「お客様が一人も来ない日が来るなんて」結婚、出産を諦め銀座に人生を捧げた女主人の最後の決断〈文壇バー『ザボン』47年の幕引き〉
「お客様が一人も来ない日が来るなんて」結婚、出産を諦め銀座に人生を捧げた女主人の最後の決断〈文壇バー『ザボン』47年の幕引き〉

作家の野坂昭如氏や重松清氏、島田雅彦氏などに愛された文壇バー『ザボン』が47年の歴史に幕を閉じた。店を経営する水口素子さんは銀座の文豪バー1号店との呼び声が高い『おそめ』の系譜を継ぐクラブ『眉』から独立し、1978年にお店を始めた。

世情が変わるなか、4年前には新装開店するなど、新しい試みもしたが存続は厳しいと決断。その理由や銀座で50年生き抜いた女性の人生を聞いた。 

「日本国内のあらゆる習慣が変わったことが、最後のトドメとなりました」

店の名付け親は丸谷才一氏で、案内状などは渡辺淳一氏や重松清氏が書き、店内には荒木飛呂彦氏の作品が飾られるなど、多くの作家や漫画家に愛された『ザボン』が8月末で店を閉じた。

オーナーの水口素子さん(79歳)はこれまで店を拡大すべく4回の移転を重ね、2021年に新装開店したばかりだった。

「78年に開店した最初の店は3坪の小さいお店ながらサントリーの故・鳥井信一郎さんが『ザ・グレンリベット』を仕入れてくださり、『小さいが良い酒を置く店』として多くの経営者や編集者に来ていただきました。

芥川賞の選考会が開かれた晩は受賞者を迎えて祝賀会を開くのが恒例で…。これまでバブル崩壊にリーマンショックと大きな危機を乗り越えてきましたが、コロナ禍で日本国内のあらゆる習慣が変わったことが、最後のトドメとなりました」

3度目の移転先となった店舗は建物が存続する限り契約更新するつもりでいたが、突然「耐震上の理由」から取り壊しが決まり、移転することに。

「時期が本当に悪かったと思います。もともと、次に移転することになるとしたら内装はNYの老舗バー『キング・コール・バー』を参考にしようと写真をたくさん撮っていました。

コロナ禍直後でもお客様は来てくださるだろうと内装をこだわり、2021年11月29日に心機一転再オープン。でも、コロナ禍の影響で世の企業は交際費に価値を見出さなくなりました」

店のお得意様の大手企業のほとんどで交際費が使用禁止になり、編集者が作家を連れ出す習慣もなくなったことが大打撃となった。水口さんは「まさかお客様が一人も来ない日が来るなんて思いもしませんでした」と力なく言う。

「また今日も暇だったわ…そんな日も多かったですし、お客様が1組も来なかった日は本当に絶望しました。

毎日祈るような気持ちでお客様が戻るのを待ちました。

毎月の赤字にもなんとか耐え忍んで参りました。でも今年2月に某作家先生に言われたのです。『もう期待しないほうがいい』と。その言葉で徐々に店を手放す態勢に入りました」

最終的に店の解約を決めたのは4月末。閉店することは同じ銀座にある文壇バー『銀座 クラブ数寄屋橋』の園田静香ママにも伝えた。

「『あのね、私、辞めるって決めた』と話すと、園田さんが『辞めないでよ、寂しいわ、私は生涯やるわよ』と鼓舞されましたが、私の決断は揺るぎませんでした。それで5月に店の解約をしたのです。

恥を忍んで言いますと、50年間ずっと着物で過ごしてきたものですから、足袋のせいで外反母趾が悪化して、去年からそれがひどく痛むようになりました。合わせて膝や太ももも痛くなって。50周年までのあと3年を頑張ろうと思えなくなった大きな理由のひとつです」

「出産はもちろん結婚は職業の宿命として諦めたんです」

同じ銀座の文壇バーでも活路の見出し方はそれぞれ違った。『数寄屋橋』は新規客を開拓したようだ。

なにが明暗を分けたのか。

「園田さんとはよく電話でもお話して銀座のママの中でも一番仲良しなんです。お客様がどうなんてことはお互い聞きませんけど、大企業さんではないけれど、勢いのあるIT系の新しい会社さんの方が来てくださるようになったと聞きました。

うちは新規オープンした際に、それまで絶対に入れなかったカラオケの導入やWi-Fiを完備にして、昼間は句会やサークルの会合、会議室の代わりに店を使えるよう新しい試みもしましたけど…うまくいきませんでしたね」

銀座で生きてきた50年、水口さんは結婚や出産は経験しなかったが、婦人科系のがんを2回経験したことが大きかったようだ。

「30代に入ってから20年間、ずっとお付き合いしてきた方がいました。銀座の女ですから、銀座以外で出会いなんてあるわけがありません。もちろん年配で立場のあるお客様となれば当然、不倫です。

銀座にはお客様の子どもをひっそりと産むママやホステスはたくさんいましたが、私はそうはなりませんでした。38歳のとき子宮がんで全摘出し、40代で卵巣がんを患い、半分摘出したからです」

だが、水口さんには幼少期から「エリートと結婚すること」が夢だった。銀座で働くきっかけも「ここでならあらゆるエリートに出会える」こともひとつの希望だったのだ。

「それを伊丹十三先生に言ったら『銀座の女は不幸の影がないといけない。あんたが幸せな女なら、いったい誰がこの店に来るんだ』と言われ、出産はもちろん結婚も職業の宿命として諦めたんです。

でもね、先ほど申し上げた20年付き合った方とは、結婚はしなくてもずっと一緒にいるものだと思っていたんです。バカでしょう、私って」

不倫は許されるものではない。だが強い恋愛感情や手に入らないものへのどうしようもない執着、それらが起こり得ることは銀座に限らずどの世界でもあることだ。

後編では水口さんの20年間にわたるただならぬ恋、その代償など、銀座の女の生き様を聞く。

取材・文/河合桃子 集英社オンライン編集部ニュース班

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