メガネスーパーの「V字回復」が大きな注目を集めているという。
8年連続の赤字で倒産寸前まで追いつめられていたが、質の高いサービスの提供に力を入れ、安売りから脱却したことが転機になったようだ。

詳しくは専門家に譲るとして、筆者が語りたいのは、そのメガネスーパーがプロレス界に参入した大事件についてである。
バブル時代全盛期、メガネスーパーが新団体を旗揚げしたことがあった。
その名もSWS。正確には、「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」のプロフェッショナルレスリング事業部となる。
99億円とも200億円ともいわれる大資本を投じながらも、わずか2年であっけなく崩壊。未だ謎多き、伝説の団体である。


もうひとつのUWFを目指して設立されたSWS!?


1990年5月に発足したSWSは、メガネスーパー創業者で社長だった田中八郎氏の肝いり企画だ。
元々、大のプロレスファンだった田中氏。社会現象的なブームにまでなった第2次UWFの冠スポンサーも務めており、UWFのような格闘技志向の団体に強い思い入れがあった。UWFには競争相手が必要とも考えており、「Uがセ・リーグとするならば、自身でパ・リーグを作ろう」と、その夢をSWSに託したのである。
要は、大金持ちのプロレスファンが理想のプロレス団体を作っちゃえ!ってことだ。
田中氏の息子が、新日本プロレスの武藤敬司ファンだったこともあり、当初はこの武藤をエースにするプランがあったという。が、引き抜きにあえなく失敗。

結局、全日本プロレスのNo.2だった天龍源一郎をエースに団体は発進することになった。

「1枚のチケットですべてのプロレスラーが見られること」も、田中氏の掲げた夢のひとつだ。
その豊富な資金力に釣られ、当時の2大メジャー団体の新日本プロレス、全日本プロレスから次々と選手が集結した。
しかし、よくいえばバラエティ豊か、裏を返せばごった煮的な寄せ集めで、格闘技要素を感じる選手も皆無。いぶし銀の中堅どころや引退した選手が目立つ不安な顔ぶれであった。


週刊プロレスのバッシングで旗揚げ前から逆風が


この顔ぶれを見た時点で、天龍はこの団体は潰れると直感したというが、確かにファン受けは微妙なメンツだった。
おまけに、業界のオピニオンリーダーである週刊プロレスは、天龍のSWS入りを受け「この事件(移籍)で『プロはお金である』ことがはっきり証明された」「今までの旗揚げは、すべて“ゼロからの出発だった”。メガネスーパーは資金60億円。これがはたして夢やロマンといえるかどうか…」などと表紙に打ち、ファンにネガティブイメージを植え付けまくった。
「金権プロレス」という言葉が一人歩きし、旗揚げ前から凄まじい勢いで逆風が吹き荒れていたのである。

本来、これだけの大スポンサーがプロレス界に参入し、業界の活性化や底上げを図ったことはむしろ喜ぶべき事態。実際、SWS設立を機に、新日・全日ともにファイトマネーが軒並みアップし、契約や待遇面でも見直しが行われている。
しかし、週プロに先導されたこともあり、当時は「メガネスーパー=金にものを言わせてプロレス界を荒らす門外漢」的な空気が支配的だったのである。



一応、格闘技路線寄りのルールだったが…


実は、エースになった天龍は田中氏の構想にはなかった選手だった。
本来は引き抜きで既存の選手を集めるのではなく、3年から5年をかけて若手選手を育て、生え抜き中心の団体にするつもりだったのである。
しかし、天龍を始め選手が集まってしまったからには興行を打たねばならない。結果、田中氏の意志に反して、SWSは準備不足のまま走り出してしまったのだ。
天龍がエースになった時点でSWSは格闘技路線ではなく「純プロレス路線」になったのは自然の流れだろう。
ただし、ルールは従来のプロレスとUWFの中間に位置するようなものが採用されている。
場外決着はなくし(場外戦はOK)、レフェリーに絶対の権限を持たせた。また、サブ・レフェリーの起用やリングドクターの常置、ジャッジ制を導入するなど「スポーツライクな闘い」「フェアプレイ精神」を強調。5カウントルールを検討するなど、革新的な試みも多く行っている。
しかし、試合を観る限りはたいした影響もなく、選手からもポリシーが感じられずで、ファンの受けは今ひとつといった印象だった。


ケタ違いの予算投入! 騒音対策に近隣の土地を買収!?


