明治40年頃、山口組初代組長の山口春吉は、神戸の港に沖仲士としてやってきた。沖仲士とは船舶の荷揚げ荷下ろしを行う労働者のことである。春吉は、持ち前の頑強な肉体と寡黙な人柄で人望を集め、神戸にやってきて数年後、沖仲士仲間を集めた労働者組織のリーダーとなった。
一方、吉本興業の出発は明治45年。吉本吉兵衛・せい夫妻の寄席経営に始まる。無名の落語家や流派に属さない漫才師を一手に引き受け、さまざまな演目を披露することから人気を集め、次々と点在する寄席を買収。起業から10年余りで、上方演芸界を掌握するほどに成長した。
神戸山口組と吉本興業の接点は、お互いにそれぞれの地域で頭角を現して来たころになる。
今からおよそ100年前に当たる大正初期、港湾労働者を集めて山口組を組織した春吉は、対立していた労働者組織の瓦解や三菱商船などとの大口契約という幸運に恵まれ、一気に組織の規模を大きくした。ついに神戸港の顔役にまでなった春吉は、日々過酷な労働を続ける労働者をねぎらうため、浪曲や漫才といった寄席を開くことを決めた。その依頼先が同じ関西圏で勢力を伸ばしつつある吉本興業であったのは言うまでもない。
大正14年、春吉の長男・登が山口組2代目を襲名すると、さらに吉本と山口組の関係は密接になる。港湾ビジネスを先代に任せた登は、浪曲興行に本腰を入れ、興行主の吉本から用心棒や地ならしを請け負う。このころ始まったラジオ放送の普及とともに、浪曲や漫才は全国的なブームとなり、両組織の全国進出の足場を作ったと言える。
さらに昭和になると両者の関係はより密接なものとなる。東京進出を図る吉本興業は、当時浅草で人気のあった浪曲師・広沢虎造を吉本の専属にしたいと2代目登に相談した。これを快諾した登は、広沢のマネジメントを手がける浪花家金蔵と話をつけ、一定の制約の元に、広沢が吉本の専属となることを取り決めた。しかしその数年後、広沢は無断で下関の籠寅組(現在の合田一家)の制作する映画に出演することを決めてしまう。これに激怒した吉本側は、登に籠寅組との調停を依頼。登は、広沢の映画出演を白紙に戻させることに成功したものの、その後の話し合いの際、籠寅組に襲われ重傷を負ってしまう。
2代目の死後、戦中戦後の混乱を極める時代、山口組は組長が不在だった。ようやく3代目に田岡一雄が襲名したのは昭和21年。実業家としても名高い田岡は、先代、2代目の培ってきた芸能関係者との関わりをより深くし、昭和33年、神戸芸能社を設立。美空ひばりなどといった昭和のスターたちの興行権を一手に握る芸能プロモーターとして活躍した。だが、やがて時代は興行からテレビの時代へ。
テレビやラジオのない時代、人々の大きな娯楽であった興行寄席。あらゆる地方に出向いて芸を披露する彼らにとって、その先での安全や安心を約束してくれる組織はなくてはならない存在だったといえる。しかし現代社会において、ライブなどといった興行を安心して行うのにヤクザの力は必要ない。芸能関係者がヤクザと付き合うのにメリットはないと言えるだろう。だが、そもそも芸人やタレントにも、どこか"ヤクザな雰囲気"がある。
(文=峯尾)
■参考文献:
『近代ヤクザ肯定論』宮崎学/著(筑摩書房)
『実録*神戸芸能社』山平重樹/著(双葉社)
(※画像は右『週刊実話ザ・モンスター 2011年 6/26号』、左『吉本興業から学んだ「人間判断力』より)