「彼女は自由奔放な野生の猛獣でしたよ」中村あゆみ、デビューのきっかけは泥棒に入られて助けを求めたスナックでの熱唱だった
「彼女は自由奔放な野生の猛獣でしたよ」中村あゆみ、デビューのきっかけは泥棒に入られて助けを求めたスナックでの熱唱だった

昨年デビュー40周年を迎えた歌手の中村あゆみさん。現在も精力的にライブをこなし、積極的なメディア露出や新曲の制作など多忙な日々を送っている。

 

 

常に新しい目標を作りながら前進を続けているという彼女に「女性ロック歌手・中村あゆみ」の誕生秘話や自分を見失いかけた時期、今の思いを語ってもらった。(前後編の前編) 

ロック歌手・中村あゆみの始まり

80年代から活躍し、いまや女性ロック歌手の代表格としても知られる中村あゆみさん。そのダイナミックなサウンドとハートフルな歌声は、一歩前に踏み出そうとする人たちの背中を押し続けてきた。そんな中村さんが歌手になるまでの半生とは――。

幼い頃、両親が離婚し、大阪で父親と暮らしていたものの、3歳のころに父が再婚し、高校1年の時に福岡で高級クラブを経営する実母の元へ身を寄せることになった。

複雑な家庭環境を思わせる経緯だが、当時を語る中村さんの表情は全くと言っていいほど暗くない。

「大阪では遊びつくした感があったので(笑)。福岡も面白そうだからって決めたんです。福岡の高校は進学校で、当時男子が2000人に対し、女子は100人程度。めちゃくちゃチヤホヤされて楽しかったですよ。大阪時代(のヤンチャぶり)は封印して、アイドルみたいにふるまっていました(笑)」(中村さん、以下同)

そんな折、東京に住む作曲家の故・平尾昌晃さんの元へ行かないかという話が舞い込む。

平尾さんといえば当時、本業とともに歌手やタレントの育成にも力を入れていることで知られた存在だった。平尾さんと実母が知り合いで、母としては「(中村さんが)歌手になってくれたら…」という思いがあったという。



「母から『東京に行ってみたら?』といわれたとき、『歌手? なれたらいいけどね。それより東京! 楽しそうじゃん!』という気持ちのほうが強かったですね。誰も知り合いがいなかったけど、そんなことは全然気にもならなくて即上京を決めました」

ときはバブル景気真っ盛り。平尾さんの拠点が六本木だったため、中村さんは上京直後から華やかすぎる世界を体感することに。

当初は平尾さんのもとに内弟子的に住まわせてもらったものの、ほどなく飛び出し、自分でアパートを借り一人暮らしを始めた。

また、上京とともに転入したのは明大中野高校の定時制(現在は廃校)。芸能人が多く通う高校として知られ、同級生にはシブがき隊少年隊のメンバー、三田寛子、石川秀美などがいた。

親の仕送りをあてにしたくなかったので、日中は学費等の生活費を稼ぐため貴金属店などで働き、夕方からは高校、真夜中は六本木……という日々で、「『歌手になる』なんて野望はすっかり忘れていた(笑)」という。

そんな中村さんに、運命の出会いが訪れる――。

『私の声は、この曲の楽器の一部なんだ』

「顔と声がミスマッチで六本木で遊んでいるユニークな女の子」の噂を聞きつけて、一人の女性がコンタクトを取ってきたのだ。それが、現在のマネージャーである石岡和子さんである。

石岡さんは当時の中村さんを振り返り、

「噂通り、自由奔放な野生の猛獣でした。『彼氏?いますよ』なんてあっけらかんと答えるし(笑)でも、天真爛漫なアイドルの要素もあり、すでに大人の魅力もある。

なんとかして世に出したいと思いました」(石岡さん)

そんな折、2人の距離を一気に縮める、“アクシデント”が起こる。

「ボーイフレンドと遊んで家に帰ったら泥棒に入られていて、部屋はめちゃくちゃ。

もう散々だし、不安で怖くなって、思わず石岡からもらっていた電話番号に電話をしたら、『ここに来なさい』って。言われた先は石岡のお母さんが経営していたスナックで、泣きながら駆け込んだのを覚えています」(中村さん)

ひとしきり話をしたことで落ち着いた中村さんが石岡さんたちの前でカラオケを歌っていたところ、偶然訪れたのが、その当時THE ALFEEの作詞などをし始めていた高橋研さんだった。

高橋さんといえば、自身もアーティストとして活動しつつ、後に美空ひばりさん、小泉今日子沢田研二矢沢永吉、おニャン子クラブなど、錚々たる歌手の作詞、作曲を手掛けたことで知られている。

