名器自慢をはじめ、数々のセックス証言が繰り出されて大きな話題となった「首都圏連続不審死事件」の木嶋佳苗被告が衝撃的な内容の小説を発表した。タイトルは『礼賛』(角川書店)という。


 
 これまでもブログで自分の過去を語り、マスコミにも手記を発表してきた木嶋被告。今回は一応、小説という形をとっており、主人公も"木山花菜"と実名ではないが、その生い立ちや愛人遍歴などは、公判やマスコミ報道で明らかにされてきた事件に至るまでの"軌跡"とほとんど一致する。自伝小説といっていいだろう。

 北海道の名家に生まれた花菜は、幼少期から早熟な少女だった。尊敬すべき父親と優しい祖父母たち。文化的教養に満ちた家庭環境。
小説には、スコーン、クイーン・アン・シェイプ、シベリウスの交響曲第二番というように、ブランド名やクラシック音楽、オシャレな食べ物などが随所に登場し、彼女がいかに"知性"を備えた"素敵"な女性だったかが演出される。特に食べ物に関してのこだわりはひと際だ。

〈父と母は、素材、調理法、食べ方、そして命を養う糧としての食の知識を私達に教えたのだ。それはグルメを超越した本当の美食のレッスンだった。父が何事につけ求めていたものは、優雅さであったと思う。〉

 だが、父親を最大限賛美する一方、母親の記述は辛辣だ。
花菜は4人妹弟の中で母から最も疎まれ、虐待まで受けていた。そんな母親を父親と比較し、軽蔑する花菜。

 これは、母娘、あるいは父娘の関係が主題になった小説なのかと思いきや、しかし、高校時代の描写に入ると、トーンは一変する。

〈私が初めてセックスしたのは、高二の夏休みのことだった。〉

 そう。この一文の後、怒濤のセックス描写が始まるのだ。


 夏期講習のため一泊2万円もする札幌のシティホテルに滞在していた16歳の花菜は一人の男性に声をかけられる。東京の一級建築士で32歳だという宮部徹だった。徹は連日豪華な夕食に誘ってプレゼントを渡し、花菜はそれに当然のように応じていく。そして帯広に移る花菜に徹も同行し、そこで2人は結ばれた。

〈「舌を出してごらん」と、言われ、素直に出した私の舌を、カレは頬をへこませて強く吸った。(略)彼の手は休むことなく私の耳や首筋を這い、私と彼の口からは、温かい唾液と舌がセクシャルな音を立て、熱い息が混じり、このキスに終わりがあるとは思えなかった。

「徹さん......もう、立っていられない...はぁっ」〉

〈「ああっ、徹さん、大きい」
 自分の膣に男根が入ってくるという驚きと恐れが綯い交ぜになった複雑な感情と、物理的に太く長い肉棒が自分の体の中に入ってくる痛みを伴う行為に、自然と出た言葉だった。〉

 初体験、たった1回のセックスの様子が12ページにもわたり延々と記述される。その後も花菜のもとに足しげく通う徹とのセックス描写が繰り返されるのだ。自伝というよりまるでエロ小説。

 もちろんそこには自身の"名器自慢"も挿入される。

「締めつけが凄いよ」「花菜ちゃんのヴァギナは神様からのギフトだね」

 木嶋被告は法廷でも、「テクニックではなく女性として本来持っている機能が高い」などと名器自慢をして世間を驚かせたが、本書は法廷同様、いやそれ以上の名器自慢と男性からの賛美、そして彼らとのセックスシーンで埋め尽くされるのだ。


 高校を卒業し、上京した花菜の男性遍歴とその自慢はさらにエスカレートしていく。10歳年上の"健ちゃん"と付き合いながら、別のアッシーのような存在の男性とも性交渉を持つ。性的関係はないが甲斐甲斐しく尽くしてくれるパトロンのような年上の男性もいる。高級な食事や上方落語などの文化にも触れさせてくれ、VIPなおじさまを紹介してくれた。そして上京から1年後、一流の男性たちを紹介する愛人倶楽部パピヨンにスカウトされ、複数のおじさまと愛人契約をし生活する様が描かれていく。

 最初の愛人は50代の会社経営者"伊東さん"。
高級フレンチでエレガントな会話を楽しみ、そして一流ホテルで関係を持った。

「花菜ちゃんとなら、動かさなくても勃起していられるよ。花菜ちゃんは絶世の美女に生まれつく以上にラッキーな能力を持って生まれてきたんだね。これは凄い」

 他にも住職や弁護士と愛人契約をする花菜。セックスカウンセラーで花菜の内診をした産婦人科医からは「一度だけでいいから」と拝み倒されその性器を絶賛された。

「私は、何万人もの女性を内診してきたけれど、こんな膣は初めて触れた。IUDを挿入した日の内診で、医療用グローブ越しにもわかったんだが、これは凄い」

 その後も池袋のデートクラブに登録して乱交パーティに参加したり、またナンパされたり、仕事で知り合った同世代の大学生など数多くの男性と関係を持つ花菜。男性たちは一様に花菜を賛美する。そして彼らとの関係は小説でこう総括されている。

〈こういった経験の積み重ねが、自己能力に対する自己評価を高めていった。私は、男性の評価を何より信じ、大切にした。〉
〈男性を立て、男性から褒められ、喜ばれることが私の喜びで、そういう男性と一緒に過ごす時間が一番リラックスできた。〉

 そして、自分が悪く言われるのも、こうした男との関係に対する女たちの嫉妬、欲求不満だと強く主張する。

〈私のことが世間で騒がれたのは、男性が求める女性像を演じて愛されたことへの反発が根源になるのだろう。〉
〈私の事件に多くの女性が反応したのを知って、男性に対して欲求不満や苛立を感じている不幸な女性が多いのだなと思った。(略)自分の人生に不満を抱いている女性たちが、私の容姿や人格的な誹謗中傷をすることで、自らの不幸や憤りを回収させている気がした。〉

 男性へ向けられる独特の視線と自分に対する絶対的な評価、それとは対照的な他の女性たちへの蔑み、そして、数多くのセックスシーン。これはこれで、かなり興味深いし、文章も悪くない。だが、読んでいると、どうしても違和感が残る。

 作者の木嶋被告は3人もの人を殺害したとして逮捕起訴、勾留され、法廷では一貫して無罪を主張してきた女性だ。現在二審までが終わりその判決は死刑。普通なら、小説でも、まず冤罪であることを全面主張するはずだと思うのだが、しかし、本書にはそうした記述が一切ない。法廷と同様、なぜかこれまでのセックス遍歴とその自慢ばかりが羅列される。

 彼女にとってそれが大切だということだけは分かるが、しかし無罪を主張しているなら、セックスシーンだけでなく、少しでも事件に対する自らの主張をして欲しいと考えるのは余計なことなのだろうか。

 実はこの小説は事件以前の2008年の段階で終わっている。物語はこんな記述で締めくくられる。

「二〇〇八年(平成20年)、今まで私の行動様式とは違った方法で男性との出会いを求めたのが、インターネットによる婚活だった。
 裁判やメディアによる報道によって、世間に知られている私のイメージはここから作られたものである。婚活の話はまた別の物語──」

 おそらく木嶋被告は第二弾を構想中(または執筆中)なのだろう。そこで事件の"真実"はどう語られるのか。今度はエロ小説でないことを祈りたい。
(林グンマ)