松坂と異なった上原浩治の立ち位置
それは1999年の松坂大輔(西武)と上原浩治(巨人)である。「リベンジ」と「雑草魂」で流行語大賞を獲得し、その活躍が社会的な事件として取り上げられた驚異のゴールデンルーキーたち。
だが、それぞれ日本を代表する投手でありながら、その立ち位置は全く違う。
甲子園の優勝投手で松坂世代の象徴的存在として語られることも多い松坂大輔とは対照的に、上原世代なんて言葉はほとんど聞いたことがない。なぜなら、東海大付属仰星高時代の上原は建山義紀(元日本ハム)の控え投手で、さらに体育教師を目指した大阪体育大の受験にも失敗。19歳の時には、アルバイトをしながら孤独なトレーニングと受験勉強を続ける浪人生活を送っている。
つまり、松坂がプロ1年目に16勝を挙げた同じ年齢の頃、上原はどこにでもいる名もなき無力な19歳だったのである。1年後に大阪体育大に入学した上原は驚異的なスピードで進化すると、これぞ「雑草魂」という成り上がり野球人生を突き進み、大学日本代表チームのエースとして君臨した。
苦渋の決断? 上原の巨人入団
そして、98年秋のドラフトで巨人に逆指名入団するわけだが、当時のスポーツニュースでは最後の最後までアナハイム・エンゼルスとの二択に悩む心境を吐露しており、周囲に説得されての苦渋の巨人入りといった雰囲気を漂わせていた。
今思えば、入団時から規格外の選手だ。これまでの江川卓や桑田真澄といったアマ球界の大物投手たちは、死にたいくらいに憧れた巨人入りするためにドラフトで大きな騒動を起こしていたが、上原は最初から最後まで巨人に対してドライだった。
もしかしたら、「巨人は通過点でその先にメジャーリーグ」という目標があることを公然と口にした最初の選手はこの男だったのかもしれない。
タイトル独占! 1年目の上原浩治
プロ入り後も、浪人時代の19歳の気持ちを忘れないために「背番号19」を背負った上原は開幕ローテ入りを果たし、5月30日阪神戦から9月21日阪神戦まで破竹の15連勝を記録。
最終的に20勝4敗、防御率2.09、179奪三振という驚異的な数字を残し、最多勝、防御率、最多奪三振、最高勝率、新人王、そして沢村賞とあらゆるタイトルを独占してみせた。
1年目の上原で印象深いのは、やはり10月5日ヤクルト戦(神宮球場)での「涙のペタジーニ敬遠事件」だろう。
と思いきやマウンド上の上原は、外角に大きく外す一球を投じた直後にマウンドを蹴り上げ、涙を流した。当時のテレビ中継では、その表情をアップで捉えると「汗と涙が混じっています」という実況アナの声も確認できる。「俺なら抑えてみせる。なぜ信用してくれないんだ」と言わんばかりの涙の抗議。
プロの選手としては決して褒められたものじゃなく、監督の采配批判とも受け取れる行動だが、嫌なものは嫌だと自分の感情をハッキリと示す上原らしいシーンだった。
メジャーリーガーになった上原
2年目以降、上原は巨人のエースとして定着し、度々最多勝や防御率のタイトルを獲得。04年オフには契約更改でポスティング制度でのメジャー移籍を訴えるも叶わず、時に故障に泣き、チーム事情からクローザーとして起用されることもあったが、海外FA権を取得した08年オフにボルチモア・オリオールズと契約。
33歳で念願のメジャーリーガーの仲間入りをすると、その後はレンジャーズ、レッドソックスと渡り歩き、13年には日本人初のワールドシリーズ胴上げ投手に。41歳になった今もボストンで投げ続けている。
巨人と上原浩治の今
そして今季から古巣巨人では、自身と同じ生年月日の75年4月3日生まれの高橋由伸が監督就任。昨年11月の由伸引退セレモニーでは、「いつでも話し相手になります」とビデオメッセージを送る良好な関係は健在で、実現はしなかったものの、宮崎キャンプでの「上原臨時投手コーチ」のプランもあった。
在籍時から度々ポスティングを訴え、FAでメジャー移籍をしただけに巨人との関係が心配されたが、今年7月8日の巨人vsDeNA戦で球団は、東京ドーム来場者に19番の上原浩治タオルを配布。タオルで人文字を作成するイベント「アシュガマ~ノ・アランチョネ~ロ」の一環だが、上原は自身のツイッターで嬉しそうに「東京ドームで、タオルをゲットしましたか??」「巨人関係者の皆さん、ありがとうございました」とツイート。気が付けば、巨人を出てから8年の歳月が流れた。
あの衝撃のプロデビューから17年。現在、上原は右胸筋痛で戦線離脱中だが、その去就には常に注目が集まる。果たして、来季42歳になる男はアメリカで投げ続けるのか、それとも……。
(死亡遊戯)
(参考資料)
週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1999年(ベースボール・マガジン社)
受験と私 上原浩治さん原点の浪人経験 苦しい時は19を見る(毎日新聞)