」がいないと機能しないシステムなんです。市民が成熟してくれること、賢明になってくれること、道義的にも知性的にも立派な市民になってくれることを政体そのものが要求する。この政体からの要求に市民が応えないと、民主政はたちまちイディオクラシー(愚民制)に劣化する。
民主主義はその意味では本当に危うい、脆弱な政体なんです。でも、市民に人間的成熟を求める政体というのは民主政以外に存在しないわけです。だからこそデモクラシーを守らなければならない。
マニフェストなきコモンの誕生
内田 僕の友人にモリテツヤ君という人がいて、彼は鳥取で「汽水空港」という小さなカフェと本屋をやっているんですけれど、先日町議選に立候補して当選したんです。本屋とカフェの店主は引き続きやるので、「この店にはいつ来ても町議会議員がいるから、一人ひとりの悩み事、困り事があったら言ってください」と。
それを議会に上げていって、場合によっては予算をとって、困り事を解決していきますから、と。そういう人たちって、前回の統一地方選挙からたくさん出てきているみたいです。僕の友だちでも何人か「もう我慢できない」と言って地方選に出て、けっこう当選しました。
コモンの構築って、今みんなあちこちでやっているんです。地方議会に出たり、地方で文化発信したり、経済活動したり。小さいスケールのものが、各地で同時多発的に始まっている。新聞はほとんど報道しませんけど、3・11の後から始まった流れなんです。あれからもう15年ですから、かなり大きなトレンドになってきています。みんな手づくりで一生懸命、「どうやってコモンを作って維持するか」ということを実験的にやっています。大きな変革の動きが一人ひとりの発意で起きている。この「一人ひとりの発意で」というところが貴重だと思うんです。
1970年ごろ、学園紛争が終わった後に、敗残の活動家たちが帰農するという流れがありました。その時は「これは革命闘争の継続なんだ」というようなイデオロギー的な基礎づけがあった。でも、そうなると「この活動がどこが革命的なのか」ということをうるさく査定された。
だけど今コモンを作ろうとしている人たちは、理論もないし教科書もない。旗を振るリーダーもいない。みんな友だちなんです。「自分の実践が正しくて君のは間違っている」というようなおせっかいなことを言う人はいないんです。
これが今の運動の一番いいところだという気がするんです。マニフェストがないから多様性がある。
李 そうですね。まずマニフェストがあって、それに従う集団が生まれるというよりは、いろいろな集団がマニフェストなしにつながり合っていく。
今日お話させていただいて、僕も理論をやっている人間なので、「地方におけるコモンの自治」を考える時、あまり教条的になってはいけないと思いました。多元的に、東アジアという独特の歴史と文化を持った領域を意識しつつ、テクノロジーと社会について考えていこうと思います。
たとえば今、人新世って言われるぐらい危機的な状況が世界的に起こっていて、そこで技術のことをどう考えるかというのがすごく大事なテーマで、そのいろんなアイデアの中の一つに、今言われている「テクノロジー」とか「技術」というのはいわゆる西洋的な技術観、テクノロジー観であって、それをもっと多様化していくべきなんじゃないかという議論があります。
中国の哲学者でユク・ホイさんという方がいらっしゃるんですけど、『中国における技術への問い』(邦訳、ゲンロン)という本の中で、中国の技術観を古代まで掘り下げて見ていって、そうすると天とか、道とつながっていたりとか、あるいは技術とか芸術とか政治とか自然というのが混然一体となっていたりとか。
もちろん中国の技術観が正しいんだと言いたいわけじゃなくて、批判的にも取り組んでいくし、そこには京都学派の話とかも加わってきます。現在、僕はユク・ホイさんの本を翻訳されている伊勢康平さんたちと一緒に研究会をやっていて、東アジアの技術観を、社会や文化との関係性から考察していけたらと思っています。
内田 李さんの場合は、日韓という2つの国の間をブリッジできる、ある種特権的なポジションにいると思います。「日韓の連携」ってこれから東アジアの中心的な政治課題になると僕は思っています。
この先、日米同盟基軸が破綻したら、日中同盟になるか、日韓連携か、あるいは完全に孤立するかしかないわけですよね。僕は合理的な解としては日韓連携しかないと思うんです。軍事同盟になることはないですけど、日韓連携すると、人口が1億8000万で、GDP6兆ドルで、米中に次いで世界第3位の経済圏になる。
5月にまた韓国に行って講演旅行をするんですけど(*対談は4月30日に行われた)、そこでも日韓連携のことを話してくださいと言われています。今の日本と韓国は、政府間は冷え切っているけども、経済活動は活発だし、観光客は韓国から800万人来て、日本から400万人。
活発な交流があるわけです。若い子たちはハングルを勉強しているし、K-POPを聞いているし、向こうの人たちも日本の文化に興味を持ってくれている。市民のレベルの、草の根の交流が本当に盛んなんですよね。これをだんだん広げていって、本当の形の日韓連携にしなきゃいけないと思っているんです。
テクノ専制とコモンへの道 民主主義の未来をひらく多元技術PLURALITYとは?
李 舜志
しかし、オードリー・タンやE・グレン・ワイルらが提唱する多元技術PLURALITY(プルラリティ)とそこから導き出されるデジタル民主主義は、市民が協働してコモンを築く未来を選ぶための希望かもしれない。
人間の労働には今も確かな価値がある。あなたは無価値ではない。
テクノロジーによる支配ではなく、健全な懐疑心を保ち、多元性にひらかれた社会への道を示す。
PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来
オードリー・タン (著)、 E・グレン・ワイル (著)、 山形浩生 (翻訳)、⿻ Community (その他)
世界はひとつの声に支配されるべきではない。
対立を創造に変え、新たな可能性を生む。
プルラリティはそのための道標だ。
空前の技術革新の時代。
や大規模プラットフォームは世界をつなぐと同時に分断も生んだ。
だが技術は本来、信頼と協働の仲介者であるべきだ。
複雑な歴史と幾多の分断を越えてきた台湾。
この島で生まれたデジタル民主主義は、その実践例だ。
人々の声を可視化し、多数決が見落としてきた意志の強さをすくい上げる。
多様な声が響き合い、民主的な対話が社会のゆく道を決める。
ひるがえって日本。
少子高齢化、社会の多様化、政治的諦観……。
様々な課題に直面しながら、私たちは社会的分断をいまだ超えられずにいる。
しかし、伝統と革新が同時に息づく日本にこそ、照らせる道があると著者は言う。
プルラリティ(多元性)は、シンギュラリティ(単一性)とは異なる道を示す。
多様な人々が協調しながら技術を活用する未来。
「敵」と「味方」を超越し、調和点をデザインしよう。
無数の声が交わり、新たな地平を拓く。
信頼は架け橋となり、対話は未来を照らす光となる。
現代に生きる私たちこそが、未来の共同設計者である。
日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想
内田樹
構想50年、執筆2年――待望の書下ろしがついに出版!
私は、どうして日本の極右思想に惹かれるのか?
三島由紀夫からの宿題を、本書で果たせたと思う。
著者が初めて「日本の右翼思想」を本格的に論じ、自ら「内田樹選集」に選定した記念碑的作品。
著者の論考「権藤成卿の人と思想」とともに、権藤成卿の主著「君民共治論」を全文収録。
戦後、「昭和維新の黒幕」として歴史の闇に葬られた大アジア主義・農本主義の代表的思想家である権藤成卿(ごんどう・せいきょう)の人生と思想が今、よみがえる――。