群馬県の伊香保温泉に、温泉まんじゅうの発祥とされる創業116年の「勝月堂」がある。1個140円の「湯乃花饅頭」を求めて朝から行列ができ、早ければ昼前には完売。
買えずに帰るお客も少なくない。それでも店は、機械を使わず、店舗を増やそうとしない。その理由は何か。旅行作家の野添ちかこさんが、4代目社長の半田正博さんを取材した――。
■伊香保温泉で116年変わらない「温泉まんじゅう」
伊香保温泉の石段街を上りきる手前、神社の下の細い通りに一軒の店がある。
明治43(1910)年に創業し、116年前から変わらぬ製法でまんじゅうを作り続ける勝月堂だ。
石段街の喧騒を抜けた先にあるその店は、土・日曜や夏休み、紅葉の季節になると、朝から長い行列ができる。
大きな窓から光が差し込む作業場は10畳ほどの広さだろうか。職人たちが黙々と手を動かし、ひとつひとつまんじゅうを丸めている。石段街で射的店を営む女性は「私はここに30年以上いるけれど、昔から全然味が変わらないのよ」と言う。
温泉地の定番土産として知られる「温泉まんじゅう」。勝月堂の「湯乃花饅頭」は全国に広がった茶色い温泉まんじゅうの発祥とされている。

淡い茶色の皮は、伊香保の茶褐色のにごり湯「黄金(こがね)の湯」をイメージしたもの。創業者が考案した色味を守り続け、いまも同じように蒸し上がる。
「温泉まんじゅうなんてどこも同じだよ、という人にこそ食べてもらいたい。若い人から『こんなおいしいまんじゅう、初めて』と言われます。これが本物です」と4代目社長・半田正博さんは自信をもって言う。
■機械は使わず、創業以来ずっと手作り
「湯乃花饅頭」を一口食べると、まずしっとりとしたやわらかさが広がり、続いてもちもちとした弾力が返ってくる。淡い茶色の皮の中には、甘さ控えめのこし餡がぎっしり。皮と餡が口の中でほろりとほどける。
「みんな、機械で作った大量生産の温泉まんじゅうに慣れてしまいましたが、味がまったく違います」と正博さんは言う。
材料は国産の小麦粉、黒糖、あずきなど一般的なものばかり。それなのに味が違うのはなぜか。おいしさの秘密を尋ねると、「テレビカメラが入ったこともありますが、レシピは絶対に明かせません」。

分かったのは、創業以来、変わらぬ製法で手作りしているということだけ。取材した日は、3人の職人が甕から出したタネをちぎり、ヘラで餡をのせ、手のひらで素早く丸めていた。安定して同じ味と形に仕上げられるようになるまで、3年から5年ほどかかるという。手の温度や力加減など、経験や技術がそのまま仕上がりに直結する。
■日持ちしない、売り切れる…それでもやり方を変えない
「手の熱がタネに伝わると、まんじゅうの色やふけ具合(蒸したあとの膨らみ)が変わってしまうので、なるべく手早く丸めるのがポイント。その日の天候や湿度でも微妙に変わります」
機械で作るまんじゅうと違い、勝月堂のまんじゅうはふっくらと丸いドーム型。手作りゆえに形も餡の入り方も一つずつ違う。そして何より、日持ちがしない。保存料などが使われていないため、消費期限は「翌日まで」だ。
「本当はその日じゅうに食べてもらうのが一番です。時間が経つほど硬くなり、おいしくなくなっていく。だから、翌日までとしています」
手作りにこだわるほど日持ちは短くなり、売り切れで買えない人も出てきてしまう。
それでもこの店の商品は手作りの「湯乃花饅頭」一つだけ。あんこもこし餡1種類だ。
行列ができたり、売り切れたりしないためには、機械を入れて作る量を増やせばいい。多店舗展開すれば売り上げも上がる。それは正博さんも十分に分かっている。それでも、やらない。勝月堂はその道を選んでこなかった。
では、なぜ勝月堂は、売り切れても規模を広げないのか。答えは、店の歴史と、銀行員から4代目になった正博さんの歩みにある。
■曽祖父が考案“伊香保温泉の色”のまんじゅう
「湯乃花饅頭」を考案したのは曽祖父・勝三(かつぞう)さん。明治の中頃の生まれ。15、16歳で和菓子職人を志し、東京の「凮月堂」で約10年修業した。

