仕事の手応えを知るには、どうすればいいか。『東大卒、年収1100万をやめて刺しゅうをはじめたワケ 冷めたまま働きつづける前に』(世界文化社)を出した実業家の田中優輝さんは「今の仕事に手応えがないとしたら、それは数字の問題ではなく自分の手から、誰かの生活へ、何かが届いているかどうかが見えていないのかもしれない」という――。

■「物語」で顧客を「結果」に誘う
最初の「かわいい」を動画へのDMでもらってから、私はもう一つ大きな仮説を立てていました。論理的にバズる作品を、一つ作れないか。マーケティング的な言い方になりますが、外資系投資銀行の前にやっていたインターン時代に学んだことが、この瞬間、一番使える気がしました。
そこに生まれる物語を見せること。
刺しゅうとアパレルの市場を、私はずっと見ていました。かわいい動物。きれいな花。トレンドに沿った服。すでにいいものはたくさんありましが、「ここは何かが違う」と立ち止まらせる商品やブランドは、少ないと思っていました。
器具の豊富さで勝負するスポーツジムが世の中にたくさんあるなかで、ライザップは「結果にコミットする」と打ち出して市場を変えました。結果を約束してくれるなら行ってみようか――。
市場には、まだ角度がついていない領域がたくさんあります。
私が「帰りを待つわんこ」の刺しゅうでやろうとしたのも、それに近いことでした。
服の着こなしやトレンドで勝負するブランドがほとんどの世の中で、「世界的なブランドを私が作る」そのストーリーごと売ったら? 商品そのものにも、飼い主の心を動かす犬のストーリーがあったら?
心が動くのは飼い主が見ていない間に、犬が何をしているかです。仕事から帰ってくる飼い主を、玄関で待っている。その姿を想像してもらえたら、勝てるかもしれない。
■「帰りを待つわんこ」がバズって起きたこと
「帰りを待つわんこ」の動画が回り始めた翌朝、フォロワーの数が大きく増えていました。注文が積み上がっていく。コメントが止まらない。私はその画面を見ながら、何を感じたか。爆発的な喜びかというと、違いました。安心が、8割くらい。
回ってくれるだろうとは思っていました。でも実際に回るかどうかは、出してみるまでわからない。
その答えが、ようやく返ってきた。うれしいより先に安心が先でした。
残り2割は何かというと、怖さです。ストーリーで集めてしまったから、次の作品で離れるかもしれない。フォロワーが増えれば増えるほど、次が問われる。喜びより先に、その怖さが来ました。親に「食べていけそうです」と伝えたのも、この頃でした。短い返事でしたが、それで十分でした。
安心が8割というのは、冷静に聞こえるかもしれません。でも、これが正直なところでした。大きなことが起きたとき、人は意外と静かにそれを受け取ります。爆発的に喜べなかった自分を、おかしいとは思わなかった。
ただ、続けてよかった、とだけ思いました。
続けた先にしか、この朝は来なかったから。
PayPayが止まった8月のある日
「初めて売り上げを立てた日」をインスタにあげると、300万回再生となり、すぐに注文が入るようになりました。
でも、8月、私の個人口座の残高は2158円になったのです。売れているのに、お金がない。正確に言うと、会社にはお金があって、私個人にはなかった、というなんとも歪な状況になっていました。
その原因は、住民税です。
住民税は、前年度の年収で計算されます。外銀での年収は、約1100万円。翌年の住民税は、約100万円でした。1回の支払いで約30万。それが、年に4回来ます。
遊んでいない。ぜいたくもしていない。クーラーをつけずにブロッコリーを食べている人間に、前の年の高い年収を理由に、100万円の請求が来る。
気づいたときには、8月になっていました。PayPayが止まりました。チャージできない。コンビニで何かを買おうとしても、決済が通りません。救ってくれたのは、それまでに貯まっていたPayPayポイントでした。約1万2000円分。それで、しばらく食費をまかなっていました。まさにポイントで数週間を食いつなぐ状況です。
覚悟することと、引き受けることは違います。
