【再発見 ちょうど10年前のテレビ】#15


 今からちょうど10年前の2016年7月7日、永六輔が亡くなった。83歳だった。

1933(昭和8)年生まれの永は、草創期からテレビに携わり、放送作家、作詞家、タレント、また作家としても活躍してきた“異能の人”だった。


 そんな永に対するイメージは世代によって違うと思う。「ラジオを聴いていた」とか「NHKのバラエティーで見た」という中高年がいる一方で、「知らないよ」という若者も多いだろう。


 しかし、ジェリー藤尾が歌った「遠くへ行きたい」という曲に聞き覚えのある人は少なくないはずだ。「♪知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」というあの歌詞は永が書いたものだ。そして曲名と同じタイトルの番組が半世紀以上も放送され続けている。


「萩元さん、ひとつ仕事をお願いできますか」。日本初の番組制作会社「テレビマンユニオン」の創立メンバーだった萩元晴彦に、そう声をかけてきたのは読売テレビ東京支社長(当時)の中野曠三だ。場所は銀座のバー。1970(昭和45)年2月のテレビマンユニオン結成から、まだ間もない頃の話である。その仕事とは、当時「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを展開しようとしていた国鉄(現JR)をスポンサーにした、新しい旅の番組だった。中野は萩元の飲み友達だったが、「巨人の星」や「細うで繁盛記」などを手がけた辣腕営業マンだ。

「では、お話を承ります」と言ってノートを広げ、中野に向き直った萩元。それが、現在も放送中の旅番組「遠くへ行きたい」(読売テレビ・日本テレビ系)が生まれた瞬間だった。


 萩元プロデューサーは、この番組を名所旧跡や名物を見せる「旅行番組」にはしなかった。「旅のドキュメンタリー」を目指したのだ。萩元とともにテレビマンユニオンを起こし、初期の「遠くへ行きたい」を演出した今野勉によれば、それは「移動する旅人を撮ることであり、旅人と旅先で出会った人との会話を撮(録)る」番組だった。まだ小型ビデオカメラがない時代で、ロケは16ミリのフィルムカメラで行われた。


 放送開始当初、この番組のタイトルは「六輔さすらいの旅 遠くへ行きたい」だった。スタートからの半年間、カメラは旅をする永をひたすら追い続けた。ドキュメンタリーにおいて、ドラマのような“迎え撃ち”の映像などあり得なかった時代だ。カメラは常に永の背後からついてきた。


 その後、永は番組を抜けることになるが、五木寛之、野坂昭如などの作家や文化人が「旅する人」として続々と登場。予定調和とはほど遠い、異色のドキュメンタリー番組として評判になった。

やがて、渡辺文雄、藤田弓子といった“旅巧者”のレギュラー陣も参加して、50年以上も続くことになる長寿番組の基礎が固まっていったのだ。


(碓井広義/メディア文化評論家)


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