キャッチフレーズは“燃える闘魂”、元プロレスラーで現国会議員といえば、アントニオ猪木だ。
その日本人離れした言動は、多くの物議をかもすと同時に、世の男性のココロをわしづかみにしてきた。


モハメド・アリとの伝説の一戦とともに、語りぐさになっているのが引退試合だ。相手となったのはプロボクシングの経験をもち、柔道三段の腕前の持ち主でもあるドン・フライだった。

プロレス界に入ったきっかけ


太平洋戦争末期の1943年、アントニオ猪木(本名:猪木寛至)は横浜で誕生。父親を早くに亡くし、終戦後は家業が倒産して貧しい生活を送っていた。
猪木と同居していた祖父は、貧困を抜け出そうと新天地をもとめてブラジルへの移民を思い立ち、一家でブラジルへ渡ることとなる。当地で一家はコーヒー豆の農場を営み、猪木自身も朝から晩までコーヒー豆の収穫などの労働にあけくれた。

そのころ、日本ではプロレスが大衆のエンターテインメントのひとつだった。
なかでも力道山は熱狂的ファンが多いカリスマレスラーだった。
そんな力動山がプロレスの興行でサンパウロを訪れた際、当時17歳の猪木と出会う。

17歳の猪木はコーヒー豆の収穫で鍛えられたがっしりとした体つきをしており、筋肉隆々。これを見た力道山は猪木をスカウトし、日本に連れて帰ることになった。

プロレス界を牽引したアントニオ猪木


猪木は、ジャイアント馬場とともに、力道山率いる日本プロレスに入団。その後、日本プロレスで活躍するも、度重なる確執から1971年に追放処分に。翌72年に新日本プロレスを立ち上げた。


新日本プロレスはその後黄金時代を迎え、プロレス界を牽引した。様々な"仕掛け"をした猪木だったが、特筆すべきは異種格闘技への挑戦だろう。

「プロレスこそ格闘技の頂点」を標榜し、パキスタンの格闘家・アクラム・ペールワン、空手家のウィリー・ウィリアムスなどと戦った。
その最たるものは、プロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの“世紀の一戦”だろう。プロレス技がほぼすべて反則になるという猪木側にとってきわめて不利なルールだったこともあり、猪木は寝ながらキックを繰り出す戦法で戦った。結果はドローだったが、格闘技史上に残る歴史的一戦となった。


有名なフレーズも誕生……アントニオ猪木の引退試合


そんな猪木の引退試合は1998年、55歳のときに行われた。引退試合の相手は事前に対戦相手が決められていたわけではなく、引退記念イベント「THE FINAL INOKI TOURNAMENT」で勝ち上がってきた相手と一戦を交える、というスタイルをとった。

猪木の対戦相手を決めるための決勝戦にたどり着いたのは、元柔道家の小川直也とアメリカのドン・フライ。優勝の本命は猪木の愛弟子であり、会場中が小川の勝利を期待していたのだが、ドン・フライが勝利。猪木の対戦相手となった。

こうして行われた猪木vsドン・フライ。
試合は終始猪木ペースであり、得意技のコブラツイストからグランドコブラへと移行したところで、ドン・フライがギブアップ。試合時間にして実に5分弱だった。
それでも猪木のプロレス人生のすべてが集約された内容で、ファンにとっても見ごたえは十分だったようだ。

続いて行われた引退セレモニーには新日本プロレスを共に立ち上げた坂口征二や新日本プロレスの選手、前妻だった倍賞美津子、愛弟子の藤原喜明や高田延彦もセレモニーに駆けつけた。そして最後に最後に花束を渡したのは“世紀の一戦”で戦ったモハメド・アリ。アリが花束を渡すと、2人は握手をして抱き合った。


そして猪木は最後の挨拶でファンや関係者への感謝の言葉を述べるとともに『道』という詩を引用。「この道を行けばどうなるものか危ぶむなかれ」で始まる有名なフレーズを残し、最後は7万人と一緒に「1・2・3ダー!」で締めくくった。

現在の猪木は参議院議員として活動中である。
(せんじゅかける)

※文中の画像はamazonよりアントニオ猪木 デビュー50周年記念 スーパーリアルフィギュア