※本稿は、真山知幸『大失敗にも大不況にも負けなかった社長たちの物語』(彩図社)の一部を再編集したものです。
■「ナショナル」名付けのきっかけは新聞
扇風機の碍盤、アタッチメントプラグ、二股ソケット、自転車ランプ……。自らの苦難を卓越した技術力で乗り越えてきた幸之助だったが、それだけでは名経営者として名を残すことはなかっただろう。彼は、技術だけでなく、時代を読む先見性や人心掌握術にも長けていた。
新聞でたまたま見た「インターナショナル」という用語が「国際的」という意味だと知ると、幸之助は「国民の、全国の」を意味する「ナショナル」という用語をすぐさま商標登録した。大正14(1925)年のことである。
加えて、「買って安心・使って徳用 ナショナルランプ」と新聞広告を打ち、自転車ランプの販売を後押しした。ナショナルランプが月3万個を出荷するヒット商品となったのは、幸之助のこうしたブランド戦略や宣伝効果もあったのだ。
■世界大恐慌で売り上げ半減、在庫の山
ところが昭和4(1929)年、好調だった松下電器に、アメリカの株式市場暴落に伴う恐慌、いわゆる世界大恐慌が襲いかかる。製品の売り上げは半減し、倉庫に入りきらないほどの在庫の山を抱えることとなった。また、工場を建設した直後だったために資金も不足。
あらゆる会社がリストラを始める中、松下の幹部たちも病床にある幸之助のもとに訪れ、人員削減を提案した。幹部たちにとっても、会社を守るための苦渋の進言である。しばらく思案に暮れた幸之助だったが、固い決意を持ってこう言った。
「賃下げも、クビ切りも結構やな。だがしかし、ウチはよそのように人のクビは切れん」
■「生産も勤務も半分、だけど給与は全額」
思えば身内3人でスタートした会社がここまで成長したのも、情報の漏洩を恐れずに外部から人を雇い入れたからこそ、そして従業員を信頼する道を選んだからこそのことだ。非常に厳しい局面にあるとはいえ、会社側が簡単に従業員を裏切るわけにはいかない。
幸之助はそのように考えたのである。とはいうものの、理想論だけでは行き詰まった状況を打開することはできない。そこで幸之助は大胆な対策を打ち出した。
「首切りはない。生産は半分、勤務も半日。
生産を縮小したうえで、長いスパンで倉庫の在庫を売り切る。賃金の損害はかぶる覚悟をしたのだ。解雇におびえていた従業員たちはこれを聞いて大喜び。各々が風呂敷に商品を包んでは、休日を返上して街に飛び出していった。また、勤務は半日でよいとされていたにもかかわらず、従業員たちは自発的に終日在庫を売り歩いた。
社長の覚悟に応えなければならない――。
従業員たちもかつてない使命感を持って仕事に取り組んだのだろう。倉庫にあふれ出ていた在庫は、わずか2カ月で完売した。こうして、松下電器は誰ひとりとして従業員をリストラすることなく、未曾有の大恐慌を乗り越えたのだった。このエピソードは、幸之助の有名な経営伝説の一つとして語り草になっている。
■世界の企業も音を上げた伝説の交渉
幸之助が残した伝説として、フィリップス社との強気な交渉も挙げぬわけにはいかないだろう。戦後、松下電器はGHQの占領政策によって、財閥指定など7つの制限にがんじがらめにされ、幸之助は一気に10億円もの負債を抱えた。
「物品税の滞納王」と報道され、あれだけ拒んでいた人員整理にもついに手をつけざるを得なかった。だが、昭和25(1950)年に各種制限が解かれると、5年後には売り上げが220億円まで持ち直し、従業員数も1万3000人に増加した。
会社に復興のきざしが見えてきたころ、幸之助が行ったのがオランダのフィリップス社との技術提携である。かねてより欧米の技術を導入する必要性を感じていた幸之助であったが、なんと彼は、フィリップス社に突きつけられた7%という技術指導料に噛みつき、さらにとんでもない提案で切り返した。
■値引きさせたうえ、経営指導料を勝ち取る
「技術指導料7%はいかにも高い。技術指導料は払うが、経営は誰がやるのか。松下が経営するのだから、経営指導料をもらわねばならん」
