【野村克也さんの軌跡まとめ】プロ野球に多大な影響を与えたその人物像を振り返る

【野村克也さんの軌跡まとめ】プロ野球に多大な影響を与えたその人物像を振り返る

いくつものプロ野球球団で選手として、また監督やコーチとして活躍した野村克也さん。2020年2月11日に報道された突然の訃報は野球関係者だけでなく、お茶の間にも大きな衝撃を与えました。ここでは野村さんのさまざまな功績や言葉、そして死去に関連するトピックを過去のニュースから振り返ります。

名選手・名監督だった【野村克也】さん

野村克也さんは1935年6月29日生まれ。京都府出身で中学校時代の野球部では4番・キャッチャーとして活躍し、京都府大会でチームを四強に導いています。高校は無名の弱小校でしたが、卒業後の1954年に南海ホークスに入団。その後ロッテオリオンズ、西武ライオンズに移籍し、1980年の引退までに「通算試合出場数」と「通算安打・本塁打・打点・塁打数」の両方で日本プロ野球歴代2位(パリーグ記録では歴代1位)の成績を残しました。

野村さんは監督としても非常に有名です。1970〜1977年の南海「兼任監督」時代には就任4年目にチームをリーグ優勝に導き、8年の在任中5度のAクラス入りを経験。さらに1990〜1998年にはヤクルトスワローズ、1999〜2001年には阪神タイガース、2006〜2009年には東北楽天ゴールデンイーグルスで専任監督を務め、特にヤクルト時代にはチームを4度のリーグ優勝(うち3度は日本シリーズでも勝利)に導いています。監督退任後は野球解説者や評論家としても活動し、独特の語り口や遠慮のない物言いなどが人気を集めました。


参考:野村克也さんの選手時代の功績は以下をご確認ください。
http://npb.jp/bis/players/01603809.html

多くの野球ファンが野村氏を悼む

選手としては「戦後初の3冠王」や「歴代2位の657本塁打」といった記録を残し、監督としてもチームを何度も優勝へ導いてきた野村克也さん。インタビューなどで見せる「ぼやき」という独特の語り口でも親しまれてきました。


突然の訃報にファンからは「ただただ寂しい」「ショックが大きい」などの声とともに、「緻密で姑息でそれでいて大胆」「選手としても、監督としても、すごい方」などの評価が寄せられました。またメジャーリーグで活躍中のダルビッシュ有選手も、自身のYouTubeチャンネルの中で「野村監督の期待とか評価に対して応えられるように、いい選手になれるように日々努力をしていきたいと思います」と語っています。

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野村さんの「教え子」たちのメッセージ

監督時代の野村さんから直接教えを受けた選手・元選手たちも次々にメッセージやコメントを発表しています。

古田敦也さん(元ヤクルト)
「時に厳しく、時に優しく指導していただいたので今の自分がある。今の僕があるのも野村監督のおかげ」

真中満さん(元ヤクルト)
「(2017年に亡くなった沙知代さんについて)僕らは『すごいお母さんだなあ…』と思って見てました。本当にいい夫婦でしたよね」

新庄剛志さん(元阪神)
「俺がそっちに行ったら叩き起こすんでそれまでゆっくり寝ててください」

田中将大選手(元楽天、現ヤンキース)
「プロ入り一年目で野村監督と出会い、ご指導いただいたことは、僕の野球人生における最大の幸運のひとつです」

野村克也さんから「笑顔で見送ってくれ」 新庄氏、古田氏、マー君ら監督時代の教え子から追悼の声

亡くなる直前まで仕事に意欲的だった野村さん

野村さんは「亡くなる直前まで、仕事に対して意欲的」でした。2月の頭には専属解説を務めるサンケイスポーツでシーズン予想や紙面解説の打ち合わせをしていたとのことで、あまりに突然の訃報に関係者は「パニック状態」だそうです。


また3月には江本孟紀さんとの対談本が発売される予定だったといい、昨年11月に最後の言葉を交わした江本さんは「口癖のように『球場に行きたい、現場に行きたい』とおっしゃっていましたよ」と話しています。

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ヤクルト監督時代の功績が脚光を浴びる

野村さんの監督人生の中でも、特に注目されているのが「ヤクルトスワローズ時代」です。それまでBクラスが定位置だったチームを就任3年で強豪球団に育て上げた手腕は、スワローズのファン以外にも大きなインパクトを与えました。


特に有名なのは、野村さんの代名詞ともなった「ID野球」。緻密に計算されたチーム采配は「ID野球の申し子」古田敦也さんにも受け継がれました。またBクラスレベルの選手を「1年目は種をまき、2年目には水を与え、3年目に花を咲かせる」と育てた手腕も「野村再生工場」と呼ばれ、高く評価されています。

