90年代のプロレスファンにとって、高田延彦vsヒクソン・グレイシーの世紀の一戦(記事はこちら)は「踏み絵」である。2度に渡る高田の敗戦は、プロレス最強神話の崩壊をもたらした。

これにより、プロレスを見限ったファンも多かったはずだ。

しかし、これ以前にプロレスファンにとって、それもマニアであればあるほどに深刻なダメージを受けた試合が行われている。
“喧嘩最強”と謳われたプロレスラーが完敗した名勝負……いや、迷勝負? に迫りたい。

“最強”ブルーザー・ブロディをねじ伏せたケンドー・ナガサキとは?


その男の名はケンドー・ナガサキ。
中学卒業後に、大相撲の立浪部屋に入門し、廃業後にプロレスに転向。アメリカ、カナダ、プエルトリコなど、主に海外を主戦場として来た昔気質のプロレスラーだ。

80年代には剣道着をまとい、頭頂部を剃り上げたざんばら髪の落ち武者姿に変身。
大胆なペイントをほどこした怪奇派ヒール(悪役)として大暴れし、世界中のトップレスラーと抗争を繰り広げている。
警察が介入できないような治安の悪いところも裸一貫で渡り歩いて来ただけに、その度胸は天下一品。

プロレス界最強説も根強い“超獣”ブルーザー・ブロディをリング上でねじ伏せた!
FMWを旗揚げした当時の大仁田が、ナガサキのあまりの暴れっぷりにビビって逃げまくった!
などなど、その武勇伝の数々はプロレスファンを大いにシビれさせたものである。

ちなみに、お笑い芸人ケンドー・コバヤシの芸名は、このケンドー・ナガサキから取ったと言われている。もっとも、ウソのエピソードトークが得意なケンコバのこと、鵜呑みにはできないのだが……。

打倒ヒクソン・グレイシー! 何でもありの試合にチャレンジ!


そんなナガサキの喧嘩強さをついに満天下に示す時が来た。95年9月26日、東京の駒沢オリンピック公園体育館で開催された大会である。

日本プロシューティング(現・修斗)の興行であり、「バーリ・トゥード(何でもあり)」ルールの8分3ラウンド制だ。

当時、「最強」の座に一番近かったのがヒクソン・グレイシー。その存在は、プロレス界においても無視できないものとなっていた。そこに噛み付いたのが、ナガサキをエースに立てて旗揚げしたばかりの大日本プロレスだ。
この時点で他のレスラーは若手のみであり、数ある弱小インディー団体のひとつに過ぎなかったが、ヒクソンを倒すことで、プロレス界の主役に踊り出るバクチに打って出たのだ。

ナガサキは、これがバーリ・トゥード2戦目。
ここで勝利を収めれば、夢のヒクソン戦実現の可能性は高まったのだが……。

相手はかませ犬!? ナガサキの勝利は既定路線だったが…


ナガサキの初戦は、生粋の喧嘩屋にして“反則王”ジェラルド・ゴルドー……の兄のニコ・ゴルドー。弟との実力差は明白であり、ナガサキは勝利を収めているが、苦戦していた感は否めなかった。

そして、今回の対戦相手はジーン・フレジャー。198cmの長身を誇る元ボクサーであり、伝説の第1回UFC(記事はこちら)に出場しているが、1回戦負けと戦績は振るわない。正直、ヒクソン戦が既定路線のようなマッチメイクだったが、現実はあまりにシビアだった。

ゴングと同時に相撲の立ち合いのように突っ込むナガサキ。
しかし、相手はヒザと両手で上手く距離を取り、右ストレートでナガサキはダウン。それには耐えて立ち上がるも、またも無防備で突っ込んだところに、狙いすました打ち下ろしの右ストレート一閃。
顔面に喰らったナガサキは真後ろに豪華にブッ倒れてKO負け。大の字に伸びたナガサキはそのまま担架で運ばれ、病院送りとなってしまった。

力道山急逝以来の衝撃!? 36秒の失神KO負け!


わずか1ラウンド36秒で失神KO負けの悲劇。
社長レスラーのグレート小鹿は「目の前が真っ白になった。
力道山先生が亡くなった時以来の衝撃だ」
とコメントを残している。

掴んだら負けないと豪語していたナガサキだったが、打撃対策は皆無。総合格闘技の黎明期とは言え、全盛期を過ぎた年齢もあって(皮肉にもこの日が47歳の誕生日)、あまりに無謀なチャレンジだったのだろうか……。

“喧嘩最強”の呼び声高かったプロレスラーが、凄みを発揮することなくあっさりと負けた。しかも、相手はグレイシー一族ですらない。この完敗ぶりは、プロレスマニアの幻想を粉々に打ち砕くに十分だった。
……筆者もその一人だ。

肩身が狭くなった(と勝手に感じる)プロレスマニアたちの希望の星、“グレイシーハンター”桜庭和志の台頭は、これから4年後のことである。

ちなみに、フレジャーはこの年の12月、K-1のリングにおいて、佐竹雅昭、武蔵に次ぐ第3の日本人選手として売り出されたタケルのデビュー戦でKO負け。見事な“かませ犬”となっているのが、また切ないのである……。