明智光秀は、なぜ主君・織田信長に反旗を翻し本能寺を襲ったのか? これについては長らく議論が続いており、以前エキレビでも紹介したようにいくつか説が存在する。最近では四国政策をめぐる光秀と信長の対立を原因とする見方が、新たな史料の発見もあって有力な説として浮上しつつある。


一方で、時代劇などでは、光秀は信長に対し何らかの理由で恨みを抱き、謀叛を起こしたものと描かれることがいまでも多い。古くより根強いこの怨恨説について、本能寺の変と同時代に書かれた一次史料をもとに説明する研究者もいる。昨年末に出た、東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく 史料が語るとっておきの42話』(中公新書)には金子拓「明智光秀の接待」と題する一編が収められ、そこでは『兼見卿記』という日記の記述にもとづく、ある研究者の解釈が紹介されている。

『兼見卿記』は、戦国から江戸時代初めにかけて京都吉田神社の神主を務めた吉田兼見の日記である。その日記には、天正10年6月2日に本能寺の変が起こる少し前、5月14日付の記述として「今度徳川家康が信長に挨拶するため安土城に来るという。明智光秀が「在庄」を申しつけられた」と書かれていた。
さらに後日書き直された同じ年の日記には、「家康逗留のあいだ、光秀は「在庄の儀」を信長から命ぜられた。この間の用意のための働きは大変だったという」などといった記述が見られるという。

一体、「在庄」とは何なのか? 大正から昭和にかけて東京大学史料編纂所に勤めた戦国史研究の大家である高柳光壽は、これを「休暇」と解釈した。その推測の流れは次のようなものだった。

このとき甲斐の武田氏攻めから戻ってきたばかりだった光秀は、信長から「在庄」、すなわち休暇を与えられた。しかし家康が安土に参上するにあたり、ほとんどの重臣は出陣中もしくはその準備中で、接待役を担えるのは光秀ぐらいしか残っていなかった。
しかも彼はその役目が終わらないうちに中国地方への出陣を命ぜられる。高柳は怨恨説の根拠のひとつとして、そうした矢継ぎ早の命に対する光秀の不満を想定したのだ(ただし高柳自身は怨恨説を主張していたわけではない)。

とはいえ、吉田兼見の日記には、光秀が「在庄」を命ぜられたことしか書かれていない。「在庄」は本来「自分の所領している荘園にいること」といった意味だが、高柳はここから「在庄を命ぜられた」というのを、「自分の所領へ帰ることが許された」というふうに解釈したものと思われる。だがこれに対し、現役の東京大学史料編纂所の研究者である金子拓は異論を唱える。《日記には、休暇ゆえ家康の接待役を命ぜられたという説明がないから、高柳氏の解釈に大きな飛躍を感じてしまう》というのだ。


また「在庄を命ぜられた」ならともかく、「在庄の儀を命ぜられた」とあるのを休暇を与えられたと解釈するには違和感がぬぐいきれない。ここから金子は、『兼見卿記』全体を調べて、「在庄」という言葉がどのように使われているか洗い出してみた。そこでわかったのは、兼見は日記のなかで「在庄」の語を、接待の意味で使っているということだった。ここから、先の「在庄の儀を命ぜられた」との記述は、単に光秀が家康の接待役を命ぜられたということを指すにすぎず、そこに「休暇」の解釈が入りこむ余地はないと、金子は結論づける。怨恨説の史料的根拠の一つはこうして崩されたわけだが、この文章の終わりには、さらにハッとさせられる一文が出てくる。

《以上の検討結果はごくあたりまえのようでいて、実は意外に重要である。
光秀は武田氏攻め・家康接待・中国攻めと間髪を入れず重要な任務を命ぜられた。信長は本能寺で襲われるまで一貫して光秀に厚い信頼を置いていたということがあらためて確認される。では、そのように信頼を受けていた光秀がなぜ突然本能寺に信長を襲ったのか。この問題を考えるのは今後の楽しみに取っておこう》


『日本史の森をゆく』にはこのほかにも、東京大学史料編纂所に所属する現役研究者たちが史料から読み解いた、さまざまな歴史上の逸話が収録されている。それによれば、「在庄」のように言葉の解釈しだいで、その史料の意味合いがまったく違ったものになるというケースも少なくないらしい。たとえば正倉院に納められた奈良時代の古文書には、役所から「間食」が支給されたとの記述が出てくる。
しかし、ここでいう間食は、現代の食間食という意味での間食とはまったくの別物だった(正解は本書所収の「正倉院文書は宝の山」で参照のほどを)。

なお、正倉院に伝わる文書は、何らかの理由から選ばれた書類ではなく、東大寺の写経所で利用保存されてきた役所の書類が、奈良時代の終わりごろにまとめて廃棄されたものだ。現代なら、おそらくシュレッダーをかけられてしまうような類いの書類ということだろうか。しかし選択を受けていない廃棄書類だからこそ、有象無象の情報を抱え込んでいるのだ。ただ厄介なことに、江戸時代の天保年間以降の調査で、重要そうな書類は抜き取られ、巻物に仕立てられたという。おかげで、捨てられた当時の書類の姿かたちがわからなくなってしまい、後世の研究者は、そのバラバラになった書類を復元する作業を課せられることになる。
このように本書では、歴史上のエピソードだけでなく、研究者の史料の読み解き方や集め方についてもうかがい知ることができる。

東京大学史料編纂所では蒐集した史料をデータベース化して、ネット上で公開もしている(オフィシャルサイトはこちら)。その一つに「花押カードデータベース」がある。花押(かおう)とは、各種文書において人々が名前を署名する代わりに用いた一種のサインだ。

本書にも、その名も「自分の花押を作ってみよう」という一編が収録されている。そこでは花押の歴史や分類が解説されているのだが、執筆者の林譲は「このような歴史や分類を気にせずに花押をつくってみよう」との意図で先の表題をつけたという。たしかに花押のつくり方については、この文章以上にくわしく書いた本も出ているが、そういったものを読むとかえって形式にとらわれて、自由につくりにくくなってしまうというところはあるだろう。

じつは、私も以前、自分の花押をつくってみたことがある。それは『週刊朝日百科 日本の歴史・別冊 歴史の読み方8 名前と系図・花押と印章』という本に、古代から近現代にいたるまでの著名人の花押が紹介されているのを見て、ふと自分でもつくってみたくなったのだ。

花押は名前の漢字を崩してつくるのが基本だが、近現代の政治家の花押にはアルファベットを使ったものも存在する。たとえば、大正~昭和の外交官・政治家で、戦後は首相も務めた幣原喜重郎の花押は、「十」(重の意か)の下に、その名のイニシャルであるKを書き、地線を加えたものだ(実物は首相官邸のサイトを参照)。こうした例にならって、私も自分の姓からイニシャルのKに「近」の字、さらに名前の頭文字の「正」を組み合わせて、画像のような花押もどきをつくってみた。


まったくもってお粗末なもので恐縮である。ともあれ、オリジナルの花押をつくるのであれば、やはり歴史上の人物の残した花押をたくさん見るのがいちばん参考になると思う。先にあげた史料編纂所のデータベースもその一助となるはずだ。なお、このデータベースでは、いまのところ花押の形そのものからは検索できないが、前出の林によれば目下「花押類似検索システム」の構築を模索中とのこと。それが実現した折には、《独自に作成した花押に類似した日本史上の著名人物の花押が検索できるかもしれない》という。
(近藤正高)