第108回全国高等学校野球選手権大会が開催されている最中の8月17日、47年間にわたって横浜高の監督を務めた渡辺元智さんが81歳で亡くなったというニュースが日本中を駆け巡った。
高校野球界において、まったくの無名高校だった同校を甲子園の強豪校に育て上げた渡辺さんの功績は多大なものであるのと同時に、多くの高校野球指導者に影響を与えた。


「私も渡辺さんの野球からたくさんのものを学ばせてもらいました」

そう語るのは、関東一、日大三で40年以上もの間、監督を務め、現在は日本高校野球連盟の技術・振興委員を務める小倉全由氏である。

「81歳で急逝した名将」が礎を築いた“全国屈指の強豪校”。今...の画像はこちら >>

“平成の怪物”との邂逅

小倉氏が渡辺さんとの接点を持ったのは、日大三の監督に就任した97年の秋から翌98年まで3回、横浜と練習試合で対戦する機会があったからだ。

当時の横浜には、“平成の怪物”と呼ばれた松坂大輔投手(元西武)がいた。

「秋の練習試合では三高が勝ち、翌年3月、夏の大会直前の練習試合では横浜さんが続けて勝ったんです。一番印象的なのが、3度目の練習試合でのこと。三高の3番打者が三塁打を打ったのですが、この直後、松坂投手がギアを上げて4番が三振。その後も三振と凡打の山ばかりで、得点を奪うどころか、塁上に走者を置けるような雰囲気すらなく、試合が終わったんです」(小倉氏、以下同じ)

松坂との対戦は「大きな財産」

当時の日大三の選手たちは、打席からベンチに戻ってくるたびに、「スライダーが消えた」と口にしていたのが印象的だったと、小倉氏は話す。

「その後も、多くのドラフト候補と言われる投手たちと対戦しましたが、『松坂投手以上の投手なんていない』と私自身が思うようになりました。

実際にその後、三高野球部に入ってきた選手たちにミーティングの場でそう言い続け、『だから必要以上にプレッシャーなんて感じる必要なんかないんだからな』と言ってきました。

松坂さんとは今年の夏に甲子園球場で顔を合わせたので立ち話をしましたが、『私が対戦したなかで、あなたが最高の投手でしたよ』と話すと満面の笑みを浮かべていました。

あのとき松坂投手擁する横浜さんと練習試合を3回もできたというのは、私の監督人生のなかで大きな財産となっているし、三高を3度も対戦相手に選んでくれた渡辺さんに感謝しているんです」

粘って勝利した2001年夏大会

その後、小倉氏率いる日大三は、横浜と甲子園で1度対戦した。2001年夏の第83回大会準決勝である。

この年の日大三は、近藤一樹(元ヤクルト)ら、後に4人がプロになる選手を擁して優勝候補の一角に挙げられていた。対する横浜も、円谷英俊(現巨人スカウト)、荒波翔(元DeNA)らを擁して、順当に勝ち上がってきた。

試合は序盤から日大三ペースだった。
1回、横浜の先発の福井良輔からいきなり長短5安打で3点を先取。4回には都築克幸氏(元中日)がランニング本塁打を決めて、6対1と5点のリードをした。

だが、横浜も粘った。5回に1点を返して4点差で迎えた7回、荒波が右中間へ2点適時打を放つと、9回には1点を返してなお1死三塁という場面で、荒波が右中間へ三塁打を放ち同点。だが、円谷のスクイズが捕飛併殺となり、勝ち越しを逃した。

すると、その裏の日大三の攻撃で、無死一、三塁の場面を作り、8番の諸角洋大が初球を右前に痛烈な打球を飛ばしてサヨナラ安打となり、勝利をもぎ取った。

日大三は続く決勝でも近江を10安打5点で寄り切り、全国4150校の頂点に立ち、21世紀最初の夏の王者となった。

「横浜さんには5点差をつけていても、イヤな予感がしていました。終盤に追いつかれて最後はどうにか振り切りましたが、相手の強さを感じながらの試合でした。

優勝した直後、渡辺さんから『小倉くん、よかったね。これまでの苦労が報われたね』とお声をかけていただいたときには、その優しい言葉に思わず胸にこみ上げるものがありました」

