NHK「豊臣兄弟!」は、ついに本能寺の変を描いた。史実では、織田信長が家督を譲り、安土城を完成させた嫡男・信忠も命を落とした。
信忠は、どのような人物だったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に信忠の人物像に迫る――。
■“優れた後継者”だった織田信忠
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。ついに、前半のクライマックスである本能寺の変が描かれた。物語を振り返れば、信長(小栗旬)は嫡男・信忠(小関裕太)に家督を譲り、安土に天下一統を見据えた巨大な城を完成させた。だが、その父を継ぐはずだった信忠もまた、本能寺の変を機に、歴史の舞台から姿を消すことになった。
信忠を演じる小関は、小芝風花との真剣交際も話題になっているイケメン俳優。ゆえに演じる小関には注目は集まるが、史実の信忠の人気はイマイチ。人気というよりは、そもそも存在感が薄い。あの信長の息子ということは、天下人の後継者である。
なのに世間における信忠は「本能寺の変の時に、父と一緒に死んだ息子」くらいにしか思われていない。そもそも、変の前に信忠は家督を譲られて当主となっていたことまで知っているのは、限られた歴史愛好者くらいではなかろうか。

豊臣秀頼には大坂の陣という見せ場がある。徳川秀忠もかつては関ヶ原の戦いに遅参した凡庸な二代目みたいなイメージだったが、近年は幕府の土台をつくった人物として再評価されている。
しかし、信忠には見せ場がない。どうも、偉大すぎる父の脇に控えていた愚息扱いである。でも、史実を検証してみると信忠は「さすがは、信長の後継者」という優れた面が明らかになってくるのだ。
■“実戦投入”で鍛えられた
『寛政重修諸家譜』によれば、信忠は1557年に生駒家宗の娘を母として生まれたとしている。その後『信長公記』の記録から、1573年頃に元服し(呼称が「奇妙丸」から「勘九郎」に変更)、浅井攻めに加わったことが見て取れる。
その後、信長に従って従軍していた信忠だが、父のお付きというわけではなく、早期から独自の軍団を形成していたことが谷口克広「織田信忠軍団の形成と発展」(『日本歴史』419)などによって、明らかにされている。
これによれば、信忠は1574年に信長から尾張の支配者の地位を与えられ、以降徐々に支配権の移譲が進んでいる。1575年には、尾張・美濃の知行安堵・宛行権も信忠のものとなり、その地位は確立した。
こうして形成された軍団は、嫡男にあてがわれたお飾りではなかった。その初期の目的は武田の攻勢を止めることであり、積極的に出陣している。
信忠麾下に池田恒興をはじめとする重臣が置かれたのも、こうした実働部隊としての目的があったためであろう。
■“佐久間信盛の追放”で軍団が拡大
この軍団が拡大する契機となったのが、佐久間信盛ら重臣の追放によってであった、と谷口は分析している。この古参家臣の追放により、信忠の尾張支配はより強固なものとなり、軍団はさらに発展をみるのである。とりわけ、この軍団が大きな活躍を見せたのは、甲州征伐である。
信長公記』は「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるるの事」という章を設けて、その顛末を語っている。
中将信忠御自身、御道具を持たれ先を争つて塀際へつけられ、柵を引き破り、塀の上へあがらせられ、一旦に乗りいるべきの旨……
しかし、重要なのはここではない。谷口は、甲州征伐は滝川一益を除いては、信忠軍団で構成されていたことを指摘する。さらに、これ以降、信忠は甲斐・信濃まで包括した地域に影響力を及ぼすまでに膨れあがったのだ。この信忠主導による軍事行動に対して、谷口は次のような評価を下している。
信忠は単なる信長の継嗣ではなく、最後の数年間は、織田政権の軍事面を分担した存在であった、といえるのではなかろうか。
■官位が語る、確立された“後継者の地位”
嫡男として後を継がせるには、かなりのスパルタである。
しかし、信長にはそうしなければならない理由があった。
それは、朝廷との関係性である。渡辺江美子「織田信忠考」(『日本歴史』440)では、1578年4月に信長が、朝廷より与えられた右大臣兼近衛大将を辞したことに着目している。ここで渡辺は、信長の辞官の奏達状に、信忠への「顕職譲与」の字があることに着目する。渡辺は、朝廷がすぐに信長の辞した官職を信忠に与えるとは考えられないが、信長に倣って昇進させることを求める意図があったとしている。
さらに、渡辺は、信長が辞官を願い出たのは4月9日。その数日前より、信忠は大坂で本願寺に対して軍事行動を行い、各所に降伏勧告の札を立てて8日に京都に戻ったことに着目し、これ自体が朝廷への示威ではなかったのかと見ている。
しかしこの後、朝廷は、信長の地位をそのまま与えるのをよしとせず、信忠は従三位左中将にとどまったままとなった。渡辺は、これを信長と朝廷の間になにか軋轢があったのではとする。だが、朝廷としても高い官位を与えるには功績が足りないと見ていたのではなかろうか。それゆえに、甲州征伐は、いわば東国の平定であり、いよいよ信忠が信長と同じ官職をえるための実績となったというわけである。
このように、本能寺の変以前には、信忠は、信長になにかがあってもすぐに権限を受け継ぐことのできる次期当主としての地位を確立していたといえるだろう。
■親王らを逃がしたあとに切腹
しかし、そうはならなかった。