その後、妻・ときさんと郷里の伊香保温泉に戻る。店は持たず、かるめ焼や団子を入れた竹製の大きな行李(こうり)を背負い、旅館を回る行商で生計を立てていた。
転機は、隣に住んでいた伊香保電気軌道に勤める須田逸平さんの提案だった。伊香保電気軌道は明治~昭和時代に渋川-伊香保を結んだ山岳路面電車で、伊香保温泉の発展を支えた会社だ。須田さんは江ノ島土産の「片瀬まんじゅう」を手渡しながら、「伊香保には名物がない。半田さん、名物を作ってみないかい」と声をかけたのだ。勝三さんが考えたのは、鉄分を多く含む伊香保温泉の「黄金の湯」の色を模し、皮を淡い茶色に仕上げたまんじゅうだったそうだ。
「通常の黒糖まんじゅうのレシピでは伊香保温泉の色にならないんです。普通に作ると黒糖の色が勝って、かなり黒くなってしまうので」と正博さん。秘密は、代々受け継がれてきたレシピに隠されている。
まんじゅうは評判を呼んだ。行商から始めた曽祖父は、昭和初期になると木造6階建ての本店を構えるまでになる。
宮大工の手によるこの近代建築物は、いまもひと目見ようと立ち寄る人がいるほど。「まんじゅうで建てた“まんじゅう御殿”ですね」と正博さんは口元をゆるめた。
■4代目は「継ぐべきときではない」と家を出た
現在の4代目・正博さんは昭和31(1956)年、伊香保温泉で生まれた。少年時代の伊香保はいまとはまったく違い、湯治場の雰囲気が色濃く残っていた。
祖父からは、戦前に群馬県を訪れた昭和天皇に、「湯乃花饅頭」を献上したと聞かされて育った。
やがて東京の大学へ進学した正博さんは、卒業後に実家へ戻るべきか、就職すべきか悩む。大学卒業を控えた昭和54(1979)年は第二次オイルショックの不況下にあった。当時の伊香保温泉は団体旅行が中心で、客は大型バスで旅館に直行し、宴会後はそのまま帰る。土産は「伊香保温泉」と書いてあればよく、味は二の次。勝月堂のような小さな店に立ち寄る客はほとんどいなかったのだ。
「俺が店に帰れば人件費は一人分増える。でも売り上げはすぐには伸びない。
親父に『就職しようと思うんだけど……』と相談すると、何も言わなかった。親父が何も言わないのはOKということなんです」
正博さんは「いまは継ぐべきときではない」と判断し、地元での就職を選んだ。通える範囲では車のディーラーか金融機関しかなく、県内で最も大きな群馬銀行を受けたところ、運よく合格した。
「『まんじゅう屋は継ぐつもりはありません』と嘘をついて、面接を突破しました」
■「親父の涙」に45歳で決断→50歳で継いだ
銀行員生活を続けていた正博さんが「勝月堂を継がなければ」と強く感じたのは45歳のときだった。祖母が亡くなり、父が落胆している姿を目の当たりにしたからだ。母から「仕事場で一人で泣いていた」と聞き、「親父が泣くなんて、よほどのことだ。これはまずいな」と思ったという。
同じ頃、妻からも相談があった。
「お義父さんが作るあんこが柔らかすぎて使えない……」
勝月堂のあんこは手練りで、火力と力加減が命。短時間で練ればサラリと仕上がるが、力が弱いとベットリしてしまう。「あんこが柔らかい」のは、父の体力が落ちてきた証拠だった。
そろそろ潮時だと感じた正博さんは、50歳で早期退職すれば退職金が割増になり、住宅ローンも返せると計算した。そうすれば余計な心配をせず店に向き合える。「あと5年、頑張ってくれないか」と父に伝え、代わりに土・日は休みなくあんこと蜜を作ることを約束した。そして50歳で店に戻る。父は75歳になっていた。
■専門学校に通ったが、まんじゅう作りはギブアップ
家業を継ぐにあたり、正博さんは専門学校に通い、国家資格「製菓衛生師」の資格を得た。包餡(ほうあん)(あんこを包む技術)も学んだが、現場ではまったく通用しなかった。「ベテランの女房が向かいに立って、じっと見ているんです。向こうは作りながらもチェックする余裕があるので、何かと指摘してくるんです」
学校では丸めたあんこを包むだけだが、勝月堂ではヘラで餡をのせながら包むため、難易度が高い。あんこや蜜作りは小学生の頃から父を手伝っていたので問題なかったが、まんじゅう作りは一筋縄ではいかなかった。「そうじゃないのよ、こうするのよ」と妻・美樹さんから容赦なく責め立てられ、ついには夫婦喧嘩に。「俺はもう、まんじゅうは作らない」とギブアップした。
結局、まんじゅう作りは妻・美樹さんが担当し、正博さんはあんこと蜜、財務や経理など店のバックヤードを支える役割を担うことになった。
