「豊臣兄弟!」(NHK)では織田信長(小栗旬)の最期が描かれる。信長や織田家についての著作がある和田裕弘さんは「天下統一を目の前にしていた信長には、秀吉らの大名にも負けない武功があり、後を任せても安心と思える息子がいた」という――。

※本稿は、和田裕弘『織田信忠――天下人の嫡男』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■凡庸な二代目ではなかった
織田信忠(のぶただ)――。戦国史に興味ある人なら、その名は一度ならず耳にしたことがあろう。「天下人」織田信長の嫡男にして、信長も認める天下人の後継者でもあった。ただ、名前は聞いたことがあっても、どのような実績を残し、どのような人物だったのかを知る人は少ないだろう。その事績に比して知られている事柄があまりにも少ないことが影響していよう。
かつては、徳川家康の長男信康(のぶやす)と比較され、かなり能力が劣っているというような評価がなされていた時期もあった。信康は天正7年(1579)9月に自害したが、自害を命じたのは信長という見方もされていた。信長は、信忠よりも優秀な信康を自分の時代に処断することで、次代を担う信忠の世を安泰にしておくための命令という説もあった。しかし、近年では、信忠に対する研究も徐々に進み、こうした推測を支持する説はあまり見かけなくなった。それも当然のことで、信忠は、信康が自害した天正7年までには信康とは比較にならないほどの実績を残していたからである。信康どころか、他の戦国大名と比較しても見劣りするとは思えない。

信忠は決して凡庸な二代目ではなかった。本能寺の変で信長に殉じたが、もし生き長らえていたなら、どれほどの成長を遂げたのだろうか。大成した姿を想像するのが楽しみな武将の一人でもある。総合的な能力の判断は難しい面もあるが、こと合戦においては、当時では最大規模の軍団を指揮するなど、稀有な経験も積んでいた。
■合戦で総大将として実績を残す
天正5年(1577)8月、戦国の梟雄とも謳われる松永久秀が信長に謀反し、難攻不落の信貴山城へ籠城した。信長にとってはかなりの危機でもあった。この時の四囲の状況を見ると、西国では毛利氏が将軍足利義昭を奉じて上洛準備を着々と進めており、北国ではそれまで友好関係だった上杉謙信が北陸を南下する勢いを見せ、東国方面では長篠の戦いで大勝したとはいえ、武田勝頼が巻き返しを図っており、南方では大坂本願寺が頑強に抵抗を続けているなかでの謀反だった。
長引けば「織田政権」の崩壊にもつながる可能性もあったが、信忠が総大将となって織田軍を率い、10日ほどで信貴山城を攻略した。信貴山城攻めは、信長の「天下統一」過程の攻略戦の一つとしてそれほど評価されていないようだが、とかく喧伝されがちな羽柴(豊臣)秀吉の武功と比べても遜色のないものだった。この武功により、信忠は従三位左近衛中将に叙任されてもいる。
■信長は天下を信忠に譲ると公言
翌年には、大軍を率いて大坂本願寺に対して示威行動したが、この時、総大将の信忠はまだ22歳(数え年。以下同様)の若武者であった。
正確な軍勢は不明であるものの、参陣武将や動員エリアから推測すると、おそらく5万以上の大軍だったと思われる。22歳でこれだけの大軍を率いたのは特筆すべき実績だろう。のちに二代将軍となった徳川秀忠が関ヶ原の戦いの時、別働軍を率いて西上したが、この時の秀忠も22歳だった。秀忠は諸般の事情があったにせよ、西上軍の軍事行動は不首尾に終わった。比較すべくもないことながら、信忠の優秀ぶりが見えてこよう。
その後、天正10年(1582)の武田攻めは信長が総大将となる予定だったが、先鋒の信忠が、信長の制止も振り切って快進撃を続け、武田氏を滅ぼす武功を挙げた。信長もその実力を認め、「天下」も信忠に譲ると公言したほどだった。
当然ながら信長の重臣からも後継者として十分に認められていた。信長を裏切った荒木村重などは、謀反後1年近くも経った時ですら、毛利方への書状において、自らが織田軍に攻められていたが、「中将殿も自身動かれ候」と書き送っている。村重の人間性といえばそれまでだが、敵対したにもかかわらず敬意をもって記している。こんなところにも村重の信忠に対する旧主時代の名残が垣間見られる。
■本能寺の変に巻き込まれなければ…
信忠が本能寺の変に巻き込まれていなければ、豊臣秀吉の時代は到来しなかっただろうし、徳川家康が歴史に占める位置づけも変わっていただろう。
ただ、贔屓(ひいき)の引き倒しになってはならない。江戸時代初期に刊行された小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』にも「信忠卿は才勇兼備(かねそなわ)りし明将」と評価されているが、どれほどの力量を備えていたかはやはり未知数としかいえない。
最大の功績は武田氏を滅ぼしたことだが、これとても信長の威光があったればこそという見方もできよう。しかし、まだまだ予断を許さない戦国の世で、天下に強兵を謳われた武田氏を見事に打ち破ったという評価もあながち的外れではないだろう。
信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、その名を天下に轟かせたのは27歳の時だったが、信忠が本能寺の変で斃(たお)れた時は、それより1歳若く、まだ26歳であった。信長も経験したことのない道を歩み始めたばかりでもあった。
■信長はなぜ突然、上洛したのか
天正10年(1582)5月29日、信長は小姓衆など小人数の従者を従えただけで上洛した。本能寺の変は、信長の油断と評される向きもあるが、信長が小人数で移動することはそれほど珍しくはなかった。上洛時には、これまで蒐集してきた大量のコレクション、茶の湯道具を持参していた。西国攻略後の布石の一つとして博多商人の島井宗室に披露することが狙いだったともいわれる。
今回の上洛は、秀吉の援軍要請に応じたもので、武田攻めでは陣頭指揮を執る機会はなかったが、今度は親征して毛利氏、長宗我部氏を一挙に葬り、九州へも進軍する予定を立てていた。
信忠は京都で出迎えた。
もともと信忠は家康一行とともに堺に下向して接待する予定だったが、信長の出馬を聞いて、急遽、京都で信長の上洛を待つことにした。これが運命の岐路となった。信長の出馬は、後継者の信忠ですらこの時点まで把握できていなかった。どうにも慌ただしい出馬だったようである。この間の消息を記している信忠の書状がある(『小畠文書』)。
■信忠の書状を光秀の家臣が入手?
尚々(なおなお)、家康は明日大坂・堺、罷り下られ候、

