織田信長を支えた武将・柴田勝家とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「ドラマや小説では、先進的な秀吉と対極に描かれることが多い。
だが、勝家が築いた玄蕃尾城を見ると、そのイメージが覆される」という――。
■「賤ヶ岳の戦い」とは空前の築城合戦だった
羽柴秀吉と柴田勝家が激突した賤ケ岳合戦には、大きな特徴があった。日本史上において、ほかに例がないほどの築城合戦だったのである。
雪国である越前(福井県東部)が本拠の勝家は、雪のために動けずにいたが、天正11年(1583)2月下旬、およそ2万の軍勢を率いて越前を発ち、積雪が残るなか進軍し、柳ヶ瀬(滋賀県長浜市)に位置する標高460メートルの内中尾山(うちなかおやま)に本陣を置いた。それが後述する玄蕃尾(げんばお)城である。
また、柴田方の佐久間盛政や前田利家らも、内中尾山の南側の山々に、次々と陣城や砦を築いた。佐久間盛政が築いた行市(ぎょういち)山砦、前田利家と利長親子による別所山砦、金森長近が陣を置いたと伝わる栃谷(とちたに)山砦、原彦次郎が築いたという中谷山砦、不破勝光のものとされる林谷山砦……という具合に、まず行われたのは土木工事だった。
羽柴方も負けてはいない。秀吉は3月19日、5万といわれる兵力を率いて木之本(滋賀県長浜市)に布陣。最初は柴田方の砦群とは目と鼻の先の天神山砦を前線としたが、柴田方に押されて後退し、2つの防衛ラインを構築した。神明山砦、堂木山砦、東野山砦を結ぶのが第1線で、その後方にも、余呉湖の東岸を囲むように、賤ヶ岳砦、大岩山砦、岩崎山砦を結ぶ第2線を構えた。そして木之本の田上山砦には弟の秀長を据え、事実上の本陣とした。

ともかく、最初のうちは両陣営が相手を攻撃することなく、陣城や砦を築いていた。双方が持久戦を想定していたということである。
■勝家の砦と秀吉の砦の違い
また、羽柴方、柴田方それぞれの陣城や砦は、現在も余呉湖周辺に20程度残り、それなりに遺構が確認できるものが多い。それらを検討すると、両者の戦術がよく見える。
両陣営の砦を比較すると、羽柴方の砦は、防御や攻撃のための工夫が凝らされているのに対し、柴田方の砦は規模が小さめで、構造も比較的シンプルである。こうした違いは、どんな理由から生じているのだろうか。
滋賀県立大学名誉教授の中井均氏は〈これは南下して攻撃をしようとする勝家軍は兵の駐屯地としての陣城を構えたことに対して、迎え撃つ秀吉軍はこの防衛ラインを突破されないための巧妙な縄張りの陣城を構えたものと考えられる〉と書いている(『秀吉と家臣団の城』角川選書)。
実際、越前から一気に南下をはかる柴田勝家は、元来が山岳戦を得意としていた。だから山中に軍道を整備しつつ、山伝いに進軍し、途中に敵がいれば蹴散らす、という考えだっただろう。だから山中に築いた砦も、そこで敵の攻撃を防御する以上に、兵を駐屯させる場所として重要で、だからシンプルな構造でよしとしたのだろう。
一方、秀吉は迎え撃つ側で、元来が平地での持久戦に強い。だから、しっかり防御された砦による防衛ラインを二重に築き、進軍よりも防衛に力を入れたと思われる。
実際、秀吉は時間をかけて敵を消耗させる戦いが得意中の得意なので、勝家に対しても、そういう戦いを想定していたことだろう。
■すぐれた築城家としての一面
だが、両者の違いをこう説明してはみたが、まったく当てはまらない陣城がある。勝家が本陣を置いた内中尾山の玄蕃尾城である。
柴田方の砦は比較的小さく構造もシンプルだと書いたが、この城だけはまったく逆で、大規模なうえにきわめて凝っている。石垣こそ積まれていないが、土造りの城の到達点といえるほど本格的で、玄蕃尾城にくらべると、羽柴方の砦など、「防御や攻撃のための工夫が凝らされている」といったところで、オモチャみたいである。
考えられる理由は、1つは本拠地である越前から南下する際の中継地点として、あらかじめ整備されていた可能性である。もう1つは、進軍が敵わず、羽柴方の攻撃を受けることになっても、この城だけで持ちこたえられる拠点を構えた、ということではないだろうか。いずれにせよ、柴田勝家がすぐれた築城家であったこともわかる。
なにはともあれ、この玄蕃尾城を「攻めて」みよう。結局、賤ヶ岳合戦の際に戦場にならず、その後は使われずに廃城になったため、当時の城の構造が奇跡的なほどよく残っている。自動車で中腹まで行けば、徒歩15分程度で城の入口に到達できる。
