〈日航機墜落事故から40年〉坂本九の長女・大島花子さんが語る亡き父との思い出「前日、一緒に自宅の庭掃除をした時の父の顔は今も胸に焼き付いています」
〈日航機墜落事故から40年〉坂本九の長女・大島花子さんが語る亡き父との思い出「前日、一緒に自宅の庭掃除をした時の父の顔は今も胸に焼き付いています」

死者520名を出した日航ジャンボ機墜落事故から40年。1985年8月12日に羽田空港を飛び立った日本航空123便は、お盆前というタイミングや当時開催されていた「つくば科学万博」の観光客からビジネス客などでほぼ満席だった。

中には企業の社長や元宝塚女優、さらに歌手の坂本九氏(享年43歳)も乗っており、事故の犠牲となった。坂本さんの長女でシンガーソングライターの大島花子さんは父親の名曲を歌い継ぎながら命の尊さを訴える。 

「8時12分という時間を見るだけでも辛い」

1985年当時、坂本九さんは歌手や俳優、テレビ番組の司会者など多岐にわたり活動し、まさに時の人だった。そんな坂本さんが8月12日に123便に搭乗したのは友人の市議選応援のためだった。

大島花子さんは当時11歳で、事故当日は母親で女優の柏木由紀子さんと妹の3人で渋谷のデパートに行っていたという。

「123便が行方不明という臨時ニュースを見たのは私だったと思います。母に『パパ、何時の便に乗ったの?』と聞いたことは覚えています。

40年経って日々楽しく幸せに生きながらも、ふと今でも8月12日は気分が沈みますし、日々の暮らしの中でふと、8時12分という時間を見るだけでも辛い思いがよぎることがあるのも事実です」

大島さんは当時11歳で「当日のことは今でもあまり思い出したくですし、記憶が曖昧な部分もある」と言う。だが前日、坂本九さんと自宅の庭掃除をしたことは鮮明に覚えていた。

「前日の11日、父と自宅の庭掃除をしました。暑い中で大変だったけど、その時の父がいた景色は今となっては貴重な日常の風景に父がいる景色として鮮明に心に残っていますね。

そして『行ってらっしゃい』と見送って、いつものように『ただいま』と帰ってこない父への喪失感は今もありますし、出来事は過去でも悲しみは現在進行形ということを感じています」

坂本さんの胸には肌身離さなかった茨城県笠間市の笠間稲荷神社のペンダントがかかっていた。その笠間稲荷との縁は今も大島さんが引き継いでいる。

「父は戦争中に祖母の実家である茨城県笠間市に疎開しており、思い出深い地だったんですね。母との挙式もこの神社で行いましたし、私たちを連れて休みなどにはよく出向いたものです。

笠間との繋がりは今も大切にさせていただいており、私は笠間応援大使をさせていただいています。

父はいつも忙しくしていましたし、一緒に過ごす時間は普通のご家庭の父と娘よりかは短かったかもしれません。

でも一緒にいる時間はめいっぱい遊んでくれて、家の前でテニスしたり、家でカラオケしたりと楽しい思い出ばかりが不思議と心に残っています」

自宅のカラオケでは坂本さん本人が歌うこともあったが、仕事関係のかたが歌うのをみんなで聴くことが多かったという。

「今でもたまに思い出すのは、仕事関係の女性の歌声を聴きながら父が『彼女の歌は、いいね』というようなコメントをしたんです。

声量があるとか高音が出るとか、上手いというようなことではなく、父にとっての歌を聴く時の指標はあたたかさや、優しさを感じる意味での『いい』っていうことなんだなあと。それはいま私が歌に向き合う時も大事にしていることです」

「いつか私の伴奏で父が歌う日が来たら…」

坂本さんの遺作となった『心の瞳』は、大島さんにとって特に忘れられない曲だ。

「父が亡くなるどのくらい前だったか……『新しい曲ができたからみんなで聴こう』と言って聴かせてくれたのが『心の瞳』でした。私が物心ついてから父が新曲を持って帰ってきて、みんなで聴いたのはその時が初めてで。

父が母に『僕ら夫婦のことを歌ったような曲だから由紀子(妻の柏木さん)が聴いたら泣いちゃうかも』みたいなことを言っていたそうです。

私は子供ながらにもその歌を聴いて感動して、幼稚園の時からピアノを習っていましたし『私の伴奏で歌ってもらいたい』と思い父に頼んでいたのです。

実際に譜面を作ってもらってもいました」

その願いは、坂本さんの葬儀の際にレコードから歌唱部分だけを取り出し、大島さんが歌に合わせてピアノを弾いて参列者に聴いてもらう形での実現となった。

「当時は悲しいよりも、大勢の皆さんの前で務めを果たすことに必死でした。泣かないように、きちんと弾けるようにと気を張っていたのかもしれません。

無事に葬儀が終わり、夏休みが終わって学校に行くと、先生もお友達もみんな事故の話に触れることなく何事もなかったように過ごしてくれたのが何よりもありがたかったですね」

あれから何年経とうとも迎えるのは辛いという8月12日、ここ数年は大島さん家族と柏木さん、そして妹家族らと共にお墓参りをして食事をするのが定番だという。

「おそらく今年もみんなでお墓参りに行き、お食事をすると思います」

大島さんは父であり歌手でもあった坂本さんとの日々を「音楽が日常にあった。それが私のシンガーソングライターとしての原点だとも思う」と振り返る。

「ライブなどで父の歌を歌うにあたり、永六輔さんに『上を向いて歩こう』がどのように生まれた歌なのかを伺いました。永さんは『頑張れ』とか励ましてる曲ではないとおっしゃったんです。

涙をこらえる少年の表情を思い浮かべて書いたんだと。そういう意味でも大人になるほど理解ができる歌なので、私なりに解釈しながら大切に歌っています」

また事故から40年を迎えた今年、新たな取り組みも始めるという。

「父が目を輝かせながら『感動しちゃうよ!』と私たちに聴かせてくれた『心の瞳』を、全国各地の学生と一緒に歌う旅です。8月1日には群馬県前橋市の群馬大附属中でやらせていただきました。

父の歌を全国各地で歌いながら、そして自分で作った日常を慈しむ歌を歌いながら、時に父と旅をするような気持ちになることもあります。私はコンサートだけでなく講演会なども行っているのですが、歌声やお話を通して、命の大切さを伝えていきたいです」

大島さんは被災地などで歌うこともあるが、そんな時には「悲しみを無理に消し去ろうとする必要はない、愛が大きい分だけ悲しいのは当たり前」と伝えている。

また「現在進行形で悲しみがあるとすれば、それはもらった愛が大きかったからだ」と、今ではそう思えるようになったという。

取材・文/河合桃子 集英社オンライン編集部ニュース班

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