■リニューアル直後に向かいのホテルが火事、頭が真っ白に
細々と営業を続けていた勝月堂の売り上げは、個人旅行の増加を追い風に、徐々に伸びていった。だが、2011年の東日本大震災で温泉街から人が消え、翌月の売り上げは前年の約4分の1に落ち込んだ。
「日本中が自粛したら共倒れになる。経済が止まってしまう」と正博さんは考え、店は一日も休まずに開け続けた。
2013年には古びた店舗をリニューアルした。創業100周年の記念事業として進めていたものの、東日本大震災の発生で計画は一時中断し、ようやく実現できた改装だった。しかしその直後、道路向かいのホテルが火災を起こすという思いがけない災難に見舞われた。
石段街を挟んだ向かいの10階建てのホテルから火が上がり、竜のような炎がみるみる建物を包み込んでいった。
万事休す――。
「ドーンという爆発音とともに窓ガラスが割れ、火の手が勝月堂へ迫ってきました。せっかくお金をかけてリニューアルしたのに、終わった……。『もうダメだ』と、頭が真っ白になりました」
スタッフと薬師堂に避難し、祈るような気持ちで炎を見つめ続けた。幸いなことに、勝月堂側からの消火活動のおかげで延焼は免れ、建物は奇跡的に助かった。
「風が吹いていたらアウトだったんです。ギリギリのところで火が食い止められたので、なんとか守れました」
■売り上げ10分の1でも店は閉めない
そこから7年後、コロナ禍に。月の売り上げは通常の10分の1まで落ち込み、「きつかった」と振り返る。正博さんはこのときも店を開け続けた。
「ほとんどの店が閉めましたが、私は長年やっている従業員に『忙しい時だけ来てくれればいい』とは言いたくなかったんです」
技術を持つ職人の雇用を守りたい。その思いから、赤字が膨らんでも店を開け、給与を支払い続けた。石段街を上ってきたお客さんから「開いているのはお宅だけだった」と言われたこともある。
「『伊香保温泉を助けよう』と通ってくださる方もいた。そういう方を大事にしたいと思いました」
蓄えがあったため、すぐに倒産するということはなく、融資にも頼らず耐え抜いた。
「じっと我慢して、自力でV字回復しました」
■職人が一人でも欠けると、生産量が大きく落ちる
だが勝月堂には、外部からの影響だけではない、常につきまとう危うさがある。人の手で作るがゆえの苦悩だ。「手作りなので、一人欠けるだけで生産ラインが大きく揺らぎます。また職人が未熟だと餡が飛び出して、売り物にならないこともあるんです」と正博さん。
とくに経験が長い職人はまんじゅう作りのスピードが速く、パートなどで労働力を補充したとしても、代替はできない。勝月堂で最も長い経験をもつのは正博さんの妻・美樹さん。30年選手のベテランだ。2024年に体調を崩し、まんじゅう作りが間に合わなくなってしまったことがある。
「忙しすぎて、心身がすり減ってしまったんでしょうね。一人欠けると、製造スピードが大幅に落ちて、本当にどうしようかと思いました」
勝月堂では「1日何個」というノルマはなく、その日できた分だけを売るスタイル。昔から変わらないやり方だが、お客さんの人数が増え、生産スピードが落ちたことで行列が長くなった。2025年の紅葉シーズンには、2時間並んだ客が売り切れで買えずに、怒り心頭という事態も勃発した。
「『この店のマネジメントはどうなっているんだ』とお客さんから殴りかかられそうになりました。列がさばけなくて、謝りっぱなしでした」と正博さんは振り返る。
■昼前に「完売」、それでも拡大しない
店は朝9時から夕方6時までの営業だが、「売り切れ次第終了」となるため、夕方まで開いていることはほとんどない。その日の生産分を作り終えるとすぐに売り切れてしまうことも。おおよそ平日の営業は午後2~3時まで、土・日曜は昼前に閉店してしまうこともある。
「翌日の予約のためには本来開けておくべきなんですが、みんな疲れ切ってできないんです。『完売です』の札が立ち、カーテンが閉まっていたら閉店です」
以前は年中無休だったが、スタッフの体調を守るため、現在は週1回ほど不定休を設けている。
人や機械を増やし、商品や店舗を広げれば、売り上げは伸ばせる。それでも正博さんが拡大を選ばない理由は、代々受け継がれた家訓にあった。
「親父、おじいさん、ひいじいさんからの伝言は、『湯乃花饅頭の名前はほかでも使っていい。でも、まんじゅうのレシピは秘密にしなさい』というものでした。『細く、長く』。それが家訓です」と正博さんは語る。
■店を増やすほど、レシピが漏れる
