
2025年3月、現在生存する男性の中で国内最高齢となる111歳の誕生日を迎えた男性がいる。静岡県磐田市在住の水野清隆さんだ。
近衛兵のとき「2・26事件」を経験
水野清隆さんは第一次世界大戦が開戦した1914年(大正3年)に静岡で生まれ、20歳で日本軍の最精鋭である近衛兵として従事した。その際、経験したのが、近代日本最大のクーデターとも言われる「2・26事件」だ。
「2・26事件」(1936年)とは、軍主導の国家改造を求め、陸軍の青年将校らが率いた約1500人の部隊が、天皇の側近や大臣を次々と殺害し、首相官邸や警視庁など国の中枢を占拠した事件。クーデターはわずか4日で収束したが、日本が対外強硬路線を取り、太平洋戦争へと突き進むきっかけとなった日本史に刻まれる1ページだ。
過去のことを聞くと、なにかと「そんな昔のことは忘れちゃったな~」という清隆さんだが、この90年前の出来事を憶えているのだろうか。
「岡田総理大臣(当時)と間違えられて秘書官が殺されたりな、あのときゃ大変な混乱状態だったな。朝、上司に叩き起こされて、『反乱軍がくるかもしれんで、拳銃を持っていけ』と言われてな。
何も聞かされないまま、急いで陸軍省の警備にあたって、その後は皇居周辺に転戦したんだが、終わったもんで、帰ってきたというところだ。反乱軍の大将が兵隊を連れて暴れ込んだという詳細を聞いたのは全てが終わったあとだったが…、まあありゃわずかな日数の出来事だったな」
戦争時の記憶は「海で魚雷をくらったこと」
近衛兵として従事したあとは、太平洋戦争で中国に出征した清隆さん。今年は戦後80年の節目だが、そのことについて尋ねてみると、
「もうそんなになるのか…、別に何も思うことはないな。今じゃ記憶も薄れてきてな。そんないつまでも記憶しとくもんじゃないで」
といいつつ、戦時中の記憶を聞いてみると、「海で魚雷をくらって泳いだことぐらいは憶えてるな」という。
「中国・満州で編成後、博多に帰ってきたんだ。そこから今度は船で南方に向かっている途中、フィリピン沖で敵の魚雷をくらってな。船が沈むもんだで、海に飛び込んだんだ。俺は竹の棒に掴まることができたが、海で死んだ衆もたくさんおったな」
魚雷の攻撃を受けてから4時間後、海軍の舟艇が助けにきたことで、一命を取り留めた清隆さん。その後、セレベス島(インドネシア)に上陸したが、
「船の都合がつかんで、そこにずーっと居座ることになってな。鉄砲も拳銃も海に落ちちゃったもんで、しばらく丸裸でいたでな。昼間は敵の空襲を受け、防空壕を掘っては逃げて、夜は攻撃に向かって、そんな日々を送る中で終戦を迎えたんだ」
終戦直後はアメリカ軍の船舶を借りて帰国した。清隆さんが31歳のときのことだった。
111年間で一番楽しかった年代は?
そんな戦前、戦中と激動の時代を乗り越え、終戦後は地元・静岡に戻り、海老芋や長ネギ、メロンを作るなど85歳ごろまで農業を営んだ。現在は子ども4人、孫10人、ひ孫10人、玄孫は人数不明だという。
111年間の人生を現段階で振り返ってみて、どの年代が一番楽しかったか聞いてみると、
「50代が一番よかったかな。
と懐かしそうに振り返った。清隆さんの50代のときはちょうど日本が高度経済成長期へと差し掛かった昭和30~40年代。静岡で畑仕事をしつつ、子育てもひと段落し、テレビ越しに野球観戦や相撲中継を楽しんでいた時期だったという。
では、大正、昭和、平成、令和-この4つの時代を生きて、一番印象的だった時代を聞いてみたところ、
「一番いいっていうのは分からんけども、昭和の時代は64年と長かったからな~」
と思いを馳せていた。
111年間の中で一番うれしかったことを聞くと、
「うれしいことは111年間の中でたくさん経験したから、一番を選ぶのは難しいな。いろいろな人に出会えて、子や孫やひ孫の顔もたくさん見れたしな、どれも大切な思い出だ」
最後に現代を生きる若者に何か言いたいことはありますか、と尋ねてみたところ、
「別に言いたいことはないな~。ああだこうだ言ったって、その人その人の人生だからな。俺もこんな年まで生きるなんて思いもよらなかったで。日本で一番長く生きるなんてな。
なってみると、なんだかな~って感じだけどな。
そう力強く語るひとつひとつの言葉の中に111年間を生き抜いた人の優しさや穏やかさがにじんでいた。この先も清隆さんのまだまだ続く物語があることを信じたい。
取材・文/木下未希