■設立2年足らずで国産トップ、そして世界一に
世界各国のウイスキー愛好家に読まれている英国発の専門誌『Whisky Magazine(ウイスキーマガジン)』。1998年創刊の同誌は、ウイスキーのニュース、特集、インタビュー、テイスティングレビューを専門に扱い、国際的なウイスキー評価の世界でも高い存在感を持つ。
その特集「プレミアム・ジャパニーズウイスキー」で、サントリーをはじめ大手の数ある銘酒たちを押しのけて最高評価となるゴールドアワードを獲得したのが、埼玉県秩父市の新興ウイスキー製造・販売会社「ベンチャーウイスキー」の一本だった。2006年6月のことである。
その名は「イチローズモルト」の「キング・オブ・ダイヤモンズ」だ。このウイスキーは、2005年に124本だけ瓶詰めされた初回版と、2006年に555本が瓶詰めされた後発版がある。国内では後発版でも数十万円台で取引され、海外オークションでは100万円台の落札例がある。さらに希少な初回版は別格で、近年の海外オークションでは1000万円を超える価格を記録している。
設立は2004年9月なので、わずか2年足らずで国産ウイスキーのなかでトップの評価を受けたことになる。まさに、快挙でしかなかった。
しかも、この評価は一過性のものでは終わらなかった。2017年には、国際的なウイスキーコンペティションである「World Whiskies Awards」でも世界一の称号である“World’s Best”を獲得するブランドへと成長していく。倒産寸前の酒蔵に残された400樽の原酒は、やがて「世界一」と呼ばれるウイスキーを生むことになる。
■出発点は“倒産”だった
そのベンチャーウイスキーは、“倒産”のなかから生まれた。同社の創業者でもある肥土伊知郎社長は、埼玉県秩父市で江戸時代から続く日本酒の蔵元の家に生まれた。祖父の代の1941年に埼玉県羽生に本社工場を移し、戦後の1946年、進駐軍向けの需要を見込んでウイスキー製造免許を取得。1959年には社名を東亜酒造とし、日本酒以外の酒も手がけるようになる。
その東亜酒造が肥土社長の父親が社長のとき経営不振となり、2000年には民事再生法の適用を受けることになってしまう。
このとき肥土社長は東亜酒造で働いていたのだが、民事再生法適用の申請をする2年ほど前まで経営不振には気づいていなかったという。
■「お前のハンコがないと銀行の融資が受けられない」
ある日、「お前のハンコが必要だ」と父親に言われたからだ。そのときのことを、肥土社長は次のように語る。
「お前のハンコがないと銀行の融資が受けられない。
銀行の融資を受けるためには息子を保証人にしなければならなくなり、そのためのハンコだったわけだ。それを聞いて、肥土社長の頭に浮かんだのは「言っていたことと違うな」ということだった。
「昔から『保証人にだけはなるな』が父親の口癖でしたからね。それなのに『保証人になれ』と言っているわけですから、言っていたことと違うなと思ったわけです」
それでも、当時でも50人以上いた社員を路頭に迷わせるわけにはいかず、肥土社長は父親にハンコを預ける。2000年に民事再生法の適用を申請し、翌2001年には父親から経営を引き継いだが、経営不振は続いた。
■「継ぐ気はない」と言いながら農大へ
父親と一緒に働いていながら経営不振に気づくのが遅い、という声が聞こえてきそうである。しかし、それも無理ないことで、肥土社長が東亜酒造に勤めはじめたのは1994年、29歳のときからだったからだ。
その直前まで肥土社長が働いていたのは、サントリーだった。そこに入社するまでの経緯も、かなり変わっている。
大学受験のとき、肥土社長が志望していたのは法律系の学部だった。いくつかの大学の法学部を受験するが、全滅だった。
「父親に『家を継げ』と言われたこともなかったし、自分も継ぐ気はありませんでした。ただ農大を受験したのは、『とりあえず受けとけ』と父親に言われたからです」
ちなみに肥土社長は、少年時代の途中から東京の中央線沿線で育っている。父親は東亜酒造の経営のかたわら、都内で小料理店を数軒経営しており、家族はそのころに秩父から都内へ引っ越していた。
家業を継ぐ気がなければ、農大の合格は蹴ってもよかったはずである。しかし肥土社長は、農大に入学する。「勉強が嫌いだったから浪人するのは嫌だったから」と肥土社長は笑うが、入学してみると醸造を学ぶのは楽しかったようだ。
■志望はウイスキー、担当は「輸入洋酒」
だから、大学を卒業して入社したのが酒類大手のサントリーだったのだ。しかし、ウイスキーをつくる職場を志望していたにもかかわらず、ハプニングが待っていた。
「そのときは、ウイスキーの研究職や技術職の募集は大学院卒業者だけが対象でした。
入社して配属されたのは営業企画部で、担当したのは輸入洋酒だった。サントリーの自社製品ではなく、サントリーが輸入していたウイスキーなどの洋酒を、「どうやれば売れるか」を考える仕事である。
「先輩の社員に、『お前の企画は机上の空論で、絶対に売れないよ』などと言われていましたね」と、肥土社長は笑う。そのとき考えた企画は、キーホルダーのようなノベルティグッズをオマケとして付けるというようなものだった。そんなことをしても売れない理由が、輸入洋酒にはあった。肥土社長が説明する。
