※本稿は、河合敦『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
■信長の次男が当主になれなかったワケ
織田信雄(のぶかつ)は、信長の次男である。
だから、本能寺の変(1582)で、父・信長と兄・信忠が自害した後、本来なら織田家の当主となり、父の天下統一事業を引き継ぐ立場にあった。
ところが、羽柴(豊臣)秀吉の策略によって、織田家の当主は清洲(愛知県清須市)会議であっけなく信忠の嫡男・三法師(まだ3歳の幼児)に決まってしまった。
ただ、信雄が当主になれなかったのは、ある意味、仕方がない。なぜなら、彼は凡庸だと思われていたからだ。実際、清洲会議では織田家の重鎮・柴田勝家が三男・信孝を後継者に推したのに、信雄を押す重臣は誰もいなかった。
信雄の低評価を決定づけたのは、信長が亡くなる3年前の天正7年(1579)のことだった。当時、伊勢国南部を支配していた信雄は、父に無断で隣国・伊賀(三重県西部)へ攻め込んで大敗を喫し、激怒した信長から折檻状を突きつけられた。その内容を現代語訳すると、こんな感じになる。
「このたびの伊賀への出陣は天罰だ。
■秀吉が挑発し信雄を挙兵させた説
さて、三法師が織田家の当主に決まった後、秀吉と対立した三男・信孝が三法師を手許から離さなかったので、秀吉によって代わりに信雄が織田家の当主にまつり上げられた。
信雄はこれで一時満足したようだが、やがて秀吉が巨大な大坂城をつくり始め、天下人として行動するようになる。すると、ないがしろにされたと感じた信雄は、秀吉に内通したとして家老3人を殺害し、徳川家康と結んで秀吉に戦いを挑むことになった。一説には、秀吉が挑発し信雄を挙兵させたという。
こうして天正12年(1584)、信雄・家康連合軍は尾張(愛知県西部)の小牧山に陣取り、秀吉は楽田に陣をすえた。総兵力は徳川・織田連合軍2万に対し、秀吉方は諸軍あわせて10万だったと推定される。本軍は数カ月間、対峙を続けたが、この間、信雄の領地は秀吉の別働隊による侵略が進んでいった。
長久手の戦いでは徳川・織田軍が羽柴軍を撃破するが、なんとその後、信雄は家康に相談なく秀吉と単独講和を結んでしまう。秀吉が信雄の領地に軍勢を送って伊賀国を奪い、南伊勢を制圧、ますます圧迫を加えたからである。
同時に、寛大な講和条件を出したという。一説には、秀吉が自ら信雄に会いにいき、手を握って涙を流し、その不義をわびたという伝承もある。
信雄が勝手に講和してしまったので、大義名分を失った家康は仕方なく、次男の秀康を秀吉に差し出して兵を引いた。
■秀吉との立場が逆転、家臣のような地位に
翌年、秀吉は紀伊と四国を平定、関白に就任し、朝廷の権威を利用して政権を樹立した。
この年、信雄は秀吉の招きで上洛し、大坂城を訪ねて茶を馳走になり、従三位権大納言に叙されたが、秀吉との立場は完全に逆転し、家臣のような地位に落ちた。
その後、秀吉は家康を臣従させ、九州を平定し、天正18年(1590)、最後の仕上げとして20万の大軍で関東の小田原北条氏を包囲した。北条氏を平定さえすれば、東北の諸将もいっせいに豊臣方になびき、秀吉が天下を統一するのは確実だった。
この小田原平定に、信雄も1万5000をつれて参戦し、韮山城(静岡県伊豆の国市)を攻めた。
■信雄の人生を一変させた「断り文句」
同年7月13日、北条氏を平定した秀吉は、開城させた小田原城において、諸大名を招いて論功行賞をおこなった。
信雄は、韮山城攻撃の功績で家康の旧領を与えられることになった。
ところが、である。信雄は、考えた末に「私は父・信長が残してくれた今の領地で満足していますので、このままで結構です」と加増を固辞したのだ。どうやら、父祖の地である尾張から離れたくなかったらしい。
