※本稿は、濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックスPLUS新書)の一部を再編集したものです。
■光秀は京都で落ち武者狩りを
本能寺の変で信長・信忠を討ち果たした光秀は、落人狩りのため、家々を捜索させた。洛中の町屋に明智の軍勢が踏み込んできたので、都は騒然となった。光秀は信長を討てば多くの者が自分に味方してくれると考えていたかもしれないが、その見通しは甘かった。
「人質を出し、味方せよ」
と勧誘した勢田城主・山岡景隆に「信長公には高恩がある。同意できかねる」と早々に加勢を蹴られている。光秀は、近江から織田方の軍勢が進軍してくるのを恐れ、その日のうちに近江国へと向かう。
安土にいた織田に仕えていた人々は「信長死す」の噂が流れてくると、初めは狐につままれたような顔をしていたが、次第に大混乱となる。信長や信忠の死を嘆き悲しむ者はおらず、皆、自身の進退に汲々とする有様であったという。貴重な道具類もそのままに、妻子のみを連れて、故郷に帰る者が多かった。本能寺の変は、多くの人々に衝撃を与え、混乱の坩堝(るつぼ)へと突き落とすことになったのだ。
■家康の最大級の危機「伊賀越え」
天正10年(1582)6月2日の朝、徳川家康は、京都に戻るため、堺を出立した。
5月21日、家康は上洛するが、それも信長の「京都・大坂・奈良・堺をゆっくり見物されるが良い」との言葉によるものであった。案内者として、長谷川竹(織田家臣)が同行した。
大坂では、織田信澄(信長の甥)と丹羽長秀が家康をもてなすことになっていた。
家康らが堺に入ったのは、5月29日。6月1日には、茶会が開催され、津田宗及(堺の商人)や松井友閑(ゆうかん)(堺代官)の接待があった。そして、翌日(2日)、家康は京都に戻るべく堺を出立。するとそこに、驚くべき情報がもたらされたのであった。京都・本能寺にて、織田信長が家臣・明智光秀に襲撃され自害した「本能寺の変」(6月2日)に関する報である。
■堺見物の最中、「信長死す」の報
この報を誰がもたらしたのかというと、京都の豪商・茶屋清延ではないかと言われている。
しかし、京都から堺までの距離は、約60キロメートル。そのような長距離であるから、6月2日未明の本能寺の変の第一報が、その日の朝にすぐ堺に届くことはないだろう。よって、茶屋からの第二報というものはなく、茶屋清延自身による第一報によって、家康は本能寺の変を知ったはずだ。また、家康近臣の本多忠勝が、京都に先に向かっている道中に、茶屋清延と出会い、変事を知り、堺に引き返して、家康に本能寺の変を伝えたともいう。
『徳川実紀』によると、忠勝が引き返してきた様にただならぬものを感じ、供の者を遠ざけ、井伊・榊原・酒井・石川・大久保などだけを側に呼び、茶屋の報告を聞いたという。家康が一報を聞いたときの言動は『三河物語』には記されていないが、『徳川実紀』には次のように書かれている。
■絶望の家康「京都の寺で腹を切る」
「今、手元にもう少し軍兵がいたならば、光秀を討ち、織田殿(信長)の仇をとりたい。しかし、現状は無勢。それは叶うまい。中途半端なことをして恥をかくよりは、急ぎ都に上り、知恩院にでも入り、腹を切り、織田殿に殉じようではないか」と。
しかし、その家康の意向に本多忠勝が異を唱える。年来の信義を守り、織田殿と死を共にしようというお考えは義に叶うもの。とは言え、織田殿の御恩に真に報いようと思うのであれば、まずは本国に帰り、軍勢を率いて、光秀を討つことこそが、大切なのではと忠勝は主張したのだ。酒井忠次や石川数正といった近臣たちもそれに納得、賛同したが、家康は尚も粘る。
■家臣たちが懸命に引き留める