全く前例のない「経営指導料」をフィリップス社は当然のように拒絶。
しかし、幸之助が一歩も譲らなかったため、交渉は暗礁に乗り上げた。一時は決裂寸前にまで陥った交渉だったが、「こんな強硬な主張は聞いたことがない」と音を上げたのはフィリップス社のほうだった。結局、松下が4.5%の技術指導料を支払い、フィリップス社が3%の経営指導料を支払うことでまとまった。
外国の企業に「経営の価値」を認めさせたこの交渉は、戦後日本の復興を強く望んだ幸之助にとって、自国の誇りを賭けた戦いでもあったのかもしれない。実は幸之助は、この前年にアメリカ視察を行っており、その豊かさに舌を巻いた。大国を肌で感じた彼は、日本もこうならなければならないと考えていたのだろう。
■日本で初めて「週休2日制」を宣言
この視察からおよそ10年後、幸之助はアメリカ松下電器を設立している。さらに「アメリカと同じように週2日の休みが必要である」として、昭和35(1960)年1月の経営方針発表会では、5年後に労働を週5日制にすることを宣言した。日本では初めての試みである。
組合さえも戸惑わせた公約に対し、誰もが実現性に疑問を持ったが、約束通り実行された。ひとえに日本の国際競争力を高めたいとの思いからだった。戦後、幸之助は常に世界を見据えていたのである。
フィリップス社との提携を結んだ松下電器は、さらに著しい成長を遂げていく。昭和31(1956)年、幸之助は実に強気な「5カ年計画」を発表。販売高を年220億円から年800億円、従業員を1万1000人から1万8000人、資本金を30億円から100億円にするという大目標をぶち上げたのである。
そして、当初の予定だった5年後には、販売高はなんと年1000億円を超えていた。そんな松下の快進撃が停滞したのは、東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年のことだ。白黒テレビや洗濯機などが大衆に行き渡ったため、家電製品の販売が伸び悩み、全国の販売店・代理店の多くが赤字経営に陥る事態へとなってしまったのである。
■「損が出ている!」と憤る代理店に対し…
このような状況について、全国の販売店や代理店の社長からの不満があふれた。そこで幸之助は熱海の「ニューフジヤホテル」に、彼らを一堂に集めた。69歳になった幸之助の役職は、社長から会長へと変わっていた。
徹底的に対話をすることを望んだ幸之助は、会議の前日に会場を見渡し、パイプ椅子の横位置を前列と少しずつずらすよう指示した。全員の顔がきちんと見えるようにするためだ。こうして始まった通称「熱海会談」では、壇上の幸之助に対し、不平不満が次から次へと浴びせられた。
「親の代から松下製品を扱っているが、さっぱり儲からんどころか損が出ている!」
とはいえ、中には資本金が500万円にもかかわらず、1億5000万円という信じられない赤字を出している代理店もあった。そのような店に対しても、松下が商品の出荷を止めることはなかったが、感謝の念は全く感じられない。
「文句を言うのはこっちのほうだ」
幸之助も激しく反論した。そして、黒字の店も存在することを訴え、放ったのがこの名言だ。
■嗚咽交じりの謝罪に、参加者も涙した
「血のしょんべんがでるほど努力しましたか」
自らの手で何度も苦境を切り開いてきた幸之助にとって、ろくな販売努力も見えぬ代理店の叫びは、いかにも甘いものに聞こえたのだろう。だが、幸之助の熱弁が彼らに届くことはなかった。議論は平行線をたどったまま3日が経ち、会議自体もトータルで13時間に及んだ。
激論を交わしながら、幸之助はふと昔のこと、すなわち彼自身が会社を興したばかりで、問屋に頭を下げて歩き回り、商品を置いてもらっていたころのことを思い出す。だが、ここで弱腰になれば代理店の苦情を結果的に認めることになってしまう。それでも幸之助は自分の主張を翻し、3日目にして頭を下げた。
「結局は松下電器が悪かったのです。皆さん方へのお世話が不十分でした。不況を切り抜けられなかったのは、松下電器の落ち度です。申し訳ありませんでした」