自身の金言どおり、多数の名監督を業界に育て残した

野村さんの有名な言葉に「金を残すは三流、名を残すは二流、人を残すは一流」というものがあります。現在のプロ野球12球団のうち6球団の監督が野村さんの教え子であることを考えると、野村さんはまさに「一流」の監督だったといえるでしょう。

その中でも、最も薫陶を受けたのはヤクルトを今年から率いる高津臣吾監督だといえます。新人だったヤクルト時代に鍛え上げられ、球界を代表するクローザーへと成長しました。野村さんが亡くなると、すぐさまキャンプ地の沖縄県から、都内の自宅へと弔問に飛んだといいます。


また元ヤクルトで「侍ジャパン」監督の稲葉篤紀さんも、野村さんの教えを胸に東京オリンピックで金メダル獲得を目指しています。

教え子たちを一流選手へ導いた野村氏のボヤキ語録

野村さんの「ぼやき」でも、特に有名なのが「王や長嶋はヒマワリ、オレはひっそりと咲く月見草」という言葉。戦後初の三冠王でありながら、世間の注目を王貞治さんや長嶋茂雄さんに奪われ続けた自身の経験を表しています。

他にも、貧打が続く楽天の選手に対する「スランプという言葉は、ヘボのエクスキューズ」「新人王?自惚れるな。一軍定着が先だ」、田中将大選手に対する「マー君、神の子、不思議な子」、育てた選手が他球団で活躍していることを自虐ネタにした「パ・リーグはID野球の時代やな。Iは岩隈、Dはダルビッシュ」など、数々の名言が残されました。


<野村氏のボヤキ語録>※一部抜粋
「王や長嶋はヒマワリ、オレはひっそりと咲く月見草」
「スランプという言葉は、ヘボのエクスキューズ」
「新人王?自惚れるな。一軍定着が先だ」
「マー君、神の子、不思議な子」
「先が分からないのは、野球と経済と天気予報」
「勝率5割超え? 貧乏人の貯金はすぐなくなる。人生と同じ」
「パ・リーグはID野球の時代やな。Iは岩隈、Dはダルビッシュ」

親族によるSNS投稿が議論の的に

野村さんの葬儀は身内のみの密葬でしたが、葬儀に参加した親族がSNSに投稿した「遺体写真」が議論を呼んでいます。投稿したのは団野村さん。故・野村沙知代さんの実子で野村克也さんの義理の息子に当たる人物です。アメリカで交渉代理人として活動している団野村さんは、「彼の旅立ちを私と同じように祝うべきだ」という英語のメッセージとともに棺に横たわる野村克哉さんの写真を掲載しました。これに対しては賛否を呼び、物議を醸している。

一例を挙げると、
「最期の姿が見れて良かった」
「色々な弔い方があっていいのだと思います」
などのという声がある一方

「非常識なので消してください ノムさんもこんな風に大々的にSNSで亡骸を載せられて嬉しいわけありません」
「野村監督の遺体がTwitterに載ってるけど有名人だからといってあまり見たくない……。それなら見なきゃいいとかいってるけどTwitterに載せるのは常識的にどうかと思う」
といった批判のコメントも数多く寄せられています。


これには教え子であるダルビッシュ有投手も、「本人がいいって言ってたならわかるけど、そうでないならダメでしょう。賛否の賛の意味がわからない」と克也さんを慮った。多くの野球ファンにとって衝撃的なニュースであったためか、現代の死生観も変化なのか多数の声が寄せられたトピックであった。

野村克也さん息子が遺体写真投稿に賛否の声…死生観に変化か

遺産の行方にも注目が集まる

「カネを遺すのは三流、仕事を遺すのは二流、人を遺すのは一流」と語った野村さん。人や仕事を残した功績だけでなく、推定で100億円にものぼる遺産があると見られています。


野村さんの子として有名なのは現・楽天の野村克則コーチですが、それ以外にも前妻との間の子や沙知代さんの子など、合わせて5人の子供がいると見られています。再婚同士の複雑な家族関係なだけに、相続をめぐるトラブル発生の有無に注目が集まっています。

野村克也さんが遺した莫大な「カネ」の行方 総資産は100億円!? 相続先は野村克則氏以外の他にも3人いた!

最後に

プロ野球界に数々の記録と功績を残した野村克也さん。野球ファン以外にも広く知られた方だけに、突然の死去に多くの人が驚きました。さらに密葬や遺産などで多数の声が寄せられたことで、プロ野球業界だけに止まらず、多くの人にとってノムさんという存在がどれほどのものか、そしてより喪失感が大きいものだと痛感したニュースであった。野村さんが残したノウハウや名言は、これからも野球界に限らずさまざまな人たちに受け継がれていくでしょう。

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