「本国に帰り、軍勢を率い、光秀を討つことはもとより望むところ。しかし、本国に帰るには、知らぬ野山をさまようことになろう。その途上には、山賊や一揆の者どもがここかしこにおろう。そのような者に討たれるよりは、都にて腹切るべし」というのが家康の考えだった。
そのとき、案内者の長谷川竹(織田家臣)が、帰国のことはそれがしにお任せくださいと申し出たので、さすがの家康も近臣の再度の諫(いさ)めもあり、領国に帰る決意をする。
■穴山梅雪は別行動、落ち武者狩りに
家康は同行していた穴山梅雪(武田旧臣)にも「一緒に帰国しましょう」と誘うが『徳川実紀』によると、梅雪は内心「家康を疑っており」、共に帰ることは拒否。別の道を歩むことになる。『三河物語』にも「梅雪は家康を疑って」と書いている。
梅雪が家康の何を疑っていたのかはわからないが、ともかく、家康と別行動をとった。そして哀れにも、落武者狩りにあい、宇治田原(京都府)で討たれてしまう。『三河物語』は、その死を「家康について引き上げていたなら、何事もなかったものを、ご同道されなかったことが不運である」と悼む。
落武者狩りは、家康が本国に帰ることを渋っていた理由の一つである。敗残の将士を討ち取り、鎧・武器・馬などを奪う、あるいは、高名な武将ならばその首を(今回の場合は)明智方に届け、恩賞に預かる者たち。本国に帰るにしても、そうした無頼の徒をうまく避けなければ落命してしまうだろう。家康のこの逃避行が「神君三大危機」の一つに数えられているのはそのためである(他の二つは「三河一向一揆」と「三方原の戦い」)。
■あえて伊賀へ、1日68キロ移動
家康は6月2日中には、山城国宇治田原に着く。その日は、山口光広の館に宿泊。堺からの距離は、約52キロメートル。
「家康は伊賀国を通って引き上げた。かつて、信長が伊賀国を攻められたとき、伊賀の国の者どもを皆、殺した。他国へ逃げた者も、捕まえ殺した。だが、家康は三河に落ち延びてきた伊賀の人々を一人も殺すことなく、生活の世話をした。伊賀国にあって、そのときのことを覚えていた者がいて、御恩返しをしなくてはと思い、家康らをお送りした」と。
■家康の強運を表わすエピソード
この場合は、家康の過去の温情が、後年、自らの身を救ったと言えよう。『徳川実紀』には、茶屋清延が土豪に金を与え、道案内させたこと、一揆の者どもが道を遮ったときは、本多忠勝が力を尽くして、これを追い払ったことなどが書かれている。また、同書にも『三河物語』と同じく、家康が伊賀の者に温かく接していたことで、同地の人が助けてくれたことが記載される。
こうして、堺から三河へと無事に帰ることができた家康だが、もし堺に居らず、京都にいたならば、光秀は軍勢を差し向け、家康をも殺していただろう。それを思うと、本能寺の変の際、堺にいたということは、家康の運の強さを示すものかもしれない。
家康は、本気で信長の弔い合戦をするつもりであった。家康は尾張清洲城に逃れていた三法師(信長の孫、後の織田秀信)を擁し、光秀を討つ算段だったようだ。6月14日、尾張国鳴海へ出陣した家康。数日後、そこにまた驚くべき知らせが家康のもとに、届けられることになる。
■光秀を討つため帰国後に出陣するも…
13日には、明智光秀自体、既にこの世にいなかった。信長横死を素早く聞きつけた織田家臣・羽柴秀吉が、中国地方の戦場から急遽(きゅうきょ)引き返し、山崎の戦いで光秀軍を撃破、光秀は落ち延びる途中で落武者狩りにあい、落命したのだ。
同月19日、羽柴秀吉から、上方は平定したので、帰陣してほしいとの通知があったので、家康は浜松に帰ることになる。
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(歴史研究者 濱田 浩一郎)

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