スターの素質を熟知する彼が、中村さんの才能を見逃すはずがなかった。

「高橋さんが、『あの子はロック歌手として絶対に売れる。僕にプロデュースをさせてほしい』と言ってくれたんです」(石岡さん)

高橋さんの言葉を聞いて「絶対にデビューさせたい!」と思ったと語る石岡さん。そんな彼女からの説得に、楽しさとたくさんの人を喜ばせることができそうだという未来を見た中村さんは、新しい一歩を歩み始めることを決意する。

ロック歌手・中村あゆみの始まりだ。

「高橋さんから楽曲をもらったとき、良い悪いとか、『私の曲!』といった感動ともまた違って、『私の声は、この曲の楽器の一部なんだ』というようなものを感じました。レコード会社の人たちや石岡など、たくさんの人が関わってくれていたのを見ていたので、みんなの覚悟が伝わってきましたね」

「あゆみちゃんは、私のビタミン」

1984年に本格デビュー。

そこから1年たった1985年に発表したサードシングル『翼の折れたエンジェル』が大ヒットする。

一躍人気者になった中村さんは歌手として多忙な毎日が続いた。とはいえ、「自由奔放な野生の猛獣」ぶりは、ちょっとやそっとでは崩れなかったようで……。

「相変わらず六本木にも出かけていたし、人と知り合うのが大好きだからよく遊びにも行ってましたよ。石岡をはじめ事務所のスタッフからも“恋愛禁止”と言われたことがなかったから。むしろ『写真週刊誌に追われるような存在になったのならすごいね』って(笑)」(中村さん)

「すでに彼氏がいたっていい年頃でしたし、なによりあゆみちゃんに『大人しくして』なんて言っても聞くわけがない(笑)。誰にでも、何事にも物怖じせず飛び込むのがあゆみちゃんの性分ですから。私なんて、あゆみちゃんに振られた男性たちに何度呼び出されて、どれだけ泣き言を聞かされたことか(笑)」(石岡さん)

出会ってから約40年、紆余曲折がありつつも二人三脚で現在までやってきた。

石岡さんは、中村さんよりひと回りほど年上だ。ここ数年は体調を崩したこともあり、何度も引退を考えたという。

「白内障が進んでしまい、ものがよく見えなくなってしまって。手術はしたんですが今後迷惑もかけられないし、ちょうどコロナ禍で、仕事も少なくなったしと『もうマネージャーを辞める』って伝えたんです」(石岡さん)

「(石岡さんが)目がよく見えないものだから、歩くのが遅くなってね。
振り返ったら『まだそこにいるの?』なんて感じになってしまった。

でも、私には彼女が必要ですから。『電話番だけでもしてよ。働かないともっと取っちゃうよ』って、結局辞めさせませんでした(笑)」(中村さん)

その後、石岡さんの目の症状は順調に回復。コロナ禍も落ち着き、以前のように2人で現場入りする日々が戻ってきた。

中村さんからの言葉に「……歳を取ると涙もろくなっちゃって(笑)」と、言葉を詰まらせながら目を抑える石岡さんはこう話した。

「あゆみちゃんは、私のビタミン。いろいろあったけれど、70歳過ぎた私をここまで元気にしてくれているんだから、私もまだまだ頑張らないと、って思いますね」(石岡さん)

長年連れ添った敏腕マネージャーの言葉に中村さんは「もうー! 泣かないでよ~(笑)」と明るい表情で大きく笑った。そんな2人の目下の目標とは。

「1月に石岡が『今年の目標として、あゆみちゃんを紅白に出す!』って言ったんですよ。実は何度かお話もあったんですけど、当時のプロデューサーの高橋研さんが、『アーティスト売りをしていくのに紅白は違うだろう』という方針で辞退したんですよね。だけど、やっぱり日本の歌手ですもの。
一度は出たい(笑)。石岡のためにも。皆さん、応援してくださいね!」(中村さん)

いつも一緒に夢を見られる存在がいる――。それも、中村あゆみの生きざまの賜物だろう。

PROFILE 中村あゆみ(なかむら・あゆみ)●1966年6月28日、大阪府生まれ、福岡県育ち。1984年に高橋研プロデュースによるシングル『MIDNIGHT KIDS』で歌手としてデビュー。翌1985年にリリースした3枚目のシングル『翼の折れたエンジェル』が日清カップヌードルのCMに起用されて大ヒットを記録する。1999年の出産を機に音楽活動を休止したが、2004年に2度目の離婚を経て、歌手活動を再開。

10月24日に大阪・ビルボードライブ大阪、31日に神奈川・ビルボードライブ横浜でワンマンライブ「中村あゆみ AYUMI NAKAMURA WONDERFUL NIGHT 2025 40th Anniversary 熱く、美しく、ときめきの夜AYUMI WORLD全開」を開催。

取材・文/木原みぎわ

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