東京ドームには、28室しかない個室がある。法人が年間契約でしか借りられない仕組みだ。
2022年の開業以来、新規契約の申し込みは止まったまま"空き待ち"の状態が4年間続いている。スポーツマーケティング会社・ニールセンスポーツジャパン代表の松永裕司さんは「経営者や富裕層が集まるVIPルームに足を運ぶと、意外な光景に出会う。そこには食い入るように試合を観る人がほとんどいない」という──。
■スポーツ界で流行している“VIP席”
FIFAワールドカップ2026がまもなく決勝戦を迎える。
開催中の北中米では、公式ホスピタリティ・パッケージが1試合最低40万円(2500米ドル)からとなっており、専用スイート(6~12人向け)を複数試合セットで契約すれば総額は1600万円(10万米ドル)を超え、決勝戦の一般席(カテゴリー1)ですら約140万円(8680米ドル)に達する。世界のスポーツ市場は、「観戦体験」そのものが最上級のプレミアム商品として売買される時代に突入した。
日本にも、同様のトレンドがある。国内スタジアムでは法人向け超VIP席の新設・拡充が相次ぎ、なかでも東京ドームが2022年3月の大規模改修でバックネット裏3階に開設した「THE SUITE TOKYO」は、全28室すべてが法人向けの年間契約で埋まり、開業直後から新規契約の申し込みを停止している。契約料は非公表だが、開設以来4年間、法人が“空き待ち”の列を作る状態が続いている。
なぜいま日本でも、VIPルームがこれほど話題になったのか。経営者や富裕層は、VIPルームになにを求めているのか。スポーツビジネスの現場を長年経験してきた立場から、この現象を読み解いてみたい。

■日本初の“VIPルーム”は東京ドーム
かつて後楽園球場には、天皇陛下や球団オーナーを迎えるための貴賓室こそ備えてあったものの、ビジネス・ユーザー向けのVIPルームは存在しなかった。
そもそもスタジアム内にラグジュアリーな個室を設けるというビジネスモデルの原点は、1965年にアメリカ・テキサス州に誕生した世界初の多目的ドーム球場アストロドームだったとされる。当時のオーナー、ロイ・ホフハインツが球場内に全53室のスカイボックスを設置したことが、スポーツを最高峰の社交場へと変貌させる記念碑となった。同ドームは2008年に閉鎖されたが、14年には歴史登録財に登録されている。
日本においてこのアストロドームのDNAを取り入れたのが、1988年開業の東京ドームだ。当時の「スイート倶楽部」は、それまでの皇族や国賓のための「貴賓室」という概念を覆し、「接待室」を日本のスタジアムとして初めて導入したとされる。
なお、東京ドームには1試合66万円のROYAL PARTY SUITE THE FLIGHTや、30万円台のDAZN LOUNGEなど、シーズンシート契約者が1試合単位で利用できるVIP席群も並ぶ。ただし、年間の法人契約でしか利用できず、専用ゲートと東京ドームホテルの専属サービスまで備える最高峰は、THE SUITE TOKYOだけである。
「一日中楽しめるメジャー流のボールパーク」を日本で初めて具現化したのは、2005年に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスだろう。
同球団の初代GMマーティ・キーナート氏(故人)は、松井秀喜さんのMLB行きを予言したジャーナリストでもあり、多様な席の提供にとどまらず、「美味しい食事と心地よい空間で、大切な人と最高の時間を過ごす」というスポーツホスピタリティの価値観そのもの、ボールパーク思想の本質を、古く泥臭かった地方球場に持ち込んだ。
■「ホスピタリティの高い球場」が続々誕生
以降、2009年には広島にMAZDA Zoom-Zoomスタジアムが完成、楽天のボールパーク思想が受け継がれ、券種に関係なくスタジアムを一周できるコンコースや、寝そべって観戦できる「ねそべりあ」、バーベキュー可能な「エバラ黄金の味びっくりテラス」を備えた。
こうした構想は、2012年にソフトバンク保有となった福岡ドーム、2016年からDeNA保有の横浜スタジアムに受け継がれ、2023年竣工のエスコンフィールド北海道で大きく結実を見るようになった。

東京ドームもこうした潮流に乗ったのか、2022年3月には過去最大と呼ばれる改修が行われ、メインスクリーンは従来の4.4倍となる国内最大級のフルカラーLEDビジョンを設置している。
■野球観戦をせずに名刺交換を始める
実際にその場に足を運ぶと、意外な光景に出会う。そこでは野球を食い入るように見る人はほとんどいない。名刺を交換し、資料を広げ、真剣な表情で商談を進める姿ばかりが目に入った。
利用している法人の担当者たちは、時としてグラウンドに背を向けて座り、テーブルを囲んで資料を見せ合う。
試合の展開を実況するアナウンスが響く中、新規事業の提携条件などが話し合われている。高額な年間利用料を払って手に入れているのは「観戦」ではない。ひょっとすると「野球」ですらないのかもしれない。経営者が本当に求めているのは、この空間でしか得られない「関係構築」の機会そのものだ。
なぜ、通常の会食や会議室ではなく、スポーツ観戦という場がこれほどまでに商談の舞台として選ばれるのか。そこには、いくつかの心理的・構造的な優位性があろう。それは少し接待ゴルフに似ているかもしれない。