「当時は輸入洋酒の市場には、並行輸入のものがあふれていました。同じ製品でも、並行輸入のほうがずっと安い。1000円も値段差があれば、どんなノベルティグッズを付けてもダメなわけです」
■ものづくりの未練は消えなかった
入社してすぐに営業企画だったこともあり、営業現場をわかっていないことを本人も自覚していた。企画をたてるにも現場を知ることが大事だと考え、外回りの営業をやらせてくれるように1年も言いつづけた。そして、営業に空きができたタイミングで異動になった。
自分が営業に向いていると本人が考えていたかといえば、そういうわけでもなかったようだ。むしろ、逆である。
「営業だと酒屋さんまわりをするわけですが、店に入る前に近くの電信柱の陰で深呼吸しなければ入っていけませんでした。店主さんと仲良くなって気にいってもらえるような営業は、私にはできませんでした」
それでも、肥土社長は営業で業績を上げ、当時は営業担当専務だった現在の佐治信忠会長から何度も業績表彰されたという。人に取り入っての営業が苦手だった肥土社長が、どうやって業績表彰されるほどの成績をあげることができたのか。
「どうやれば売れるのかを店に提案する営業をやりました。たとえば店頭に小さな冷蔵庫を置いて、そこにビールの6缶パックをいれておくのです。お客さんは冷たいビールをまとめて買いたいので、それが好調な売れゆきにつながりました」
ちょうどそのころ、サントリーでは支店長が本社に移動になり、肥土社長にも「一緒に本社へ来ないか」と声がかかっていた。「せっかく外に出たのに、また内勤か」というためらいもあったが、ものづくりへの未練は消えていなかった。
■父が作った「売れないウイスキー」との出会い
そんなとき、「オレも結構な歳だし、そろそろ戻ってこないか」と父親から声がかかった。
父親の歳を肥土社長に訊ねてみたら「60歳くらいかな」という。「結構な歳」でもないのだが、サントリーでの仕事が節目的なタイミングだったこともあって、家業に戻ることにした。
戻って家業に励む一方で、肥土社長が夢中になったのがウイスキーだった。家業は名のある酒ではなく、一般的に消費される日本酒や焼酎などを広く扱っていたが、そのなかに父親が羽生蒸溜所(埼玉県羽生市)でつくっていたウイスキーもあった。ただし、売れていない商品でしかなかった。
「戻ってすぐのころ、そういえばうちもウイスキーをやっていたなと思い、味見させてもらったんです。ウイスキーの担当者は『うちのは重たくて飲みづらくて、評判もよくないんですよ』と言いながらもってきました。ただ、飲んでみて私は『たしかに個性は強いかもしれないが、ひょっとしたら美味しいかもしれない』と思いました」
いまは、重くて個性の強いウイスキーも好まれていて、愛好家も少なくない。しかし当時は、軽くて飲みやすいウイスキーが主流だった。そういうなかで肥土社長が「美味い」と感じたのは、彼が重くて個性的なウイスキーを好んでいたからではない。
「ウイスキーの個性を楽しむのではなく、水割りですいすいと飲むほうが好きでした。そうした飲み方に向いているのが、いいウイスキーだというイメージもありました」
にもかかわらず、父親が羽生蒸溜所でつくったウイスキー原酒を「美味しいかもしれない」と思ったのだ。それから自分の感覚を信じて大々的に売りだした、ということでもなかった。肥土社長は、プロであるバーのマスターたちの意見を聞こうと考えた。
■バーを回って“試してもらう”日々
「本屋に行ってウイスキー関連の本を買い込んで、そこで紹介されているバーに持ち込みました」
事前にアポイントをとって訪ねるのでもなく、いきなり「試してみてくれ」と持ちかけるのでもなく、ましてや「買ってください」と迫るのでもなかった。ごく普通の客として訪問して酒を飲みながらマスターと話をし、タイミングをはからって「じつは、こんなのがあるんですけど味をみてもらえますか」と羽生蒸溜所のウイスキーを小瓶に詰めたものを取り出した。
最初に訪ねたバーを覚えているかと訊ねたら、「南青山にあったヘルムズデールです」と即座に返答があった。残念ながら、同店は閉店してしまっているようだ。
「ヘルムズデールをはじめ、いろいろなバーのマスターたちからは高く評価してもらいました。『あそこでも試してもらったら』と次々に紹介してもらって、いろいろなバーをまわりました。なかには、『樽ごと買いたい』と言ってくれる店もありました」
■ついに倒産、原酒400樽が廃棄寸前に
しかし、大々的に商品化していたわけでもないので、大きな売上にはならなかった。置いてくれるバーもあったが、何百種類ものウイスキーが置いてあるわけで、そのなかからたまに顧客が選んでくれるくらいの売れ方しかしない。1本置いてもらったとしても、それが空になるには1年くらいもかかってしまうのだ。そういう売り方では、とても商売とはいえない。従業員からも「道楽」くらいに見られていたという。
そうこうしているうちに、家業の経営不振は深まり、前述したように父親にハンコを貸すように言われ、2000年には民事再生法適用となってしまう。民事再生法の適用によって2001年には肥土社長が父親に代わって経営を続けたが回復は難しく、2004年には会社を売却することになってしまう。