ぼんやりした団体のカラーの中で異彩を放ったのが、勝敗に重きを置いたルールだろう。
「勝利者賞」や勝利ポイントに応じた年間タイトルを用意し、年間5千万円の賞金予算を割いて各大会の主要試合を賞金マッチにすることを掲げたのである。
そもそも、勝敗よりも内容を重視するのがプロレスであり、選手は皆戸惑ったという。
団体運営に関して絶対の権限を持っていた田中氏が、本当にピュアなプロレスファンだったことが伺えるエピソードである。
(旗揚げ当初は「真剣試合」というポリシーを掲げたりもしていた)
だが、プロレスにかける情熱は日本一だったのかも知れない。なにしろ、SWSは予算規模がケタ違いだったのだ。

天龍の移籍金は3億円、ほとんどの選手の年棒が何千万単位だったといわれているのだから、プロレス界では異例中の異例の金額。
横浜の一等地にある道場の家賃は月100万円で、500万~700万円ぐらいする頑丈なリングを5つほど抱えていたという。
しかも、道場の練習の音がうるさいと苦情が来ると、その近隣の土地をすべて買ってしまったというから、まさに「金持ち喧嘩せず」を地で行く豪快さだ。
大浴場完備でホテルのように充実した設備の寮には、シャワー室も5、6部屋もあったとか。
新幹線移動は当然グリーン車で、大会1回の舞台装置で使用したレーザー光線代は300万円だったという。
ある選手によると、田中氏からの小遣いは1回70万円ぐらいで、退職金は3,000万円だったとも。
また、バッシングをした週刊プロレスやライバルの週刊ゴングを買収するどころか、それぞれの出版社ごとの買収も考えており、自前でプロレス雑誌を作る構想もあった模様。
新日本プロレスの買収や後楽園ホールのような施設の建設プラン、さらにプロ野球球団の買収までも視野にあったというから、スケールがデカすぎるのである。

後に田中氏は初年度だけで30億円かかったと語っている。
これらのエピソードは氷山の一角。
冒頭に述べた99億円とも200億円ともいわれる投資額の信ぴょう性は増すばかりである。


潤沢な資金や革新的な試みがむしろマイナス要因となった皮肉


そんな恵まれた環境が、逆に団体としての寿命を縮めてしまったのはあまりに皮肉であった。
ファイトマネーを含めた高待遇に甘え、試合に熱がこもらない選手が続出。さらに、大会場ゆえに空席が目立ち、派手で豪華な舞台演出が「映えない」選手たちの泥臭さを一層際立たせたのである。
寄せ集め集団のため、元々チームワークはバラバラ。さらに、プロレス界初の試みとして導入された「部屋別制度」が派閥の要因になってしまい、選手間の溝は深まるばかりだ。
当然、信頼関係が築けない相手との試合はいい試合になるわけがない。
絶大な利権を握る田中氏に取り入ろうとする選手も多く、エースの天龍を盛り立てるどころか、その足を引っ張ろうと画策する選手も。
もはや、崩壊しない方が不思議な状態である。

1991年3月30日には、東京ドームを舞台に世界最大の規模を誇るWWF(現WWE)との交流戦が行われ、天龍&ハルク・ホーガンvsロード・ウォリアーズというドリームカードが実現。
これが起死回生の一手となるかと思いきや、4月1日の神戸大会では、元横綱・北尾光司の八百長発言とアポロ菅原vs鈴木みのるの不穏試合が物議をかもすことに。
週刊プロレスは「SWSはまさに“病める大国”」と題して、再び猛批判だ。
天龍が社長の座に就き巻き返しを図るが、選手間のゴタゴタはずっと尾を引いたまま。
ファン離れも加速し、1992年6月には活動停止となってしまった。


SWS崩壊の原因は慢心ゆえのエゴではないか?


SWSが短命に終わったのは、バブル崩壊のあおりやマッチメイクへの不満、週刊プロレスのバッシングなど、さまざまな要因が重なったのはもちろんだが、最大の要因は選手のエゴだったのではないか。

「一人一人がわがままだった」(ケンドー・ナガサキ)
「みんなが一番になりたがっていた」(折原昌夫)
「やっぱり嫉妬!!」(ドン荒川)

恵まれすぎた環境に、勘違いをする選手が続出。自身の価値を必要以上に高く感じてしまい、団体のあり方やファンと向き合う姿勢をないがしろにしてしまったのである。

田中八郎氏は2010年に逝去。
メガネスーパー自体もプロレス界から手を引いたままだったが、2015年11月に両国国技館で行われた天龍源一郎引退興行をスポンサードしたことは、マニアに激震が走るニュースだった。
リングには大きくロゴが刻まれ、パンフレットにはSWSのロゴとともに天龍へのねぎらいの言葉が贈られていた。また、そのパンフレットやチケットの半券持参でメガネやコンタクトレンズの割引サービスが受けられる特典が付く仕掛けもあった。
赤字経営で苦しんでいた時期に見せた、粋な心意気。
田中氏のプロレスに対する熱い想いは、今もメガネスーパーに息づいているようである。
(バーグマン田形)
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