●労基法を骨抜きにした「非正規雇用」システム

 筆者が暮らす東京23区内の某区役所の窓口に、「テンプスタッフ」の名札を首からぶら下げた職員がいて大変驚かされたのは、3年ほど前のことだ。いなくなった区の正規職員は、どこに消えてなんの仕事をしているのだろうと思ったものだが、最近ではその某区役所の至るところに派遣職員(=非正規公務員)がいるのが当たり前の光景となっている。

国の機関である法務局の出張所にしても同様なのだ。

 2018年の総務省「労働力調査」(速報)によると、会社役員や自営業者を除く日本の「労働者」5596万人のうち、37.9%に当たる2120万人が、契約社員や派遣社員、非常勤の従業員や非正規雇用の公務員などの「非正規雇用」労働者なのだという。非正規雇用率を男女別に弾き出してみると、男性で22.2%、女性では56.0%だった。

 正規雇用の上司社員からのセクハラに抗議すれば雇い止めの憂き目に遭い、有給休暇やボーナスもなく、身分や収入が不安定極まりない「非正規雇用」が、人を幸せにしないシステムであることは論を俟たない。しかも、「非正規雇用」は違法行為というわけでもない。そんな過酷な立場にいる人たちが4割近くもいるという今の日本は、極端なことこの上なく、異常というほかない。


 この4割の人たちの多くは、経済的な余力を持てず、子どもを持つことはおろか結婚さえも諦め、それでも明日に備え、節約に走る。「浪費」や「無駄遣い」なんて言葉は、彼らにとって遥か昔の「昭和言葉」なのだろう。これで日本の景気が良くなるわけがない。

「非正規雇用」システムは、日本という国を絶対に幸せにしない。いったい誰がこんな日本にしたのか。

 行政機関や大企業までが「非正規雇用」システムに手を染めるなか、その現実を報じ、批判を加え、世直しするのが役目の報道機関(マスコミ)はどうしているのか。

 
 筆者は25年ほど前の1990年代からテレビの民放キー局に出入りし、たまに番組制作を手掛けることもある。テレビ業界はその90年代頃から「非正規雇用」システムを積極的に取り入れている。今も昔も局内は、出入り業者の社名が入った名札を首からぶら下げた人たちでごった返ししている。そんな「非正規雇用」労働者である若いディレクターから25年ほど前に、「テレビの世界で自分のやりたい仕事をしたいなら、局の正社員になるか、放送作家になるしかない」と、皮肉交じりに言われたことを、つい先日のことのように思い出す。その後、同様のセリフを何人もの「非正規雇用」ディレクターたちから聞いたものだ。

 つまりテレビ業界は、行政機関や大企業の世界より早くから「非正規雇用」システムを導入していた“大先輩”であり、先駆者であり、いわば同じ穴の狢だった。


 ちなみに、25年ほど前に皮肉を吐いていた「非正規雇用」ディレクターの一人は、今から10年ほど前、くも膜下出血で急逝した。享年39。過労が原因だった。当時、彼は慢性的な金欠状態に陥っていたため、加入していた郵便局の「簡易保険」保険料の支払いが滞り、亡くなる1カ月前に保険が失効。遺族は保険金を受け取ることができなかったという。

 ところで、我が国の労働基準法の第一条は次のように述べている。


 労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。

 誰がこの労基法を骨抜きにしたのか。

●小泉純一郎氏が騙されていたのは「原発」だけではない

 非正規とは正規に非(あら)ず――。まるで身分の低い人間であるかのような呼び名に聞こえる。

 非正規雇用、とりわけ労働者派遣業は今の世に、戦前の「小作農(こさくのう)」制度を蘇らせていた。雇い主が直接、非正規雇用する契約社員や非正規公務員は「直接小作人」そのものであり、派遣業者というブローカーを通した派遣社員にしても「間接小作人」とそっくりだ。
参考までに書き添えておくと、2010年度の厚生労働省「労働者派遣事業報告書の集計結果」によれば、一般労働者派遣事業の「派遣料金」の平均は1万7096円で、派遣労働者に支払われる平均賃金は1万1792円。これから弾き出されるマージン率(ピンハネ率)はおよそ30%である。