■「観戦を越えた価値」を提供している
第一に、「同じ試合を見ている」という共体験が、お互いの心理的な距離を一気に縮める効果を持つ。会議室で向き合って座るのとは異なり、隣り合って同じ方向を見ながら会話する状況は、緊張感を和らげ、本音に近い会話を引き出しやすい。
第二に、クローズドな空間であることに加え、時間制限がないという点が大きい。通常の会食であれば1時間半から2時間程度で切り上げる暗黙のルールがある。だが、試合という「終わりの見えないコンテンツ」を共有していることで、商談は自然と、深くなっていく。時間の流れそのものが、信頼関係の醸成に寄与している。
第三に、こうした空間には普段は接点を持ちにくい経営者層が集まりやすいという特性がある。年間契約という参入障壁の高さが、結果的に「同じ層」の人間だけが集うクラブのような機能を果たす。
グローバルなスポーツマーケティングの現場を見てきた経験から言えば、もはや常識という範疇である。世界中の協会、リーグやチームが、こうした「観戦を越えた価値」の提供にこそ、次の収益源を見出している。
■年間2100万円超の“プレミアム席”も
記事冒頭でも紹介したように、東京ドームでもVIPルームやプレミアム席のリニューアルが進んでいる。
2022年の改修で2階コンコースに新設された、どちらも半個室の「MASU SUITE」(枡席コンセプト・年間利用料:5人席/1056万円~10人席/2112万円)と「MASU CABANA」(リゾートコンセプト・年間利用料:4人席/768万円~8人席/1536万円)は、全部屋が完売または残席僅少の状態にある。

半個室でもこの水準なのだから、法人しか契約できず、専用ゲートとホテルの専属サービスを備えた全室個室のTHE SUITE TOKYOの契約料は、さらに高額であることが想像に難くない。空き待ちの列は、28室の外側にも伸びている。
■VIP席の新設・拡充がトレンド
この動きは東京ドームだけにとどまらない。
日本の新たなスポーツ施設では今、高級VIP席の新設・拡充が相次いでいる。もちろん、もともと東京ドームのシーズンチケットを抑え、クライアントの接待に使用するという傾向はそれまでも存在した。2002年のFIFAワールドカップ日韓大会でも、日本におけるスポーツホスピタリティ需要の兆候は顕著に現れ始めていた。
その後、日本でのホスピタリティ需要の広がりを象徴する出来事として、2009年に日本初開催となったラグビーのブレディスローカップが挙げられる。当時の部署で、このチケッティングを担当していたのだが、ニュージーランドとオーストラリアが対戦したこの一戦では、一般自由席が7000円だったのに対し、ホスピタリティシートは5万円前後で売り切れるという現象が起き、ラグビー関係者を驚愕させた。
これが2019年のラグビー・ワールドカップでは、決勝のスポーツ・ホスピタリティで27万5000円という価格設定にまで跳ね上がった。
2020年開催予定だった東京五輪は、新型コロナウイルス蔓延による延期および無観客開催となり、水を差された形だが、ついに日本国内においても、こうしたプレミア・シートが、スポーツ経済圏を下支えする構造となって来た。
国立競技場は2026年1月に“MUFGスタジアム”の呼称を得て、同年4月から「LIMINAL SUITE」が稼働。全53室というスケールは、THE SUITE TOKYOを上回る規模だ。
そして楽天モバイルパーク宮城には、4人掛けで年間240万円、わずか9組限定という「プレステージ」が存在する。2025年、名古屋に登場したIGアリーナも40室あるスイート・ルームはソールドアウトという。
■「名古屋の料亭」でスタッフを鍛える
これらの施設に共通するのは、単なる良い席の提供にとどまらず、専用動線・専属スタッフ・非日常の空間演出をセットにした「体験としてのVIP」を設計している点だ。IGアリーナでの接客があまりにも行き届いていたので訊ねたところ、地元・名古屋の料亭で研修が行われたのだという。
私自身、古くは2006年のテニス全米オープンでマリア・シャラポワが優勝した際、このVIPルームでMLB放映権の商談に興じていた。近年では、IGアリーナのこけら落とし大相撲名古屋場所では、このスイートで各スポンサーと挨拶を重ねていた。
スイートの改修前ではあったものの、2025年の東京世界陸上では公式サプライヤーとして、国立競技場のVIPルームでシャンパンを呑みながらマーケティングデータの取得方法について議論していたものだ。
■経営者が年間契約で買っていた「本当の価値」
「富裕層の特権だ」「格差の象徴だ」という批判が向けられるのも、当然だろう。だが年間契約という安定収益は、天候にも順位にも左右されない。この高額な年間契約料が、選手育成・施設維持・ファンサービスといったスポーツ基盤を支える原資になっている面は、無視できない。
グラウンドに背を向けて座り、資料を広げる経営者たち。彼らが年間契約料を支払って手に入れていたのは、席でも料理でも、野球観戦の眺めでもない。
共体験による心理的距離の消失、時間制限のないクローズド空間、そして同じ層だけが集うクラブ機能。この3つが揃った「関係構築の場」そのものだったのだ。
そしていま、VIP席の高額な契約料が、私たちが観るスポーツの未来を、静かに支えている。

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松永 裕司(まつなが・ゆうじ)

​ニールセン スポーツ ジャパン代表

1965年東京都生まれ。1990年立教大学文学部英米文学科卒業、学習研究社入社。ニューヨーク大学、ニューヨーク市立大学でジャーナリズムを履修。CNNアトランタ本社、マイクロソフト「MSN毎日インタラクティブ」、東京マラソン事務局広報ディレクター、電通スポーツパートナーズ企画開発部長、NTTドコモ・ビジネス戦略担当部長、Stats Perform Japan Vice Presidentなどを歴任し、2024年11月より現職。専門はスポーツマーケティング、DXコンサルティング。

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(​ニールセン スポーツ ジャパン代表 松永 裕司)
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