
1997年に浅田好未さんと結成したコンビ・パイレーツで、すぐに『ボキャブラ天国』(フジテレビ系)に出演するようになり、1998年に「だっちゅーの」で一世を風靡した西本はるかさん。ブレイク後の葛藤やつらかった経験、そして当時「2年ぐらいずっと彼氏いました」と恋愛事情まで告白! 売れ方の瞬間最大風速が“最強”だったパイレーツの裏側に迫る。
意外な「だっちゅーの」の誕生秘話
――1998年、ネタの締めのフレーズとして使っていた「だっちゅーの」が、新語・流行語大賞を受賞するほど大ブレイクしました。ただ西本さんはもともと俳優志望だったそうですが、なぜ芸人のようにコントをしてグラドルのように露出もするという、パイレーツになったんですか?
西本はるか(以下、同) パイレーツってアイドルなのか芸人なのかわからないポジションだったと思うんですけど、私たち本人もわかってなくて(笑)。私はもともと女優をやりたかったのに、今思うと『ボキャブラ』のオーディションを受けさせるために、事務所の考えで急きょ、好未とコンビを組まされたのかなって。
だからバラエティ番組でネタをしたり「だっちゅーの」を求められたり、ほかの芸人さんたちと一緒に営業に回ったりしていて、“私なにをやってるんだろう?”って疑問に思ったことは何度もありました。
――「だっちゅーの」でブレイクしたのも、もともと望んでいた路線ではなかった、と。
そうですね。売れたのはもちろんうれしかったんですけど、ああいう形で有名になることは全然想像してなかったので。もともと「だっちゅーの」は、私と好未が普段から口癖みたいに「だっつーの」ってしゃべってたのが元なんですよ。
で、それを知った『ボキャブラ』の放送作家さんが、ネタの最後に胸を強調して「だっちゅーの」をするっていうのを考えてくれたんです。正直、私たちのネタの中身っておもしろくなかったと思うんですよ。でも最後に「だっちゅーの」をすることで、なんとか成立してた感じですよね(笑)。
――「だっちゅーの」で“時の人”となっていた当時はどういった心境でしたか?
あの頃は若かったので“怖いものなし”って感じで調子に乗っていたと思います(笑)。
私たち2人って普通のアイドルみたいにいつもニコニコ笑っているわけじゃなくて、ありがたいことに、やる気がない感じを顔に出しても、不愛想な態度とかを面白がってもらえてたキャラだったのかなと。
『ボキャブラ』では実力のある芸人さんはスタジオのセット内に入れるけど、そうじゃないとセット外で立たされて、ガヤを飛ばすみたいな感じで収録に参加してたんです。ほかの芸人さんたちはちゃんと立っている中、私たちは疲れちゃってスタジオのセットの隅に座ってました(笑)。
胸の谷間を作るためにガムテープで…
――そういうお行儀の悪さや悪態をつくところも、パイレーツのキャラとして“味”になっていましたよね。ただ、仕事が忙しすぎて常に疲れ切っていたのでは?
ヤバかったですね~。テレビ、雑誌、営業とかの仕事が1日に3、4本入っていて、休みは月1日でしたから。たぶん「だっちゅーの」を1日100回ぐらいやったこともあったと思います。中腰の姿勢だから腰が相当痛くなるんですよ。
あと、当時一番つらかったのは冬のグラビア撮影。雪山での撮影でも肌を露出しまくってるので、シンプルに寒さがきつかったな。
ちなみに私は当時Eカップだったんですけど、それでももっと胸を大きく見せなくちゃいけなくて、撮影のたびに毎回毎回、ガムテープでぎゅっと寄せて谷間を作っていたんです(笑)。その頃はまだヌーブラがなくてガムテープ使っていたから、肌がもう荒れちゃって。
――二十歳前後の頃は多忙を極めていたので、恋愛をする余裕はなかった?
実は普通に彼氏いたんですよね(笑)。一番忙しい時期の2年間ぐらい、付き合ってる人がいました。
――なかなかのカミングアウト……! その恋人は、ブレイク前から付き合っていた地元仲間? それとも同じ芸能界のタレントさん? もしくは経営者などのお金持ち?
どれでもないです。1歳年下の一般人だったんですけど、パイレーツで売れてから知り合って、付き合ったんですよね。
ある雑誌の企画で、私たちパイレーツ含むグラビアアイドル何人かと、応募で当選した読者が会えるっていうツアーがあったんですよ。そこに同世代の男の人が参加していて、私と好未はなんかその人と普通に仲よくなって、ツアー中にメアド交換して。
それで後日プライベートで遊ぶことになって、その仲よくなった男の人が友達も連れて来て、その友達のほうと付き合うことになったんですよね(笑)。
同世代に比べたらけっこうもらえていたけど、実は…
――ブレイク中の売れっ子芸能人が一般人と普通にメアド交換して、その一般人が後日連れて来た男友達と彼氏彼女になった、と……。ウソみたいな夢のある話ですね。
その1個下の彼氏は実家暮らしの普通の一般人だったんで、お金持ってないんですよ。当時の私は恵比寿のマンションに住んでたんですけど、私の部屋に転がり込んできてましたね。仕事終わりでヘトヘトになって帰宅すると、彼氏のほうが先に帰宅していて私の帰りを待ってるっていう(笑)。
――下世話な質問で恐縮ですが、やはり恋人を養えるほど、ブレイク当時は月収うん百万円は余裕でいっていたんじゃないですか?
いえ、残念ながら固定の月給制だったんです(笑)。歩合だったら月に何百万ってもらえてたのかもしれないですけど、全然そんなにもらってなくて。
月給制だったおかげで生活水準は極端に上げてなくて、金銭感覚狂わずにすんだから、いま振り返ると逆によかったかもしれないなぁって思います。
それに、一番きつかったのは雪山のグラビア撮影でしたけど、売れてよかったなって一番思えた楽しい思い出もグラビアなんですよ。撮影でグアムとかサイパンとかパラオとか、10回以上南国に行ってたんですけど、あれはオイシイ思い出です。
取材・文/堺屋大地 撮影/恵原祐二