買い手は日本酒や焼酎は引き継いでくれたものの、ウイスキーについては消極的だった。羽生蒸溜所でつくったウイスキー原酒400樽の引き取り手がなければ、廃棄するしかなかったのだ。
「なかには20年近く熟成させた原酒もありました。それを捨ててしまうのは、二十歳目前のわが子を見捨てるようなものです。それは、できない。これを世に出すことが自分の役目だ、と当時の私は思い込んでしまったんです」と、肥土社長。
実は肥土社長には、スポンサー会社に残る道もあった。「そのまま残ってくれ」と打診されていたのだ。しかし肥土社長は、その道を選ばなかった。
「この原酒を世に出す仕事がしたい」。そう言って、自ら会社を辞めた。
■「融資」と「貯蔵庫」でウイスキーを守る
400樽を引き取るには、受け皿となる会社をつくる必要があった。そのため以前から経営について相談していた現在の同社会長であり、当時は秩父で書店を経営していた宮前惠一氏に、「資本金300万円で会社を立ち上げようと考えています」と話した。それに宮前氏は、「300万円の資本金なんて、すぐになくなるぞ。オレが700万円をだすから1000万円の会社にしろ」と答えた。
そして、資本金1000万円のベンチャーウイスキーが、2004年9月に誕生する。
会社を設立して400樽を買い取るといっても、話は簡単ではない。買い取ったからには、売却した羽生蒸溜所から400樽を動かさなければならない。どこか倉庫を借りて移せばいい、というものではなかった。
酒の貯蔵免許のあるところから、貯蔵免許のないところへ移せば、その時点で多額の税金がかかってくる仕組みになっている。それを避けるには、貯蔵免許をもっているところに預かってもらうしかない。
「簡単に引き受けてもらえるものではなかったのですが、知り合いの笹の川酒造さん(福島県郡山市)に相談したら、『20年近く貯蔵している原酒の廃棄は業界の損失でしかない』と言われ、空いている貯蔵庫を使わせてもらうことができました」
■「高くて置けない」が「在庫ある?」に一変
そして2005年には、父親の原酒をつかってブレンドしたイチローズモルトの「カードシリーズ」を発売することになる。そのなかのひとつが「キング・オブ・ダイヤモンズ」で、冒頭で紹介したように2006年に『ウイスキーマガジン』で最高得点を獲得することになる。
父の原酒をそのまま瓶詰めするつもりはなかった。「ウイスキーの魅力を伝えるには、味のバリエーションがいる」。肥土社長は、シェリー、コニャック、バーボンと新たに樽を調達し、状態のいい父の原酒を移し替えて後熟をかけた。同じ原酒から、樽ごとにまったく違う個性が立ち上がる。まず売り出したのは、4種類だった。
「それがきっかけで、問い合わせが殺到するようになりました。当時のイチローズモルトは種類によって7400円から2万円くらいの価格帯でしたが、『高くて置けない』と言っていた酒問屋さんが『在庫ある?』と訊いてくる状況になりました」
肥土社長は嬉しそうに語った。廃棄寸前だったウイスキーが、大人気商品となったのだ。
■父の原酒で日本一、自分の原酒で世界一に
じつは、肥土社長はこの賞に応募していない。当時彼がしていたのは、日本中の酒店やバーを一軒ずつ回り、試飲してもらいながら「発売したら置かせてください」と夢を語り続けることだけだった。
そのなかで、『ウイスキーマガジン』の日本代理店が「ジャパニーズウイスキー特集」の候補を集めに動き、リストに紛れ込んでいたカードシリーズが最高得点をさらってしまった。
しかも、ベンチャーウイスキーの快進撃はそこで終わらない。受賞歴のあるウイスキーは、父が残した羽生蒸留所の原酒から生まれたものだった。廃棄寸前の樽を引き取り、独自のウッドフィニッシュで磨き上げたとはいえ、原酒そのものは肥土社長が一から造ったものではない。
だが、カードシリーズの最高得点を取ってから11年後の2017年、秩父蒸溜所で自ら蒸留した原酒を使ったシングルカスク「イチローズモルト 秩父ウイスキー祭2017」が、ワールド・ウイスキー・アワード(WWA)のシングルカスクシングルモルト部門で世界最高賞に輝いた。
父の原酒を守り抜いた男は、自らの手で一から造り上げたウイスキーでも世界一をつかんだのだ。
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前屋 毅(まえや・つよし)
フリージャーナリスト
1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。著書に『学校が合わない子どもたち』(青春新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(KKベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『日本の小さな大企業』(青春新書インテリジェンス)などがある。
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(フリージャーナリスト 前屋 毅)

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