
ヴィッパーフュート市は人口2万1500人の歴史ある町である。教育に力を入れる土地柄であり、世界的企業もあるため近郊から通勤する人は多い。同所は昔からバチカンとの繋がりが深く、プロテスタントを信仰する人が多めのドイツにおいて、祖代々のカトリック教徒が1万3000人と全体の6割を超える。そして他にプロテスタント14.9%、トルコ人移民を中心としたイスラム教徒600人、無宗教21.9%と構成が続く。
このような保守的な同地において、2000年にやってきた日蓮宗は完全な異教であった。今では住民と寺との相互理解は進んだものの、寺の建立が計画された当初、賛否の議論は町全体を包み、完成後は放火事件も起きた。紆余曲折を経て今年15周年を迎えた大聖恩寺は、ここヴィッパーフュートにおいて、どのように地元との壁を取り去り、対話を図ってきたのだろうか。
田舎に異教徒が来るということ
大聖恩寺は日本人現地責任者・シュテフェンス祥馨法尼を中心に切り盛りされる寺だ。ドイツ人と結婚したシュテフェンス法尼は、夫を亡くした後、仏門の師匠にあたる竹内日祥上人と相談し、夫の別荘があり深い友人関係や人脈のあったヴィッパーフュートに、自身が帰依している日蓮宗の寺を竹内上人と共に建てて、諸宗教対話(宗教間の対話)を進めようと決めた。
最初、大聖恩寺をハンブルクやケルンといった、ドイツの大都市に建てる案もあったという。ハンブルク市長に相談した際に、ハンブルクに立ててほしいという依頼を受けたこともあった。
小さな町に海外の宗教寺院を建てるということは、当然ながら大きな反発を生んだ。

シュテフェンス法尼によれば、ドイツで公共建築物を建てる際は、まず構想のアウトラインを告知する必要があるそうだ。その計画が掲載された途端、住民から強い反対が起こった。初めて耳にした「Nichiren-shu(日蓮宗)」という言葉に、住民は良い印象を抱かなかったのだ。建立に際しては、当時のヴィッパーフュート市長からの推薦もあったが、そのことさえも住民は「市長や市議は賄賂をもらっているのだろう」と勘ぐり、対話しようにもまったくその余地はなかったという。
ヴィッパーフュートの住民にとって日蓮宗は未知の宗教である。若者の中には理解を示す人もいたが、年配者はまったく聞く耳を持たなかった。結局、長く続く反対に対し、市が仲介する形で地元カトリック教会、住民、新聞記者など、町全体で対話をしようということになった。市役所で4時間、竹内上人とシュテフェンス法尼は人々と議論を交わした。そしてついに反対の急先鋒だった地元カトリック司教が理解を示し、寺はようやく地元と対話の糸口をつかめることになったという。
雪解け、そして新しい苦難
2000年6月、大聖恩寺の開山法要に際し、地元カトリック司教が参列した。寺は町に受け入れられたかに思えた。
3カ月に及ぶ警察と消防の調査にも関わらず、犯人は特定できなかった。考えられる可能性のうち9割が放火であろうとされた。当時、ユダヤ教のシナゴーグや他宗教の集会場が同様の妨害行為にあっていた時でもあった。犯行動機は、この時期に同寺が中心となり催していた国際交流フェスティバルに対する妨害行為であろうと推測され、異宗教か偏向的な考え方の人物、組織による犯行であろうと結論が出された。
この不幸に見舞われながらも、幸い本尊だけは奇跡的に損傷がなく、シュテフェンス法尼は、竹内上人と共に寺を再建することに決めた。そして現在に至っている。

どのような人が日蓮宗に興味を持つのか
大聖恩寺の門を叩くドイツ人の多くは、主に元SGI(創価学会インターナショナル)の信者だという。SGIに入ったものの自分に合わなかった時に、次に大聖恩寺で学ぼうとやってくるそうだ。ここで葛藤が生じる。
創価学会とは日蓮宗の一派、日蓮正宗から分かれた新宗教である。
加えて日独の文化の違いにも直面する。日本の場合、自分の個性は傍に置き、教えられた仏教の考え方を、まず自分の中に受け入れる人が多い。ドイツの場合は、最初に自分なりの個性、考え方があり、それをベースに仏教を理解しようとする。すると個人的な解釈が加わり、本来の教えとギャップが出てくるという。
広がる地元との交流
日蓮宗を伝える面で苦労は多いものの、地域との交流は確実に広がっている。数校の地元ギムナジウム(ドイツの中等教育機関)との取り組みも、その1つだ。
ドイツでは小学校から「宗教」の授業がある(カトリックの家の子はカトリックの授業を、プロテスタントの家の子はプロテスタントの授業を受ける)。その授業の一環として、他宗教への理解を深めるために大聖恩寺で仏教を知る授業を組み込みたいと、ギムナジウム側から申し出があったのだ。
宗教の授業以外にも、ヴィッパーフュートではカトリック、プロテスタント、イスラム教、仏教の関係者が集まり、様々なテーマで話し合う住民参加型の交流会を開くようになった。

これらを通して、ヴィッパーフュートにおける各宗教間の風通しが、特に昨年あたりから一層良くなってきた。最初は反発一辺倒だった大聖恩寺の評価が、変わってきた理由はどこにあるのだろうか?
「自ら進んで相手の中に飛び込み相手を理解し、その土地を愛する一方で、ドイツの方々にも理解して頂くという信念が大事」とシュテフェンス法尼は言う。その土地にはその土地の人々が培ってきたアイデンティティや文化がある。仏教徒だとしても一度聖書を読み、そこに何が書かれているかを納得した上で、自らの仏教を鑑みることが肝要だという。「心を真っ白にして素直に相手の話を聞き、それが素晴らしいと感銘できればできるほど、自分が帰依する宗教がもっと深くなっていく」とシュテフェンス法尼は感じているそうだ。
ヴィッパーフュートを揺らした大聖恩寺だったが、その異教徒が起こした波紋は今、保守的になりがちなドイツのカトリックの小さな町で、諸宗教間の理解へ向けた鍵に変化し始めている。
(加藤亨延)