十七歳の少年が、裏庭に高速増殖炉を自作しようとした。
少年は、古い時計の針を集めた。

むかしの時計の針には、夜光塗料としてラジウムが塗られていた。
時計を分解して、ラジウムを削りとった。他にも煙感知装置やランタンのマントルからも、放射性物質を回収していた。
結局、五軒先からガイガーカウンターが反応するほどの放射線物質を母親の物置に溜め込んで、“米国連邦放射線緊急事態対応が発動され、FBIと原子力規制委員会がやって来て、お母さんの物置はスーパーファンド浄化地帯”に指定される。

このエピソードが紹介されているのは『Made by Hand~ポンコツDIYで自分を取り戻す』の「どう学ぶかを学ぶ」の章だ。

著者のマーク・フラウエンフェルダーは、“現代社会の馬鹿げたカオスから抜け出して”ラロトンガ島に移住することを決意。

旅行でラロトンガ島で一週間すごしたときの“壮観な大自然、豊かな果実が実る木々、穏やかな気候”に囲まれた生活を夢見て、ライフスタイルを変えるべく移住することにしたのだ。
ところが、“車窓の景色を二分間ほど見たところで、この島の生活に抱き続けてきた幻想をかき消されて”しまう。観光客の目には気にならなかった景色が、移住者にはくっきりと見えてしまったのだ。
“肺炎と気管支炎とシラミと白癬と足の爪の水虫と社会的孤立に耐えかねて”、家族は四ヶ月半でロサンゼルスにもどる。
しかし、著者は心に誓う。ロサンゼルスでも“ココナッツの日”に相当するものを見つけようと。

“ココナッツの日”とは何か? 収穫したココナッツの外皮を剥ぎ取って、ブッシュナイフで殻を半分に割る。娘も真似してすぐに上手くなる。“ココナッツの日は、私たちの日常生活のハイライトのひとつとなった。サリナのクラスメイトが遊びに来たときは、みんなで手伝ってもくれた。子供たちから、もっといいやり方を教わることもあった。”

こうして、マークのDIYがはじまる。

家庭菜園や、養鶏、昆布茶、ザワークラウト作り、養蜂、楽器制作、エスプレッソマシンの改造などなど。
ぼくが印象に残ったのはスプーンだ。
芝生を殺して家庭菜園をはじめたり、養鶏のエピソードも楽しいのだが、「そんな庭ないもの!」なので、「やってみるか!」と共感するのはむずかしい。
でも、スプーンづくりは、やってみたくなった。
“落ち着きなく次々とリンクをクリックしていくネットサーフィンとはまったく正反対の時間だ。何も決めずに木を削り始めると、だんだんスプーンの形が見えてくる。
まるで木の中にあらかじめ埋められているスプーンから、まわりの不要な部分を取り除いていくような感覚だ(これはミケランジェロが彫刻に関して言った言葉だ。彼は大理石の中にある形を解放しているのだと語っている)。”
彫刻刀で、くぼみを彫る。紙ヤスリをかける。
つくり方を工夫する。刃がまるまった彫刻刀をチューニングする。

失敗する(腿にU字型の傷をつくる)。
木のスプーンをプレゼントして喜んでもらう。

自分の物を自分で作ったり直したりすることで、自分が使っている物のしくみを深く知ることができる。ぶかっこうにできあがっても愛着を持つことができる。まわりの物に深いつながりを感じられるようになる。

自分の子供たちの教育についての話題もでてくる。

娘のサリナの算数の成績が九〇から三十五に落ちたことをきっかけに、著者は、娘といっしょに勉強をはじめる。
そこで、“アンスクーリング”が紹介される。ハット・ファレンガは“アンスクーリング”についてこう説明する。
“両親が気持ちよく容認する中、現実世界で子供たちをなるべく自由に学ばせる。この方式の利点は、親であるあなたが、別人に変身する必要がないというところにある。別人とは、たとえば、子供の器に計画的に知識を流し込む学校教師だ。そうではなく、あなたも共に生活し、学び、子供たちが疑問や興味を抱けば、それをいっしょに追求できる”
こどもを学校に通わせず、自分たちでこどもたちと一緒に学ぶ。まさに教育のDIY。

“「学校はいいものだがうまく機能していない、と言っているのではない。最初から間違っていたのだ。人生のその他の活動から切りはなして学習だけを行う場所など、馬鹿げた考え方だ」”
アンスクーリングを提唱した教育革命者ジョン・ホルトの言葉だ。

とはいえ、アンスクーリングは興味をそそられるアイデアだが、そんな度胸はない、と著者は語る。
しかも、いっしょに勉強し、娘も十分に勉強をしたと思った後の試験でも、成績はかんばしくなかった。家庭教師を雇うべきだったと著者は考える。

この本が単なる「DIYをやろう」というハウツー本におわってないのは、DIYをやっている様子や方法がていねいに描かれていながら、失敗や、妥協を隠すことなくさらけ出している点だ。
完全に綺麗なDIYの生活ではなくて、妥協や失敗だらけのポンコツなDIY。いや、そういったDIYこそが、ほんらいの姿なのかもしれない。

木製スプーンについて、著者はこう記す。
“スプーンが左右対称にならなかったとしても、精一杯やることが楽しい。欠点があっても不恰好であっても、それらも含めてすべてが私の努力の結果だ。私は失敗から学んで、次に活かすことができる。こうした向上心は、必要な物を買うだけの生活では絶対に得られない。私が木彫りを続けるかぎり、こうした向上の機会が山ほどあるのだと考えると、とてもうれしい”(米光一成)