機械化して自動にすればいいという営業の売り込みはしょっちゅう来るという。それでも家訓を守るために、機械化せず、店を増やさない選択をしてきた。
「お客さんも含めて、周囲からは、店を出せばいいと言われたこともありました。でも、10店作ればレシピを知る人は10人になる。そうすると、レシピが漏れてしまう。家訓から外れてしまうんです」
現在、門外不出のまんじゅうのレシピを知るのは、正博さん、息子さん、そして12年勤めるスタッフの3人だけという。効率が悪くても、売り上げが大きく伸びなくても、一つの店で地道に手作りする。その姿勢こそが勝月堂の核になっている。
「116年前の味が通用するわけですよ。若い子が『おいしい、おいしい』と言って食べてくれる。そう考えると、ひいじいさんは大したものだなと思います」
あんこや蜜は、創業当時から使い続けている釜で今も炊いている。変えたのは、薪から灯油、そして現在はガスの火に切り替わったことくらいだ。
売り上げを伸ばすことよりも、門外不出のレシピを守り続ける。その姿勢が勝月堂の価値を高め、いまの人気へとつながっている。「細く、長く」という家訓は目先の利潤に翻弄されず、時代や流行が移り変わっても通用する、本質を捉えた教えだったわけである。
■景気が良くても悪くても「細く、長く」
正博さんは、伊香保温泉の移り変わりをつぶさに見てきた。
昭和30~40年代の高度経済成長期には伊香保温泉には温泉まんじゅう店は15店ほどあり、全国的にも「温泉地でまんじゅうを売れば儲かる」というサクセスストーリーがささやかれていた。
「いい時はドーンと儲かりますが、何かあると一気に縮小するんです」。売れるに従って店は増えたが、うまくいかずに潰れた店も多かった。
銀行員として、手を広げすぎて行き詰まる会社を数字の側から見続けてきた人でもある。無くなった店の理由を尋ねると、「一言でいうと、『手を広げすぎて、まんじゅう店同士の競争が激しくなった』でしょうか。きつい言葉でいうと『儲けようと、欲が深かった』」。
温泉街の姿も、この半世紀で大きく変わった。高度経済成長からバブル期にかけては、大型旅館がラーメン店やスナック、土産物店まで内包し、旅館と土産物店の関係は良くなかった。
「お客さんは宿の外に出ず、伊香保の良さを知らないまま帰ってしまったんです。でも旅館側も『これじゃいけない』と気づき始めたんですね」
現在は企業の宴会が減り、家族連れやカップルなど個人旅行が増えた。その変化により、自然散策や勝月堂のような小さな店が見直されたという。
■「最後は冒険してみようかな、何をやるかはヒミツ」
正博さんは時代の潮目が変わったと感じている。
「ここ10年くらいで食の安全性や健康が重視されてきて、味にこだわるうちのやり方が、脚光を浴びるようになってきました。『細く、長く』が時代に合ってきたのかもしれません」
これまでの歩みを「自分は先祖が引いてくれたレールの上を走っているだけ」と謙遜しつつも、こう続ける。
「線路の上をスピード調節だけしてるんじゃ、やっぱり男としてはつまんねえな」
まんじゅう店に戻って20年。これからのことを聞いてみると、ちょっとはにかみながら、目を細めてこう話してくれた。
「家訓は守りながらも、生きている証として、最後は冒険をしてみようかな。何をやるかは、まんじゅうのレシピ同様、ヒミツだけどね」

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野添 ちかこ(のぞえ・ちかこ)

温泉ソバリエ、旅行作家

1972年、神奈川県生まれ。A5ランクの肉より豆類、らーめんよりそば、スイーツより山菜がおいしいと感じるようになったアラフィフライター。23歳で業界新聞の記者になり、34歳でフリーに。ツーリズム業界には30年近く携わる。現在、『NIKKEIプラス1』(日本経済新聞社)にて「湯の心旅」、『旅の手帖』(交通新聞社)にて「会いに行きたい温泉宿」を連載中。著書に『カラダの中からキレイになる宿』(JTBパブリッシング、共著)、『千葉の湯めぐり』(幹書房)、『旅行ライターになろう!』(青弓社)。温泉、宿、蕎麦、健康、食、50代からの生き方などをテーマに執筆中。

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(温泉ソバリエ、旅行作家 野添 ちかこ)
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