最近、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』が色んな意味で話題になっている。はっきり言って「低視聴率」「打ち切りなるか?」などネガティブな報道ばかりが目につく状況。
また5年以上レギュラーメンバーとして名を連ねた三中元克が“国民投票”の末に卒業となり、「スタッフが素人の男の子をオモチャにしている」という声もSNS上では散見されている。

いつからか時代の歩調とリズムが合わなくなってきた同番組。時代は変容し、従来の手法が通用しなくなってきたということだろうか?

世間がナイナイを発見した番組は、『天然素材』ではなく『とぶくすり』


「めちゃイケ」で座長的役割を務めるナインティナインは、同世代芸人の中でも図抜けて出世が早かったコンビだと言われている。
彼らの同期といえば、チュパチャップス(宮川大輔、星田英利)、よゐこ、キャイ~ン、くりぃむしちゅー、フローレンス(堀内健、原田泰造)、日村勇紀、TKOなど。同じスピードで全国区へ進出した同期芸人としてはよゐことキャイ~ンもいるが、正直、爆発力は比較にならなかった。当然、後に抱える冠番組のスケールもまるで異なる。

そんなナイナイの存在を、世間の多くがちゃんと認識した番組は『とぶくすり』(フジテレビ系)が初めてだったと思う。

当時、筆者は高校1年生であった。ここで、自分の印象をきちんと振り返って正直に綴りたい。『とぶくすり』スタート前より関東では、伝説の『吉本印天然素材』(日本テレビ系)が放送されていたが、正直、その人気は局地的なものだった。ファン層は、当時は決して多くなかったお笑い好きの女子小中高生が中心。吉本のプッシュで若手グループが東京へと進出してきていたものの、彼らのネタやトークを評価する一般層はかなり少なかったと思う。もちろん、現在の彼らを見れば素晴らしいのは明白。
だが、リアルタイムで評価している東京者はお世辞にも多いとは言えなかった。

そんな若手集団の中で、最後尾をへびいちごと共に争っていたのがナインティナイン。ぶっちゃけ、これが幸いした。天然素材にいるイメージが薄かったために、我々は容易にナイナイを受け入れることができた。
『とぶくすり』の前身である『新しい波』のディレクターであった片岡飛鳥氏は、天然素材の中で一際声援が少なく、一際目つきの悪かった2人をテレビで発見し、自身の番組に起用することを決めたのだ。
「当時会社は、すでに大阪で絶大な人気を誇った雨上がり決死隊を売ることに力を注いでいたため、問い合わせがあった時には『雨上がり決死隊ではないですか? 本当にナインティナインですか?』と何度も聞き返したという」(著・黒澤裕美『ナインティナインの上京物語』より)

『夢で逢えたら』を思い出させる『とぶくすり』


なぜ、『とぶくすり』でのナイナイがそれほど受け入れられたのか。元も子もないが、光ってたからとしか言いようがない。

中でも、岡村隆史。現在の姿とは異なり、あの頃の岡村は番組で仕切り役を務めることもあり、その資質と若者特有のトゲトゲしさと高きモチベーションは、我々の期待を煽るに十分のものがあった。

また、先人のバトンを受け取るのか? という状況と期待材料も揃っていた。『とぶくすり』は木曜深夜に放送されていた30分番組。ローテーションとしては0時40分からTBSで放送される1時間番組『ダウンタウン也』を観て、それから30分置き、チャンネルを換えて『とぶくすり』を30分観る……というのが寝る前のイケてる流れだったと思う。
後のナイナイとダウンタウンの関係性を思うと運命的であるが、やはり、視聴者的に『とぶくすり』は『夢で逢えたら』を彷彿させた。
『とぶくすり』のコントに内村光良が急遽出演して岡村と濱口を驚かせる一幕もあったし、どこかでみんなが意識していたと思う。

『夢で逢えたら』は91年に終了し、その後にウッチャンナンチャンとダウンタウンによる『夢の中から』がスタートするも翌92年に終了。その約一年後に、『とぶくすり』は開始している。

