■60年間続く「女将劇場」
山口県山口市湯田温泉の旅館「西の雅 常盤」には、温泉や料理以上に客を呼ぶ名物がある。毎晩8時45分から約1時間開かれる「女将劇場」だ。81歳の大女将・宮川高美さんは、60年間ほぼ毎日ステージに立つ。
「みなさま、ようおいでくださいました。女将でございます。最後まで命を懸けてやらせていただきます。最初は『SL太鼓』でございます!」
汽笛を模した笛の音がピイーっと響いた後、力強い太鼓の演奏が始まった。大女将とともに、SLが躍動感たっぷりに走るさまを表現するのは、山口大学の学生たちだ。
その後は、マジックや水芸、踊り、琴、中国の伝統芸能の変面など幅広い演目が、間髪入れず次々と展開される。「胡蝶の舞」は、紙でできたチョウをひらひらと扇であおいで舞わせる芸だ。ステージに座らせた客の頭にチョウが止まると、会場から拍手が起きた。
脱出マジックでは、箱から抜け出してこそこそと隠れる従業員の様子が丸見えだが、そのネタバレも芸のうち。年季が入った道具はボロボロで、修理の跡があちこちに見える。それでも客たちの目はステージに釘付けだ。
女将劇場をサポートする従業員2人は80代で、大女将よりも年長だと聞いて驚いた。そのうち1人は勤続56年の大ベテラン。もう1人は勤続6年になるという。
演目は175もあるらしい。連泊の客も新鮮な気分で楽しめるよう、日々違う組み合わせで上演する。
最後の書道パフォーマンスでは、おかっぱのかつらを外して自らの髪に墨を含ませ、文字を書く。「雅を極めて華となる 令和」。全身全霊をかけて客を喜ばせようとするステージに圧倒された。
十数人の客に話を聞くと、全員が女将劇場を目当てにこの宿を選んでいる。
別のグループの女性は、テレビで見た女将劇場に引かれ、友達を誘って来たそうだ。「涙が出るくらいおかしかったけど、とても感動しました。来られて幸せ。元気をもらったよね。私たちもまだまだ頑張らなきゃ」
「西の雅 常盤」の人気は高い。「楽天トラベル日本の宿アワード2025」などの評価も受けている。2025年度の年間宿泊者数は約5万5000人で、平均稼働率は約7割。約9億円を売り上げた。
■貧乏だった「旅館の少女時代」
1936年(昭和11年)2月、山口市湯田温泉にわずか6室の「常盤旅館」を創業したのは、高美さんの祖母、宮川常盤さんだ。
それから8年経った1944年に高美さんが生まれ、その後2人の妹も誕生した。一家が暮らすのはボイラーの隣の一室。大きな音が響いて、宿題をすることすらままならなかった。
旅館の経営と家計を握っていた祖母は、家族には厳しく、他人には優しい人だった。気の弱かった母は、旅館の皿洗いや洗濯、障子の張替えなどで一日中働き通し。一方、祖母は人を招いては花札に興じ、気前よく食事をふるまった。そのため家はいつも貧しく、父のポケットには小銭しか入っていなかった。
家中の家具に差し押さえの赤札が貼られていたことは、一度や二度ではない。母が嫁入りに持ってきた大切な着物も、すべてなくなった。
雨の日に旅館の名前が入った大きな傘を差して歩いていると、女の子たちがくすくすと笑う。彼女たちの手にあるのは、高美さんが欲しがっても買ってもらえなかった、かわいらしい傘。なぜうちはこれほど貧乏なのかと恨めしく思いながら、足早に女の子たちの前を通り過ぎた。
■「ボロ旅館」だが「継がない人生は考えられない」
旅館の従業員たちと囲む食卓に並ぶのは、客が残したおかずや、野菜の煮物ばかり。しかしある日、祖母が上機嫌で出してきたのは鶏料理だ。「みんな栄養失調になっているから、これを食べよう」。高美さんが温泉祭りで買ってひよこから大切に育てた、名前を呼べば駆け寄ってきていたニワトリの姿は消えていた。かわいがっていた豚も、客の胃袋の中に消えた。おかげで今でも高美さんは、鶏も豚も食べられない。
それでも高美さんは、旅館を継がない人生を考えたことはなかったという。
「ボロ旅館でしたが、執着はありました。私が大人になったらいい旅館にしよう、父や母に楽をさせよう、と思っていました」
忙しい祖母や両親に代わって姉妹をかわいがり、当時はやっていたターザンの映画に連れて行ってくれたのは、従業員たちだ。誰かがお客からチップをもらったときには、材料を買ってきて皆で鍋を囲んだ。