 雇用は本来、「正規」と「非正規」に分けて考えるものではない。雇用は雇用である。問題は、「正規」労働者には当たり前のこととして認められている、労働者としての基本的な権利(有給休暇、ボーナス、労災請求、住居手当、扶養手当、通勤手当、食事手当、福利厚生、退職金など)が、「非正規」の労働者にはなぜか認められていない――という点にある。「雇い止め」に至っては、「非正規」労働者限定用語だ。


 厚労省の「就業形態の多様化に関する総合実態調査」(2014年)によれば、従業員が5人以上いる民間の事業所が、従業員を非正規雇用で賄っている最大の理由は「賃金の節約のため」(38.8%)だった。

 民間ばかりかお役所までが率先して非正規雇用を増やすようになるきっかけは、2005年の自民党・小泉純一郎政権下で打ち出された「集中改革プラン」である。同プランを推進する中核を担ったのは総務省。当時、総務大臣を務めていたのは、同プランの恩恵を最大限に享受している労働者派遣業大手・パソナグループの現会長・竹中平蔵氏である。以降、全国各地の自治体では、正規公務員の採用枠を減らしていく一方で、非正規公務員の数を激増させていくことになった。

 小泉政権の旗印は「郵政民営化」と「聖域なき構造改革」(公的企業の民営化、政府規制の緩和など)だった。そして「非正規雇用」システム導入の裏付けとなった経済政策のスローガンが「規制緩和」である。例えば派遣業に関しては、それまで高度専門職に限定されていた派遣の職種が、小泉政権では製造業まで緩和されている。

 国民の4割を「非正規雇用」へと追い込み、それと引き換えに富を謳歌している竹中氏。自らへの批判をものともしないことで知られる竹中氏は、現在の安倍政権下でも内閣府・国家戦略特区の「特区諮問会議」議員として重用されている。しかし、そんな竹中氏を最初に重用し始めたのは、かつての首相・小泉純一郎氏なのだ。

 小泉さん、あなたが進めた「構造改革」と「規制緩和」の結果、国民の4割近くが非正規雇用という不安定極まりない状態へと追い込まれたのです。今では「脱原発の旗手」といった感さえある小泉さんですが、あなたが騙されていたのは「原発」だけではありません。竹中氏にも騙されていたのです。竹中氏の任命責任はあなたにあります。今からでも遅くありません。竹中氏を叱ってやってください。

●「非正規雇用」システムは「童貞」も量産する?

 日本人の活気と未来、そして国力までを削ぐ「非正規雇用」システム。同システムは、いわゆる「ワーキングプア」を生み出すことで不景気にも拍車をかける。さらにその影響は、人間の“生命力”にまで及ぶようだ。

 4月8日、時事通信が「30代、1割が性交渉未経験=男性は低収入と関連」と題した記事を配信した。東京大学のチームが出生動向基本調査のデータなどをもとに、日本の「性交渉未経験率」を推計し、分析したところ、25~39歳の男性では正規雇用に比べ、非正規雇用と時短勤務の人の未経験率は3.82倍になり、無職では7.87倍にも達したのだという。収入が低いほど未経験率は高かったのだそうだ。分析を担当した上田ピーター・東大客員研究員は同記事中で、「性交渉を求めない傾向は『草食系男子』などと言われてきたが、実際には収入や雇用形態の影響で不本意ながら経験していない面があるのでは」とコメントしていた。

「非正規雇用」システムは、明白な労働基準法第一条違反であり、もはや存在自体が悪であることは、「人たるに値する生活を営むため」に必要な賃金をもらっていない人が4割近くもいるという結果からみても明らかだろう。労働者にまともな賃金を支払えない企業や自治体は、そもそも人を雇用してはいけないのである。

「非正規雇用」の割合を減らす有効策が見当たらないというなら、いっそのこと、「非正規雇用」システムの権化ともいえる労働者派遣業を「違法行為である」と定義し直すところから始めてみてはいかがだろう。日本の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)最高司令官のダグラス・マッカーサーが実施したいわゆる「農地開放」が、地主制度から小作人を解き放ったのと同等のインパクトがありそうだ。
(文=明石昇二郎/ルポライター)