臓器提供の同意率アップからトイレを綺麗にする効果まで…池上彰が解説する「社会を変えるナッジ理論」
臓器提供の同意率アップからトイレを綺麗にする効果まで…池上彰が解説する「社会を変えるナッジ理論」

男性用の小便器に描かれた的。その的目掛けて無意識に用を足した経験が男性なら誰しもあるはずだ。

これはナッジ(英語でそっとヒジでつつくという意味)理論と呼ばれるもので、強制ではなく、さりげなく巧みに人々を好ましい方向へさしむける行動経済学の手法だ。
書籍『なぜ人はそれを買うのか? 新 行動経済学入門』より一部を抜粋・再構成し、ナッジ理論を解説する。

そっとヒジでつつく「ナッジ理論」、歩きたくなるピアノ階段とは?

行動経済学の理論の特徴は実用性に富むことです。人はこう働きかければこういうふうに動くという法則は、じつは社会のさまざまなところで活用されています。

一例をあげましょう。以前、スウェーデンの地下鉄駅でエスカレーター横の階段をピアノの鍵盤のデザインにして、踏むと実際に音階が出るようにしたところ、エスカレーターをやめて階段を使う人が60%以上増えました。

これは「人は楽しいことがあるなら、行動を変えるのでは?」という発想から、健康づくりの一環にもなるよう、階段の利用率を上げるための実験でした。

このピアノ階段はいまでは世界各地で見られるようになりました。これなどは多くの人が興味を示すものに「自分も」と乗ってしまうバンドワゴン効果(同調効果)の活用事例です。

このように行動経済学の特性を活かして人々の行動をよりよく導くこと「ナッジ」といいます。

ナッジとは「そっとヒジでつつく」という意味の英語で、強制ではなく、さりげなく巧みに人々を好ましい方向へさしむける手法です。

ここからは、行動経済学を社会に活かす有効な手立てである「ナッジ理論」について見ていきましょう。

「デフォルト」という手段で臓器提供の同意率がアップ

人は選択肢が多いと迷ってしまって選べなくなります。私たちは情報量が多いのが苦手です。

だから、多くの情報を前にして面倒になると、自動的にヒューリスティックを稼働させて手短に処理しようとします。

しかし面倒だからといって、何でもかんでもばっさり切り捨てられていては、社会にとって不都合なこともあります。そこで、そうされないようにする有効な手段が「デフォルト」、すなわち、特定の選択肢をあらかじめ設定しておき、利用者がNOを選ばなければそのまま実行されるというやり方です。

その代表例として知られるのが臓器提供の意思表示です。提供してもよいという人が意思表示する方式(オプトイン)の国では同意率が低いのが現状ですが、提供したくない人がそれを意思表示する方式(オプトアウト)の国では100%に近い同意率になっており、両者にたいへん顕著な違いがみられます。

またネット通販などでは、購入するときにそのままだとメールマガジン登録となり、不要であればチェックを外すというケースがあります。こうした違いが意思決定に大きな差となって表れるのです。

日常にひそんでいる多くのナッジとは? トイレの便器からレジ前の床の矢印まで

ナッジといえば、有名なものにアムステルダムのスキポール空港の男性トイレがあります。ここの小便器には小さなハエの絵が描かれています。

こうすると利用者はおのずとそのハエめがけて用を足すようになるため、トイレが汚れず、掃除の手間が省ける。この男性の奇妙な習性を活かしたアイデアによって、年間清掃費は8割も減ったそうです。「トイレは清潔に」などと貼り紙を出すよりも、はるかに効果的でしょう。

また、お店のレジ前の床に、順にお並びくださいという呼びかけを示す足跡のステッカーを見かけることがあります。

これもナッジです。

新型コロナウイルスの感染が広まってからは、対策のためのさまざまなナッジが見られるようになりました。銀行のロビーなどでは、ソーシャルディスタンスを確保するために、三人掛けソファの中央にマスコットのぬいぐるみを置いている例が見られました。

そのほか、公共施設でもアルコール消毒液の設置場所を矢印マークで表示したり、非接触式検温カメラの手前に足跡のステッカーを貼ったりするなど、新型コロナウイルスという厄災は、私たちの日常空間にナッジ活用を一気に広めることになりました。