子どもの頃の高美さんが最も熱中したのは、祖母が先生を招き生徒を集めて開いていた教室で琴や踊りなどを習うことだった。初めて踊ったのは4歳のとき。
■20歳で旅館を継ぎ、生まれた「女将劇場」
短大を卒業した後、人前に出ることを嫌った母に代わって、20歳で女将を継いだ。経理から客室の壁の修理まで、何でもやった。
その頃の高美さんが着ていたのは、安価で丈夫なウールの着物。「それは女将が着るものではない」と客に叱られたが、他に着るものはなかった。
すっかり老朽化した旅館に、客は毎日のようにクレームを寄せる。お金をかけずに客に喜んでもらう方法はないかと考えて始めたのが、琴や太鼓と踊りでもてなすことだった。
高美さんは従業員と5人のチームを組み、「みんなで踊りますから見てください」と客室を回った。女将劇場の誕生である。
太鼓も旅館と同じくボロボロだ。
雨漏りがする部屋では、桶を持って踊った。旅館の古さに文句ばかり言っていた客も、踊りが終わる頃には笑顔になる。
手ごたえを感じた高美さんは、太鼓や琴の新曲をいくつも作って従業員たちと稽古に励んだ。噂が広がり、農協や病院などから「うちでもやってくれんか」と声がかかるようになる。「断らない」ことをモットーにしている高美さんは、旅館の仕事の手が空く昼の時間に、出張公演のステージに立った。
その様子を取材に来た新聞の酷評が、高美さんの心に火をつける。
「『下手』って書かれたんです。でも、それでかえって発奮しました。もっといいステージにしようと頑張れたのは、その記事のおかげです」
■20枚写真を配っても見つからなかった見合い相手
この頃、両親は、高美さんの結婚問題に心を砕いていた。写真を20枚ほど用意してあちこちに配って回ったが、見合い相手すら見つからない。
「『あんなボロ旅館の養子になんか』って誰も来てくれないんですよ。困っていたら、自分の親戚に男の子が5人おる家がある、ちょっと声をかけてみようか、と言ってくれた人がいて」
「そういうことなら、一度行きます」とやってきたのが、大阪の商社に勤めていた力さんだ。話を聞くと、大事な末の息子を養子にはやれないとお母さんが反対しているという。やはりこんな古い旅館では無理かと、高美さんも両親もあきらめかけた。
ところが、力さんは婿入りを決める。気が変わらぬうちに急げとばかり、それから5カ月で式を挙げた。
力さんの心を動かしたものは、なんだったのか。
「商社で4年働いて、自分で事業をしてみたいと考え始めていた頃でした。『鶏口となるも牛後となるなかれ』というでしょう。この旅館で、自分の頭で考えながら人生を歩んでみたい。この旅館を何としても立派に変えてみせる。そう思ったんです」
子どもの頃から女将になる覚悟をしていた21歳の高美さんと、この旅館を自分の仕事場と決めた24歳の力さん。夫婦の二人三脚がここから始まる。
■旅館の危機を救った「洗車場」
結婚から1年ほど経った頃、銀行が旅館を売却して借金を返済するよう迫ってきた。老朽化の進む旅館に、これ以上の貸し付けはできないとの判断だった。
力さんと父は買い手を探し、山口県内はもちろん四国や九州にまで足を延ばした。昼間に商談をするため、車での移動は夜になる。昼夜休みなく探し回っても、旅館を買おうという人は現れなかった。万策尽きたかに思えたとき、意外なところから突破口が開く。
交通量の多い道路に面した土地に目をつけたセールスマンが、「高速洗車場」を提案してきたのだ。人の手による洗車がほとんどで、機械による洗車など非常に珍しかった時代である。きっと評判になると思った2人は、腹をくくった。
洗車場を造るには、さらにお金を借りなければならない。返済を迫る銀行におそるおそる3000万円の追加融資を打診すると、「それくらいなら」とポンと貸してくれた。今の価値にすると1億円を超える金額だ。
旅館の一部を撤去して造った高速洗車場は、すぐに人気となった。人が乗ったまま自動で運ばれた車が、わずか3分でピカピカになる様子が道路からもよく見えるため、朝から晩まで車が列を作る。力さんは洗車場に一日中付きっ切りだ。旅館の仕事がない昼間は、高美さんも洗車場で働いた。