と小倉氏は当時の心境をこう振り返る。

教え子が渡辺氏から受けた薫陶

ほかにも渡辺さんとの思い出で印象的なのは、2011年に日大三が夏の甲子園で10年ぶりの全国制覇を成し遂げた年のこと。

このとき、日大三のエースは右腕の吉永健太朗。
甲子園で6試合、766球投げ続けた。そうして8月20日に決勝戦を戦った3日後の23日、神奈川で開催された第9回AAAアジア選手権大会の日本代表合宿に吉永が招集された。

だが、このとき吉永は渡辺さんに、「肩が張っていて違和感が残っている」と報告。渡辺さんは、「投げたくない」のではなく、「投げたいけど、投げられない」という吉永のコンディションを理解し、見守り続けることにした。

渡辺さんは吉永に対して、自己分析のアンケート形式のレポートの内容や、試合ではバット引きなどの裏方の仕事に真面目に取り組んでいる姿を目の当たりにしたことで、野球に対して真摯に真面目に取り組む選手だと高く評価していた。

そうして日本代表が決勝に進出して迎えた韓国戦。吉永から渡辺さんに「投げさせてください」と志願。渡辺さんも「決勝は吉永で行く」と決めていただけに、安堵した。

その結果、韓国戦では9回を被安打1、失点1に抑えて日本は優勝し、吉永自身も最優秀投手に選出された。

さらに吉永と同じく日大三から日本代表に選ばれた畔上翔(現・Honda鈴鹿)が、「もっと練習したい」と言って、室内練習場でマシンを使って1人、黙々と打撃練習を行っていた姿を渡辺さんは見ていた。

大会が終わり、小倉氏が日本代表に選ばれた吉永、畔上、横尾俊建(現・日本ハム二軍打撃コーチ)を日本代表の宿泊先に迎えに行った際、渡辺さんと顔を合わせてこう言われた。

「優勝した日大三の強さの秘訣を見せてもらいました」

小倉氏はこの言葉に感激した。


「あれだけ甲子園で勝っている監督さんから、最大級の誉め言葉をもらったと、今でも思っているんです」

なぜ横浜高校は終盤に強いのか

その後、小倉氏は渡辺さんが横浜の監督を退任した後に、16年2月27日に開催された渡辺さんをねぎらう感謝の会に招いてもらったり、小倉自身が日大三の監督を退任して以降も、高校野球中継の解説者として、渡辺さんと甲子園球場で顔を合わせては、野球談議に花を咲かせることもたびたびあった。

小倉氏が渡辺さんと最後に会ったのは、昨年11月21日に東京ドームで開催された長嶋茂雄氏のお別れの会だった。

「あのときお会いしたのが最後になるとは思いもしませんでした。渡辺さんには温かみのあるお言葉をたくさんいただきました」

と小倉氏はしみじみと回想する。

横浜は試合の中盤まで競っていても、終盤に逆転、あるいは突き放す試合が多い。この強さはどこからくるのか、小倉氏に訊ねてみると、こんな答えが返ってきた。

「渡辺さんの苦労に尽きると思います。渡辺さんはプロ野球選手を目指すも、大学で肩を痛めてその夢が潰えてしまった。その後、千葉の姉ヶ崎の工場で働き、野球とは無縁の生活を送っていたものの、母校である横浜から指導者として戻ってこいとお声がかかり、監督に就任しました。

当時の神奈川は原貢監督率いる東海大相模が君臨していました。『相模に追いつき、追い越せ』のハングリー精神で努力に次ぐ努力で神奈川のみならず全国の頂点に立った。まさにたたき上げならではの強い心をお持ちだったと思うんです。


今の高校野球を見ていると、『甲子園に出て当たり前』とぞんざいな態度をとる監督もいる。彼らには渡辺さんのような心の強さもなければ、ハングリーさも感じません。苦労に苦労を重ねた渡辺さんのような監督は、もう出て来ないんじゃないかと思っているんです」

横浜を全国屈指の強豪軍団に育て上げたのは、まぎれもなく渡辺さんの功績である。

「打倒・横浜」を掲げ、今夏の甲子園のベスト4で横浜を破ったのが智辯和歌山。今や全国の強豪校から目標にされる学校となった。

渡辺さん亡き後の横浜野球部が、この先どう進化し発展していくのか、注目し続けていきたい。

<取材・文/小山宣宏>

【小山宣宏】
スポーツジャーナリスト。高校野球やプロ野球を中心とした取材が多い。雑誌や書籍のほか、「文春オンライン」など多数のネットメディアでも執筆。著書に『コロナに翻弄された甲子園』『オイシックス新潟アルビレックスBCの挑戦』(いずれも双葉社)
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