ナインティナイン、天然素材の最後尾から吉本の一押しコンビに


天然素材でくすぶっていたナイナイは、『とぶくすり』スタートによって絵に描いたような人気者になっていく。そして、吉本の一押しコンビに。『ジャングルTV』(TBS系)や『浅草橋ヤング洋品店』(テレビ東京系)などゴールデン枠のレギュラーも次々と獲得していった。
彼らが新レギュラーとして紹介されるや、観覧の若い女性客から「キャーッ!」と歓声が上がるのは常。
浅ヤンでMCを務めていたルー大柴が「ナインティナインって、こんなに人気があるの!?」と驚愕した光景は痛快であった。
「ナインティナインは、とにかく人気あったね。スタジオに登場するだけで“キャーキャー!”ってすごい悲鳴で。吉本の秘密兵器みたいに送られてきましてね。でも、楽屋では本番まで誰とも口利かないもんね。また、そこが色気があったんだよ」(水道橋博士)

後にロンドンブーツ1号2号やキングコング、はんにゃといったコンビが「ナイナイを彷彿とさせる」と評されたこともあったが、ナイナイブレイク時を知る者からするとかなり印象が異なる。

浅ヤンで共にレギュラーを務めた浅草キッドが岡村のことを“日本のチャップリン”と評していたが、そのストイックな姿勢は単純に「笑いたい!」と渇望する男性陣の欲求も満たしていた。どちらかと言うと、ナイナイは『オールナイト・フジ』で世間に進出していった頃のとんねるずと似た道を辿ってきているように思う。

戦略家・岡村隆史の凄さ


「一度、浅ヤンで本出した時に対談した。自分らのポジションに対して的確な批評の眼を持っててね。事務所内の競走が凄くて、吉本の選抜チームから浅ヤンへ送り込まれた意味というのをわかっていた。天然素材と一緒にいられないというか、横一線じゃイヤだという」(水道橋博士)

『とぶくすり』の頃、ナイナイは吉本で仲間だった芸人らより、スタッフや他ジャンルの芸能人と親交を深めることが増えていたという。番組内ではSMAPやJリーガーと絡む場面も多く、その姿からは本人らと大人たちによる戦略が透けて見える。このあざとさが受け付けられない層もいたとは思うが、彼らが放出する爆発力を思えば大した問題ではない。

とは言え、その爆発力をフル活用していたかといえばそうでもない。
「人気が出始めた頃の岡村は、ゴールデンタイムの番組はすべて断っていた。『まだ早いと思う。今の俺たちにゴールデンをまわせる実力もないし、飽きられて一発屋で終わってしまう』というのが口癖。ようやく始まったゴールデン番組も、『ナインティナインの』と番組名に名前が入らないことを気にした。それは、万が一番組がコケた時に名前がついていると、自分たちも一緒に『視聴率がとれないコンビ』として認識されるからだ」(『ナインティナインの上京物語』より)

一つ、エピソードがある。「ナインティナイン」というコンビ名の由来について、岡村は「ブレイクダンスで一番難しい技からとった」と明かしている。命名者は、もちろん中学時代にブレイクダンスに打ち込んでいた岡村。このネーミングを提案した際、岡村は矢部に「将来、『ナイナイ』って呼ばれたくない?」と未来予想図まで付け加えていたそうだ。
未来を見据えた覚悟と戦略が、やはり他の同期芸人と比べて図抜けていたのは確かだろう。

ミスチルや内田有紀とも比類!? 凄かった歓声


ダウンタウンやウンナン、ナイナイがブレイクする様を真横で見ていた出川哲朗は、“天下を取る芸人に必要な条件”として「まず、フェイスが良い。“キャー!”と渦巻く女子ファンのパワーが半端じゃない」と持論を展開している。
たしかにナイナイへの“ワー!”“キャー!”は物凄かった。芸人内でライバルを挙げるのは難しく、その瞬間風速は当時大人気だったミスチルや内田有紀らと比類していたと言っても決してオーバーではない。

のちに、松本人志から「ナインティナインはダウンタウンのチンカス」と揶揄されることもあったが、ナイナイは売れ続けた。遂には、片岡飛鳥チームは土曜8時にまで到達し、現在の「めちゃイケ」にまで続いているのは周知の事実である。
そんな同番組の歯車がいつから狂ったのかは、私にもよくわからない。
(寺西ジャジューカ)

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