信長公記』の記述に基づけば、本能寺の変当日の信忠の動きはこうだ。
救援に向かおうとする→京都所司代・村井春長軒らが既に本能寺は落ちたことを伝え、二条新御所に向かうべきと進言→移動し、誠仁親王らを逃がす→切腹
親王らを逃がした後は、早々に切腹を決断している。その間、家臣らは外で明智光秀の軍勢と戦ってことごとく討ち死にしている(切腹の間の時間稼ぎ)。どうみても、判断が早すぎる。
つまり、謀反は明智光秀によるものと知った信忠は「か様の謀叛によものがし候はじ。雑兵の手にかゝり候ては後難無念なり」すなわち、これだけの謀反を企てた男だから逃げ道は塞がれている、雑兵に討たれては末代までの恥だと直ちに腹を斬っている。『信長公記』の記述からは「お前は見たんか?」とも思うが、首が見つからなかったことを考えると、すぐに切腹することを決めたともいえる。
■“逃げる”選択肢はあったが…
なんで、こんな早急な判断をしてしまったのか。現代の視点では「いや、もうちょっと逃げるとか、粘れよ」と思ってしまう。
実際に、織田有楽斎は脱出に成功している。『当代記』などの記述をみると、明智勢の封鎖も完璧というわけではなく逃げ道はいくらでもあったはずだ。信忠のやったことは、王手を掛けられた途端に「参りました」といきなり投了してしまったようなものだ。

実際、和田裕弘『織田信忠―天下人の嫡男』(中央公論新社、2019年)もこの点に触れている。ここで和田は、1569年に足利義昭が三好軍に包囲されながらも持ち堪えた前例があることを挙げて、数日持ち堪えれば光秀軍を追い払えるという、わずかな勝算が信忠にもあったのかもしれないと指摘している。
さらには、こんな分析も記している。
信長なら迷うことなく逃げていたはずだが、二代目の信忠は認識が甘く、誤った選択をしたと考える向きもある。
実際に、光秀は信長を討つことに専念しており、京都の封鎖には到っていなかった。そのため、落ち延びることもできていただろうし、すぐに軍団を糾合して反撃することはできたはずだ。
■“織田の未来ごと”炎に消えた
ともあれ、信忠が安土に逃げ延びて織田家の当主として踏みとどまっていたら、清洲会議は開かれなかった。後継者争いも起きなかった。秀吉が「信長の後継者」の座を事実上奪う余地もなかった。賤ヶ岳も小牧長久手も、そもそも必要がなかった。
信忠という後継者がいる限り、秀吉はどこまでいっても「織田家の家臣」でしかない。豊臣の時代は、信忠の死によって初めて可能になったのだ。

本能寺の変で死んだのは信長だけではない。織田政権の未来ごと、あの炎の中に消えたのだった。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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