
新潟県糸魚川市能生(のう)にある、全国の相撲少年が集まる寮〈かにや旅館〉。そこが実質、相撲部屋となり、第75代横綱・大の里をはじめとして、続々と未来のスター力士を輩出している。
夫婦が親代わりになって力士を育てる
――新刊にて、横綱の大の里が中学、高校を過ごした〈かにや旅館〉をテーマにした理由を教えてください。
小林信也(以下、同)〈かにや旅館〉出身の関取は、大の里だけではありません。ほかに白熊、嘉陽、欧勝海も〈かにや旅館〉で育った力士です。
192㎝、191キロの立派な体格で、誰が見ても素質がある大の里に比べて、嘉陽は身長が171㎝と小柄だし、欧勝海もまだ線が細い。そんな力士たちが着実に力を付けてきている。
幕下、三段目でも6人の〈かにや旅館〉出身力士が研鑽を積んでいます。〈かにや旅館〉には、ただ選手を強くするだけじゃない、愛情がある、ほかの強豪高校にはない、魅力があると感じたのです。
〈かにや旅館〉は、新潟県糸魚川市能生町にある県立海洋高校相撲部の寮です。もともとは、総監督を務める田海哲也さんの妻である恵津子さんの実家でした。
恵津子さんのご両親は蟹漁をしながら、旅館も営んでいたんです。それを2005年に、新潟県の相撲連盟役員や強化委員長になった哲也さんが、地元の能生中学や、海洋高校の相撲部の寮として利用しはじめたのです。
昔の相撲部屋では、親方が弟子を鍛え、女将さんが食事や日常の面倒を見たり、悩みの聞き役になったりしました。
親方と女将さんは若い力士たちにとって、親代わりだった。ただ時代が変わり、女将さんの役割も変わりました。
昔は相撲部屋の門を叩くのは、中学を卒業したばかりの少年がほとんどだったので、部屋は人間形成の場でもありました。
しかしいまは大学や高校で優秀な成績を収めた力士が、数多く入門します。人間形成以上に、プロとして通用する身体づくりや、技量の向上が優先されます。
そんな相撲界の変化の影響で、女将さんが昔ほど深く関与する部屋は減ったといわれます。
そんななか、アマチュアの世界には10代の少年たちと寝食をともにして、夫婦が親代わりになって力士を育てる相撲部屋があります。そのひとつが〈かにや旅館〉です。
勝負に徹するか、人を育てるか。
相撲に限らず、中学生や高校生のスポーツ指導者は、選手として強くするだけではなく、人間形成も担うのが本来だと思います。
最近は強いチームや強豪校になればなるほど、勝負が優先されます。しかし田海夫妻は、徹底して愛情を注いで、人を育てることに情熱をかけているように見えました。
それなのに、大の里をはじめとして、大勢の〈かにや旅館〉出身の力士が育ち、実績を残している。そこが面白いなと。
なぜ、〈かにや旅館〉育ちの力士は丁寧にタオルを畳むのか
――夫妻のどんなところに人づくりの情熱を感じたのですか?
昨年、相撲界で、こんな話題が広まったのをご存じでしょうか。制限時間一杯になり、タオルで顔や上半身を拭いたあと、きちんと丁寧に畳んでから土俵下の呼び出しさんにわたす力士がいる……。
使ったタオルをそのまま無造作にわたす力士が多いのですが、実は、これ、〈かにや旅館育ちの力士〉たちなんです。大の里も白熊も、いまも丁寧に畳んでいます。強いだけではなく、礼儀も身につけているんです。
忘れられないのは、23年9月。大の里と白熊の十両昇進を祝って、海洋高校で「化粧廻し贈呈式」が行われました。
化粧廻しが許されるのは、十両から。化粧廻しや紋付き袴を揃えると150万円はかかります。田海さん夫妻は地元の後援者を回って、その費用を集めたそうです。
私も昇進をお祝いしたくて、〈かにや旅館〉を訪ねました。
「この化粧廻しは、年金暮らしのお年寄りやパートで働く人たちが大切なお金を出し合って贈ってくださったもの。その気持ちを絶対に忘れないでほしい。私が言いたいのはそれだけです」
ふつうの教育者だったら「贈ってくださったもの」のあとに「だから」が続くと思うんですよ。「だから、がんばれ」とか「だから、化粧廻しに恥じない力士になれ」とか……。
でも、恵津子さんは「その気持ちを絶対に忘れないでほしい」で終わり。大の里や白熊は、こういう人に育てられたのか、と感じました。
