■本能寺の変の原因とされる「四国説」とは
明智光秀(要潤)を呼んだ織田信長(小栗旬)は、長宗我部元親(磯部寛之)が四国全土を切り取る(征服する)ことを認めない、と告げた。これに困惑した光秀が、その理由を聞き返すと、信長は「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」と言い放った。
この場面が流されたのは、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第25回「変事の予兆」(6月28日放送)の終了直前。サブタイトルの「予兆」はこの場面か、と感じ取った視聴者は多かったのではないだろうか。実際、長宗我部元親の四国制覇を後押ししていた信長の方針変更が、光秀の謀反を呼び起こしたという「四国説」が、本能寺の変の原因として現在、もっとも有力視されている。
光秀はパワハラまがいの叱責をたびたび受けた末に、いわば出来心で信長を襲った、と捉えている人も少なくない。だが、叱責による屈辱が後押しになった可能性はあるが、出来心ではない。後に述べる「新事実」からも、光秀は周到に準備して、信長と嫡男の信忠を討った。そのことを検証する前に、四国説を簡単に説明しておきたい。
信長は天正6年(1578)10月、土佐(高知県)一国を平定した長宗我部元親が、四国全土を攻略することを容認した。
■信長と元親の間に立たされた
ところが、その2年後には本願寺との戦争が終結し、三好氏も信長に服属した。そうなると、元親に四国を制圧させるのは、信長にとってむしろ危険に思われるようになった。
そこで信長は元親に、領国は土佐一国と阿波の南半分で納得するように伝え、元親が納得しないと、今度は土佐一国にかぎるように伝え、元親が返事をしないと、ついには四国への出兵を決めてしまった。
光秀はこの方針変更に翻弄された。というのも、光秀の筆頭家老である斎藤利三の義理の妹が元親の妻だという関係で、信長と元親との間の「取次」を務めていたのが光秀だったのだ。信長の決定は光秀を通して、さらに細かくいえば、斎藤利三とその親族を通して、元親に伝えられていた。
光秀は両者の間に立って苦慮したものと思われる。しかし、元親は信長の命に従わず、それを受けて信長はどんどん硬化し、光秀は立場を失っていった。長宗我部家と親族関係にあった斎藤利三は、さらに苦境に陥ったことだろう。
元親を説得できなかった光秀は、明智家の存続に不安を感じても不思議ではなかった。
■「光秀は本能寺にいなかった」という証言
さて、本能寺の変の当日だが、近年、光秀は本能寺の現場にいなかったという説が唱えられ、筆者はかなり信憑性が高いと考えている。また、光秀が控えていたとされる場所からは、光秀の周到な戦略が読みとれる。
光秀が本能寺に不在だったと記されている史料とは、加賀藩の兵学者だった関屋政春が記した『乙夜之書物』で、京都女子大講師の萩原大輔氏が読み解き、『異聞本能寺の変―『乙夜之書物』が記す光秀の乱』(八木書店)を刊行している。
『乙夜之書物』は3巻3冊の記録で、関屋が聞いた戦国時代の数々の逸話が524条にまとめられている。聞き書きをまとめた二次史料であり、書かれた時期も寛文9~11年(1669~71年)と、本能寺の変からは90年近くを経ている。しかし、だれから聞いたか明記された挿話が多い。本能寺の変について関屋政春に話をしたという井上重成は、斎藤利三の三男で、父と一緒に本能寺で信長を襲撃した斎藤利宗の甥。叔父の利宗から聞いた話を、政春に伝えたというのだ。
「また書き」の二次史料とはいえ、本能寺の変の当事者が語った話だというのが貴重である。また、政春は上巻の奥書に〈ゆめゆめ他人に見せ給うべからず(決して他人に見せてはいけない)〉と書いている。脚色だと疑う向きもあるようだが、人に読ませない書物を脚色する動機は、常識的には存在しない。
■周到に準備された「変」の中身
『乙夜之書物』には、本能寺の変について次のように書かれている。〈本能寺ヱハ明知弥平次斎藤内蔵人数弐千余キ指ムケ、光秀ハ鳥羽ニヒカヱタリ(本能寺へは明智秀満と斎藤利参が率いる2000余騎を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた〉
この内容からは2つのことが読み解ける。1つは本能寺の変における斎藤利三の深い関与。もう1つは、謀反を成功させるための明智光秀の周到で冷徹な戦略である。
筆頭家老の斎藤利三を本能寺に「指ムケ」た光秀が指揮官であることには変わりない。だが、信長を直接討つ役割は利三が負ったということだ。『乙夜之書物』によれば、前日に光秀が丹波亀山城(京都府亀岡市)に首脳を集めて謀反を打ち明けた際、利三が「これまで謀反をずっと延期してきた。先鋒は私が務める」と主張したという。
それが本当なら、光秀と利三は早くから謀反の計画を立てていたことになる。加えて、光秀より利三が前のめりになっていたのが伝わる。実際、利三にはそうなる動機があった。
■5日前に信長から切腹を命じられていた男
斎藤利三はもともと美濃の斎藤家に連なり、西美濃三人衆の一人で信長に寝返った稲葉一鉄に仕えていたが、光秀の家臣に転じた。
それを理解する鍵になるのが、室町幕府奉公衆だった石谷光政である。この光政の娘が元親の妻だったのだが、光政は利三の母の再婚相手で、すなわち利三の義理の父だった。そして、利三の実兄の頼辰は石谷家の養子となり、現場における元親への連絡役だった。つまり利三も兄の頼辰も元親の義兄弟で、2人とも光秀に仕えていたが、一族の存立は長宗我部家に拠っていたといえる。
その長宗我部家が前述のように、信長の討伐の対象となったのである。加えて、利三を追い詰めるできごとが、『稲葉家譜』に記されている。
光秀が、稲葉一鉄の家老の那波直治を引き抜いて家臣にすると、困った一鉄が信長に泣きついた。それを受けて信長は本能寺の変直前の5月27日、直治を稲葉家に戻すように沙汰し、稲葉家の元家臣で引き抜きをあっせんした利三には、切腹を命じていた。周囲の執り成しで切腹は免れたが、利三が信長への不信感をさらに募らせたことは、想像に難くない。
■本能寺ではなく鳥羽にいたワケ
続いてもう1つ。光秀はどのように周到だったのか。
鳥羽は本能寺の8キロほど南方で、『乙夜之書物』を読み解いた萩原氏は、信長を討ち漏らしたときのことを考えたのではないか、と推測する。このとき、大坂には信長の三男の信孝が率いる四国攻めの軍勢1万4000が控えていた。信長が逃げるとしたらどこだっただろうか。居城の安土城には軍勢が残っていなかった以上、謀反に対抗する兵力が集結している大坂に逃げる蓋然性が高い。
そう考えれば、光秀が大坂方面に下る交通の要衝である鳥羽に控えていたのは、かなり冷徹な判断にもとづく戦略だったことになる。
また、『乙夜之書物』によれば、光秀は本能寺の方面から上った煙で、信長襲撃が成功したことを確認すると、今度はみずからが本隊を率いて嫡男の信忠を襲い、二条御所での切腹に追い込んでいる。それも鳥羽に控えていればこそ、可能になった戦術だったといえる。
その後の顛末はともかくとして、ここまでの光秀は、クーデターをきわめて周到に準備していた――。光秀が鳥羽に控えていたなら(筆者はこの説を肯定する)、いっそうそのようにいえる。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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