まず南端の曲輪(郭1)が出迎えてくれる(曲輪とは城を構成する区画のこと)。
南西側に虎口が二重に構えられ、その前は空堀で守られ、曲輪全体も空堀の外側も土塁で囲まれている。いきなり敵を寄せつけない鉄壁の防御を見せつけられる。空堀に架けられた土橋を渡ると隣の曲輪(虎口郭)で、その先に45メートル四方の主郭がある。
■決して古いタイプの武将ではない
主郭は周囲を、かなり高い土塁と深い堀で囲まれ、それだけでも圧倒的だ。
南側は土橋を渡ると、敵がまっすぐ進めない「喰違い虎口」が開かれているが(虎口とは城の出入口のこと)、土橋の前にも「馬出郭」がある。これは虎口を見えないようにするのと同時に、侵攻する敵の進路を何度も屈折させ、しかも、その敵を全方位から射撃できるという、きわめて完成度が高い防御の構造だ。
主郭は北側と東側にも虎口が開かれ、いずれも外側には、土塁がめぐらされた馬出状の曲輪がもうけられている。南側の虎口と同様に、敵の直進を阻んで周囲からの射撃にさらすための施設だ。この構造であれば、城兵がかなり少なくても徹底防御できる。じつに考え抜かれている。
主郭を囲む土塁の北東角には、方形の広い平面があって、礎石も残されている。天守かそれに類する櫓が建てられていたのだろう。

この主郭が、まさに柴田方の総司令部で、すでに述べた虎口の防御体制を含め、近世城郭の構造そのものである。古いタイプの武将というイメージがある勝家だが、築城術はすぐれていただけでなく、かなり先進的だったことがわかる。
■賤ヶ岳における勝家の戦略がよくわかる
主郭の北側を守る馬出郭の外には、扇形で城内最大規模の曲輪(郭2)がある。おそらくここには兵が駐屯し、物資が集積されていたのだろう。
この曲輪も土塁と堀に囲まれてはいるが、主郭にくらべると単純な平面で、東口に開けられた虎口は喰違いでない平虎口の前に、広い土橋が架かる。物資を運び入れやすくしてあったのだろう。この曲輪も含め、玄蕃尾城は総司令部である主郭を中心に、どの曲輪も役割が明確だ。それらが合理的に連携して、堅固な防御体制になっている。
現在、樹木がよく伐採され、下草もこまめに刈り取られているなど、管理が行き届いている。このため、雪が積もる季節を除けばいつでも訪問しやすいうえ、城の構造が細部も全体像もつかみやすいのだ。つまり、柴田勝家がなにを考えていたのかが、この城を訪れると手に取るようにわかる。
おそらく勝家としては、この城ひとつで徹底的な防衛ラインが敷けている、という意識だったのではないだろうか。
だったら、ほかの砦群はシンプルでもなんとかなる。
■勝敗を決めた、ある武将の油断
だが、膠着していた戦況が変化する。大きなきっかけは羽柴方の山路正国が、佐久間盛政の調略を受け、柴田方に寝返ったことだった。
一度は降伏した織田信孝がふたたび反旗を翻したため、秀吉は4月17日、2万の兵を率いて岐阜城に向けて出陣したが、同じタイミングで柴田方には、正国からの情報がもたらされた。
賤ヶ岳砦と大岩山砦を結ぶ第2の防衛ラインは、十分な防御態勢が取れておらず、背後では信孝などの動きにも脅かされている、というのが正国の情報だった。実際、偵察で確認すると、たしかに秀吉は木之本の本陣を発っていた。そこで佐久間盛政が、防御が薄い方面への攻撃を主張。勝家は、砦を攻撃してもその場に駐屯せず退却する、という条件で攻撃を許した。
ところが、盛政は大岩山砦を急襲すると、岩崎山砦も落とし、余呉湖一帯を制圧できたために慢心し、勝家の忠告を無視してそのまま駐屯。そこに、大岩山砦陥落の知らせを受けた秀吉が、岐阜城から52キロの距離をわずか5時間程度で駆け戻ったため、盛政の軍は不意を突かれ、その状況で前田利家らが戦線を離脱したため、盛政の軍は壊滅。勝家の本体周辺も総崩れになり、結果的に、玄蕃尾城を使う機会は訪れなかった。
盛政の油断がなければ、おそらく持久戦になっただろう。
そうなれば、玄蕃尾城は難攻不落の城として、秀吉たちを悩ませたかもしれない。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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