悪癖をあえて直さない理由
――相撲の指導にはどんな特徴があるのでしょう。
大の里は、中学進学と同時に〈かにや旅館〉に入り、能生中学に進学しました。地元の石川県でも小学生の頃から有望選手として知られていましたが、中学時代はなかなか目立った成績を残せなかった。
地元では「ほれみたことか」と地元に残らなかった大の里や、哲也さんの指導を非難する声もあった。
中学時代の大の里には、ある癖があったそうです。
その理由を哲也さん自身がこう語っていました。
「ああしろ、こうしろと言っても本当の力になりません。本人が気づいて、変える日が来ればいい。その方が本物になりますから」
ふつうの指導者なら、すぐに結果がほしいから助言するはずです。でもそれでは、根治療法ではなく、対症療法になってしまう。
単にその癖を矯正するのではなく、癖の元を基本的な反復練習やトレーニングを繰り返して直していく。ただし、直るまでは時間がかかります。
なかには、哲也さんを大の里の才能を伸ばしきれない、能力がない指導者だと評した専門家もいたかもしれません。そうした短期的な評価を気にせずに、時間をかけてじっくりと1人1人の力士と向き合う。
哲也さんが〈かにや旅館〉で力士の指導をはじめて、今年で20年になります。その成果は、大の里をはじめとする力士の活躍だけではありません。
哲也さんは能生町の行事などに相撲部員を積極的にかかわらせてきました。能生町の道の駅では相撲部員たちが授業の一環で自ら開発した人気のレトルトカレー「ごっつぁんカレー」を販売する姿を見ることができます。大の里たちも高校時代に呼び込みをしていたんです。
――地域密着なんですね。
だから、みんな能生の人たちに愛されているんですよ。ほとんどが、相撲が強くなりたくて、ほかの県や地域から能生にきた子どもたちです。それなのに、能生の人たちは大の里や白熊を郷土の誇りとして応援する。
〈かにや旅館〉出身のOBたちも能生に愛着という言葉以上の思いを持っています。大学を卒業したOBたちも能生に戻り、いろいろな形で〈かにや旅館〉を支えている。
高校生や中学生の指導はもちろんNPOを立ち上げ、子どもに相撲を教えるOBもいます。
いま、糸魚川市で壮大な構想が立ち上がっています。観戦スタンド付きの相撲アリーナ建設が計画されているだけではありません。大学病院や温泉リハビリ施設と連携し、巡業を終えた大相撲の力士たちが身体と心を休められる相撲の町にしようというアイディアも出ています。
それは、〈かにや旅館〉が――もっと言えば、相撲の魅力と田海さん夫妻の情熱が、高齢化が進む地域に活力を与えている成果だと思います。
取材・文/山川徹
大の里を育てた〈かにや旅館〉物語
小林 信也
祝・大の里関 横綱昇進! 第75代横綱。
新入幕から史上最速のスピードで最高位に。
唯一無二の感動。少年たちの夢を支え育む相撲部屋。
新潟県糸魚川市能生(のう)に、全国の相撲少年が集まる寮〈かにや旅館〉がある。海洋高校相撲部の田海(とうみ)哲也総監督が経営していた元旅館だ。そこが実質、相撲部屋となり、続々と未来のスター力士を輩出している。パワハラ、いじめ、不登校など、難しい問題が渦巻く中、田海夫妻が彼らの心身の成長に深くかかわり、そのおかげで生徒たちは練習に打ち込めている。本書は、大の里をはじめ多くの力士たちと田海夫妻を中心にした、〈かにや旅館〉で繰り広げられる感動の子育て、力士育成の物語。
【本文より】
この本は、運命の糸に導かれるようにアマチュアの相撲部屋を受け持つことになり、いまや大相撲で活躍する人材を輩出するようになった新潟県糸魚川市能生町の〈かにや旅館〉に光を当てた物語だ。(「はじめに」より)
【目次より】
序 章 能生町が人・人・人であふれた日
第一章 相撲部屋〈かにや旅館〉の誕生
第二章 有望な少年たちが集まり始めた
第三章 中村泰輝(大の里)が来た
第四章 〈かにや〉の生活と人間模様
第五章 大相撲の敷居は高かった
第六章 祝勝会前夜 母たちの証言
第七章 中村泰輝から大の里へ
第八章 大の里快進撃の陰に
第九章 〈かにや旅館〉の未来展望