「2人ともまだ20代で体力があったから、昼も夜も働けたのが本当にありがたかったですね。ミニスカートを履いて、大きな声を出して呼び込みもしました。それまでずっと旅館しか知らなかったものですから、洗車場の仕事は、それはもう楽しかったですよ。大好きで、ずっと続けたいと思っていました」
そう言った高美さんの目には、涙が光っていたように見えた。
「すぐに現金が入る商売でしたから、毎日売り上げを銀行に持って行きました。追加で借りた分のお金はあっという間に返済でき、もともとの借金もなくなりました」
力さんも、当時を懐かしそうに振り返る。
しかし4年後、銀行は旅館業に集中するよう提案する。山陽新幹線が岡山から博多まで延びると決まり、関西からの客の増加が見込まれたからだ。
2人は泣く泣く、旅館の危機を救ってくれた洗車場を手放した。
■新幹線開通、旅館を一気に拡大
1975年、山陽新幹線の岡山・博多間が開業し、山口の景気は一気によくなった。洗車場のあった場所に1号館を建て、以前の10倍以上となる62室の客室と新しい風呂、滝、広い宴会場を造った。常盤旅館の新しい時代の始まりだ。
「断らない」がモットーの高美さんは、結婚式の受け入れも始めた。300人以上の規模になって宴会場で収容できないときには、夜中に従業員総出で広間を結婚式用にアレンジする「どんでん返し」をおこなう。高美さんは従業員のために夜食を作り、巫女役を引き受け、毎晩の女将劇場も続けた。
■「女将劇場」支える大学生アルバイト
その頃、アルバイトを探して山口大学の学生が旅館を訪ねてきた。試しに女将劇場の手伝いをさせてみると、飲み込みが早く、頼りになる。高美さんはどんどん新しい曲を作り、どんどん学生に教えた。
アルバイトの学生は次第に増えた。高美さんが最初に指導しただけで、あとは自分たちで集まって練習してくれる。そのうち、企画や運営にも参加するようになった。学生たちは、今でもなくてはならない存在だ。現在、登録している学生たちはおよそ20人。1回のステージには10人ほどの学生が出演する。
卒業し山口を離れたあとも、元学生が泊りに来てくれるのが嬉しいと、高美さんは言う。
「最初の子は、もう60歳くらいになっています。医者になりました、子どもができました、なんて顔を見せに来てくれるんですよ」
■次々と拡張し大型旅館に
1979年にはJR山口線でSLやまぐち号の運行が始まり、観光客はさらに増えた。
この頃から、団体客が集まる宴会場をハシゴするのをやめ、広間やロビーなどで1カ所に客を集めて女将劇場を行うようになる。個人客からも「女将劇場を見たい」との声が上がるようになっていたからだ。
女将劇場は高美さん、営業は力さんと、役割を分担して2人は働き通した。遊びに行くことはおろか、子どもたちと過ごすことさえままならなかった。
「かわいそうでしたけど、子どもは3人とも、ほったらかしでしたね。従業員さんたちが見ていてくれました」
高美さんは妊娠・出産のときにも、休むことなく女将劇場を続けたという。
「お相撲さんのような大きなおなかで『高美山でございます!』とステージに出ました。ずっと動いていたせいか、安産でしたね。子どもが生まれたら体が軽くなり楽になるでしょう? だから退院したらすぐに女将劇場に復帰しましたよ」
1984年に2号館、1991年に3号館と、次々に新しい建物を建てた。客室数は90室を超え、500人を収容できる大きな旅館となる。
しかし、その直後、バブル経済が崩壊した。
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山口 ちゆき(やまぐち・ちゆき)
ライター
山口県出身。広島県在住。筑波大学・筑波大学大学院で生物学を学んだ後、農業系法人の研究開発職、塾講師、大学職員などを経て、2018年からライターとして活動。地域の魅力と課題を伝え、地域で活躍する人の想いを届ける記事を目指している。
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(ライター 山口 ちゆき)

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