嗚咽交じりに話す幸之助。そんな彼の姿を見て、攻撃していた問屋たちも押し黙り、参加者の半数以上が涙したという。原点に立ち返った幸之助は、それを態度で表すかのごとく、70歳を間近にして会長職から営業本部長として現場に復帰した。そして幸之助自らの指揮の下、新しい販売制度を導入し、再び売り上げを回復させたのである。
■突如切り出された電撃的な引退表明
「ここらが潮時やと思うてる。君、どない思う」
役員に対し、幸之助が突然の会長退任を切り出したのは、取締役会を2日後に控えた昭和48(1973)年7月のことだ。電撃的な引退表明だった。取締役会で、幸之助は次のようなスピーチを残している。
「ちょうど数えの80歳、そして松下電器創業55周年。区切りがいいと考えました。いまは自分の頭をなでてやりたい心境です」
会長から相談役となった幸之助は、それからも精力的に活動を続けた。85歳のときには私財を投げ打ち、松下政経塾を開塾。900名近い応募が殺到する中、23名が第1期生として入塾し、現在では200人以上の卒業生が政界や実業界の一線で活躍している。
ちなみに、幸之助は戦後まもなく幸福追求運動「PHP(ピース・アンド・ハピネス・スルー・プロスペリティー)」を開始するなど、思想家としての一面もあり、民間シンクタンク「PHP研究所」を設立し、PHP誌の創刊や講演活動を通じ、繁栄の理念を説き続けてきた。
■決して合理性に優れた経営者ではなかった
そんな生涯現役だった幸之助が没したのは、平成元(1989)年のことだ。享年94歳だった。新聞は号外を飛ばし、急遽NHKは追悼番組を組んだ。社内から約5000人、社外からも約1万5000人もの参列者が集い、幸之助との永遠の別れを惜しんだ。
彼が人間同士の信頼関係を最も大事にしていたという証拠だと言えよう。松下幸之助の哲学に「水道哲学」というものがある。水道の水を通行人がいくら飲んでも咎められることがないのは、量が多く、あまりにも価格が安いからだ。そう気づいた幸之助は、昭和7(1932)年の第1回創業記念式で、テーブルを叩きながらこう演説した。
「松下の使命もここにある。水道の水のごとく、物資を豊富に、かつ廉価に生産提供しなければならない。その結果、貧乏を克服し、人々に幸福をもたらすことができる」
これほどまでの使命感を持ち、かつ情にもろい幸之助は、合理性や効率の面から考えると、極めて優れた経営者だとは言えないかもしれない。しかし、それでも幸之助は「人と人とのつながりを信じる」という人間としての王道を、ひたすら突き進んだ。彼が「経営の神様」として、後世にまで語り継がれているのは、それゆえではないだろうか。
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真山 知幸(まやま・ともゆき)
伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。2026年、京都芸術大学大学院芸術研究科(通信教育)文化遺産領域文化遺産分野を修了。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年に独立。偉人や歴史、名言などをテーマに執筆や講演活動を行う。『ざんねんな偉人伝』シリーズ(学研)のほか、『偉人 大久保利通』(草思社)、『大器晩成列伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『本を読む人だけが、“自分の壁”を突破できる』(青春出版社)など著作は60冊以上。「東洋経済オンラインアワード」で、2021年にニューウェーブ賞、2024年にロングランヒット賞受賞。
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(伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA) 真山 知幸)

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