冬に葉を落とした木は、枯れていても根は土の中で動き続けている。残高2158円は、地面の上の話。土の下では、注文が入り続けていました。自分の血流が止まりそうでも、会社の血流は止めてはならない。たとえ、孤独でも。
■個人口座残高「2158円」の教え
残高2158円の画面を見ながら、私はもう一つのことを考えていました。
なぜ、これだけお金がないのに、明日もミシンの前に座ろうとしているのか。外銀の月90万を捨てて、ポイントで生きているのか。答えは、わりとはっきり出ました。
外銀の月90万は、額としてはもちろん大きいです。でも、その仕事に、私は価値を感じられなくなっていました。誰の生活が変わっているのか、見えない。
資料は翌週には古くなる。自分でなくてもいい仕事。その感覚が、9カ月間ずっとあった。
四畳半のポイント生活の仕事は、額としては小さい。でも、「帰りを待つわんこ」のコメント欄に、飼い主と犬のリアルな時間が書かれていました。私が想像した場面と、コメントを書いてくれた方が思い浮かべた場面が、刺しゅうの上で重なる。その感覚が、残っていました。
仕事の手応えは、数字の大きさでは決まらない。自分の手から、画面の向こうの誰かの生活へ、何かが届いた感覚があるかどうか。それがある仕事なら、残高が2000円台でも、明日またミシンの前に座れる。残高の画面は、そのことを問いかけてきました。
■それでもなぜ、ミシンの前に座るのか
ここまで読んで、「事業の失敗の話ですか」と思った方がいるかもしれませんが違います。会社の資本金には、まだ100万円ほど残っていました。ありがたいことに事業の売り上げはバズった後から右肩に伸びていました。事業として見れば、当時の北区の刺しゅう屋はようやく軌道に乗りました。
苦しかったのは、私の個人口座だけです。売り上げが立ってから入金されるまで時間がかかる。会社にお金が入っても、それはすぐに自分の給料には出せない。前年度の住民税は、事業の現状と関係なく来ます。これが、起業して初めてわかった構造でした。
でも、私が残高2000円台のときに頭の中にあったのは、この構造の話ではありませんでした。
こんなにお金がないのに、なぜ毎日ミシンの前に座っているのだろう。PayPayポイントで生きながら、なぜ明日もミシンを動かそうと思えるのか。それが不思議でした。
■数字よりも強い仕事の「手応え」とは
外銀の月90万を捨てたのに、後悔はまったくありません。残高2000円台の画面の前で、その理由を考えてみると、答えはわりとはっきりしていました。
届いている実感があったからです。
お金があっても届いていない仕事は、いつか続けられなくなります。お金がなくても届いている仕事は、なぜか続けられる。届いている実感があると、人はもう一日だけ手を動かせる。仕事が続けられるかどうかは、数字よりも、その実感があるかどうかで決まると思っています。
今の仕事に手応えがないとしたら、数字の問題ではないかもしれません。自分の手から、誰かの生活へ、何かが届いているかどうかが見えていないのかもしれない。その問いを、一度今の仕事に向けてみてください。届いているものが見えた瞬間、仕事の景色は少し変わります。

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田中 優輝(たなか・ゆうき)

実業家

1999年秋田県生まれ。東京大学経済学部金融学科卒業後、外資系投資銀行に入社するも約9カ月で退職。2024年、株式会社TakeRiskを創業。「北区の刺しゅう屋」を立ち上げる。刺しゅうもアパレルも未経験のまま、家賃7万円の四畳半とミシン1台から製作を開始。世界的なブランドに育つまでの挑戦と過程をSNSで発信し続けている。現在、Instagramのフォロワーは約17万人。

「北区の刺しゅう屋」HP


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(実業家 田中 優輝)
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