「運動を続けたら生命保険料が安くなります」

運動などで健康増進に努めたり、検診で問題なければ保険料が安くなったりする健康増進型保険が登場しています。

住友生命が同保険の加入時に健康数値の悪かった人を対象に、その後の状態を調べたところ、かなり改善されていることが判明しました。

数値が大幅に改善した人の割合は、血圧が44%、血糖値が31%、LDLコレステロールが39%。これを裏づけるように、加入者の1日あたりの歩数は、加入1年目と比べて1割近く増えていることもわかっています。

「健康のために運動しましょう」とただ呼びかけられても、人はなかなか動きません。ところが「運動を続けたら生命保険料が安くなります」「還付金としてこれだけ戻ってきます」と現実的なメリットを提示されたら、人はせっせと健康増進に努めるようになる。

逆に健康状態が悪くなれば、保険料が上がる可能性もあるのが健康増進型保険です。

そっとヒジでつつくというよりは、馬の鼻先にニンジンをつるすような手法です。これは「損をしたくない」という私たちの損失回避性の心理を突いた保険ともいえます。

動きたがらない人間を動かすには、ごく現実的な利得とセットにするのもひとつの方法です。

なぜ人はそれを買うのか? 新 行動経済学入門

池上彰
臓器提供の同意率アップからトイレを綺麗にする効果まで…池上彰が解説する「社会を変えるナッジ理論」
なぜ人はそれを買うのか? 新 行動経済学入門
2025/8/131,590円(税込)192ページISBN: 978-4054070509

★★世界が注目!ビジネスに効く!池上彰氏が解説★★
行動心理を読み解く最新理論【行動経済学】がわかる!
基礎からあらゆるビジネスの場面での使い方まで、豊富なイラストとわかりやすい解説で、サクッと理解できる!

●行動経済学を知らないとマズい時代が来ている!?
本屋さんで経済学のコーナーを眺めてみてください。いまや行動経済学の本が多く並んでいるはずです。こうした傾向は日本だけではありません。世界のビジネスエリートや大学、そして名だたる企業からも行動経済学は注目されているのです。

◆人間は感情や思い込み、状況に左右されている…
「人間とは何か」を追求すればビジネスにも役立つ!◆
・売上を上げたいなら、二択よりも三択!
・「損したくない」が行動を決めている!
・人を操る魔法の理論「ナッジ」とは?
・人は必ずしも合理的に行動しない!?
・あぶく銭ほど散財してしまうのはなぜ?
・値下げするなら「アンカリング効果」を使うべし!
・「成功率95%」と「失敗率5%」の違いは?

※2022年に弊社より刊行された『池上彰の行動経済学入門』の大幅増補改訂版です。

【もくじ】
●Introduction そもそも行動経済学とは何か?
●序章 経済は「人の心」で動いている!行動経済学のキホン
●第1章 身近にあふれる!行動経済学を利用したビジネス戦略
20円の差で売れ行きは伸びる?/「くわしくは○○で」が気になる理由/クラウドファンディングはなぜ流行したのか?/「当店の人気No1」などのポップが有効なのはなぜ?/ヒット商品の鍵を握るMAYA理論とは? ほか
●第2章 意思決定をする直感「ヒューリスティック」とは?
推しのグッズを買い集めてしまうのはなぜ?/なぜ人は損切りがうまくできない?/人はなぜ民間療法を信じやすいのか?/血液型がB型の人はマイペースというのはホント? ほか
●第3章 「損したくない」が行動を決める!?「プロスペクト理論」とは?
ベストな選択をするための「プロスペクト理論」とは?/損失を避けたい心性を証明する「価値関数」/宝くじ当選の夢を人はなぜ見続ける? ほか
●第4章 人は将来よりも「今」を重視する!「現在バイアス」「社会的選好」とは?
1年後の2万円より今日の1万円を選ぶのはなぜ?/空腹時にスーパーに行くとつい買いすぎるのはなぜ?/買い替えの足かせになる「スイッチングコスト」とは? ほか
●第5章 人を操る魔法の理論「ナッジ」とは?
そっとヒジでつつく「ナッジ理論」とは何か?/健康増進型保険は本当に健康に役立っている?/ビッグデータで「個別ナッジ」の時代に/ナッジの危険性と正しい使い方を知ろう! ほか
●第6章 行動経済学が切り拓く未来
「利他性」が生み出す新たな経済活動/SDGsを達成するためにも力を発揮! ほか

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