そして、何と言っても自炊の最中。
実は、上等な歌唱を聴かせて作るパン屋が存在する。杉並区にある「リスドォル・ミツ」では、ご主人の廣瀬さんがパン生地に向けて熱唱! パンを美味しくさせているらしい。
コレは生で見て、その違いを自身の舌で体験してみたい。そこで5月某日、お店に行ってパン作りの現場を見学させていただきました。
店内の厨房に入ると、そこはまさに戦場。廣瀬さんが体中を使って、パン生地をこねる! 叩きつける! そして、店の奥からお客さんに呼びかける「いらっしゃいませ~!」の声が、あまりにもいい声。完全に腹式呼吸なのだ。これは、スゴそう……。
そして、おもむろに「じゃあ、窓と戸を閉めて」と従業員に呼びかける。いよいよか。
ここからは“焼き”の工程なので、焼き上がるまでの間、廣瀬さんにお話を伺いました。まず、こういう試みを開始したキッカケは?
「歌を聴かせた方がいいとは、15~16年から思っていたんですね。そこで、いい歌をパンに聴かせるために14年前からボイストレーニングに通うようになり、12年前から実際に歌を聴かせるようになりました」
確かに、廣瀬さんの声には“本物”の迫力を感じる。ちなみに、先ほど歌っていたのは沖縄の歌『芭蕉布』。他には、フランスのミサ曲『天使のパン』や、『千の風になって』、『慕情』などのレパートリーが。
実は、この選曲にも理由がある。同店は“無添加”のパンしか作らない、こだわりのお店。
という事は、発酵促進剤を使うことは、当然ご法度。
そこで浮かび上がったのが、何を隠そう“歌”なのである。廣瀬さんは学生時代のアルバイトも含めると、40年のパン屋歴があり、パンの研究には「家、1軒分くらい使ってますね」(廣瀬さん)。
その結果、歌が発酵を促進する効果があることを発見。特に、上記の曲たちは歌を発酵させる効果が十分。ただ、好きな曲を歌っている訳ではないのだ。ちなみに、廣瀬さんが個人的に愛好している歌は、『祝い舟』という演歌なのだが、それは歌わない。それを歌うと「腐りますね」と断言する廣瀬さん。理由は過発酵しすぎるから。残念だ。
……と、お話を伺っている間にパンが焼けた模様。
そして、手に取ってパンを裂いてみる。すると聴こえる“パチパチ”という音。これを、俗に「パンのささやき」と呼ぶそうだ。なんて、食欲を呼ぶ音なんだろう! パンの表面には黒い点々があり、これもビール酵母を使うがゆえ。
そして、お楽しみの試食タイム。その前に、“おいしさの3原則”を廣瀬さんに教わった。それは、“大きい”、“やわらかい”、“甘い”、というもの。しかし無添加だと、大きくはならないし、やわらかくならない。甘くもならない。
それが、長年の試行錯誤によって、驚くほどのやわらかさに到達! 大きさも文句なしだし、甘さだって最上級。
最後にひとつ。歌と発酵の関係性について発見したのは、廣瀬さんの独自の研究の賜物。実体験で「おいしい!」と感じられたそうだ。
ただ、科学的根拠がある訳ではない。もし、この関係性について研究を行いたい方(学者、先生など)は、是非とも同店にご連絡を。廣瀬さんも「いくらでも歌いますんで」と、ウエルカムの姿勢を崩さない。
パンだけでなく、お酒だったり味噌だったり、発酵の際に“歌”を聴かせることは多い。興味深いテーマだと思うのだが。
(寺西ジャジューカ)