中国表、近々御馬を出ださるべき由に候条、我々堺見物の儀、まず遠慮致し候、一両日中に御上洛の旨に候間、ここにあい待ち申し候、この旨早々御諚(ごじょう)を得られ、申し越さるべく、委曲様躰(ようだい)、使いに申し含め候条、口上申すべく候、謹言、

 五月二十七日

 信忠(花押)

 森乱殿
近々、中国方面へ出馬されるとのことなので、堺見物の予定は取りやめることにした。今日か明日に上洛されるとのことなので京都で待つことにする。このことを早々に伝え、許可を得て返事をするように、詳しいことは使者から伝える、という内容である。追伸で家康が明日28日、大坂、堺へ下向する旨も伝えている。
森乱(乱法師)は、信長の小姓として知られる「蘭丸(らんまる)」(蘭丸と記した良質な史料は確認されていない)、諱(いみな)は成利。森可成の三男で、長可の弟である。この文書は光秀の家臣の小畠氏に伝わったものと思われる。
光秀は信長の動向に注視し、この情報を入手していた可能性が高い。『総見院殿追善記』にも、光秀は信長の行動を監視させるために人を派遣していた旨の記述がある。
■本能寺で父・信長と語らった
信長の上洛に合わせて公家衆は粟田口まで出迎えたが、出迎え無用との連絡を得て引き返した。信長は、京での定宿とするために改造していた本能寺へ入った。1年2カ月ぶりの上洛だった。翌6月1日には公家衆が参礼し、対面。近衛前久・信基父子をはじめ主だった廷臣が出御し、数刻雑談した。武田攻めの武功談のあと、4日には西国に出陣するとし、簡単に征服できると豪語していた(『日々記』)。
公家衆退出のあとは、側近衆だけが残り、信忠も久しぶりに深更まで信長と親しく雑談。『豊臣記』(豊臣秀吉の伝記作者の大村由己著)には、「宵(よい)には信忠を近づけ、常よりも親しくわが壮年の昔を語り、且つうは残るところなき果報を喜び、かねては万代長久の栄耀(えいよう)を工(たく)み、村井入道(貞勝)、近習の小姓以下に至るまで御憐愍(ごれんびん)の詞(ことば)を加え給う』と伝えている。翌日の本能寺の変を知ってからの作り話かもしれないが、そうしたひと時があったとしても不思議ではない。夜が更けたため、信忠は宿所の妙覚寺に帰っていった。
これが父子最後の別れとなった。

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和田 裕弘(わだ・やすひろ)

戦国史研究家

1962年、奈良県生まれ。織豊期研究会会員。著書に『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』『織田信忠―天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』(いずれも中公新書)などがある。

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(戦国史研究家 和田 裕弘)
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