おそらく信雄は、加増を辞退しただけなので、とくに問題ないと判断したのだろう。むしろ「功績のある自分に5カ国も与えなくて済むのだから秀吉は喜ぶ」と軽く考えた可能性もある。
だが、そんな軽い気持ちでの返答が、信雄の人生を一変させてしまった。
小瀬甫庵の『太閤記』には、「粤に甚逆なる事あり。信長公二男北畠中将信雄卿をば、秋田へ遠流せられにけり」(檜谷昭彦・江本裕校注/岩波書店)と書かれている。
「甚逆なる事」とは、加増による転封を固辞したことだ。そう、これにより信雄は、すべての領地を公収され、配流処分になったのである。
■日本中に恐怖と驚愕を与えた厳罰
まさか信雄自身も、こんな厳罰が待っていようとは、夢にも思わなかったろう。
宣教師のルイス・フロイスも、秀吉の信雄に対する処置に関して、その著書『日本史』で「日本中にいいようのない恐怖と驚愕を与えた」と記している。
天下人の機嫌を損ねたら、たとえ主家筋の人物であっても、すべてを取り上げられてしまう。秀吉は自分たちの生殺与奪権を握っているのだということを、諸大名に改めて実感させることになった。
ちなみに、秀吉が信雄を配流したのは、転封を固辞したのに加え、京都に壮麗な屋敷をつくり天皇の行幸を計画したことも、気に障ったのだといわれる。
■秀吉に許しを請うた情けない結末
『太閤記』にあるように、信雄はすぐ秋田へ送られたわけではなく、最初に下野烏山(栃木県烏山市)に流された。このとき、一切家臣は従うことが許されず、身の回りの世話をする小者1名がつけられただけだった。秀吉の怒りの大きさがわかる。
翌年、秋田へ身柄を移されたらしい。その後、さらに伊予(愛媛県)に移っている。この間、信雄は出家して常真と名乗った。
もし信雄にプライドがあるなら、そのまま世を終え、矜恃を保つべきだった。
ところが信雄は、朝鮮出兵のため肥前の名護屋(なごや)城(佐賀県唐津市)にいる秀吉のもとに出向いたのである。秀吉に許しを請うためだ。
家康の進言だったとか、秀吉から招かれたなど諸説あるが、情けないことに、これを機に信雄は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)になった。御伽衆というのは、主君に近侍して、自分の見聞や知識などを披露する役目、ようはお話し相手である。
秀吉は、かつて父の臣下にあった男。しかも、自分から父祖の地を取り上げ、貶めた人物だ。そんな人間の話し相手として仕えるなんて、この男には自尊心がなかったのだろうか。
ともあれ、信雄は大和国内に1万7000石を賜り、大名に復帰することができた。また、信雄の息子・秀雄も越前国大野(福井県大野市)に4万5000石を与えられた。
■「総大将にしたい」と三成に言い寄られて
ただ、その後も信雄の人生が落ち着いたわけではない。
慶長5年(1600)、豊臣家が分裂して、関ケ原合戦が起こった。
小牧・長久手の戦い以来、信雄は家康と親しい間柄だったので、当然、徳川の東軍に味方したかといえば、そうではなかった。
これは、信雄が正二位内大臣の地位を有し、豊臣秀頼の母・淀殿とは従兄妹同士だったからだ。三成にしてみれば、そんな信雄を引き入れることで、西軍の勢力を増やそうとしたのである。
「もしかしたら今度こそ、自分が天下人になれるかもしれない」
そう思ったところが、信雄の浅はかなところだった。
しかし、ぐずぐずしているうちに、どちらにも加担することなく、天下分け目の合戦はわずか1日で、家康の圧勝に終わってしまった。
一説によれば、黄金1000枚という約束が、届いたのが銀1000枚だったため、三成の誠実さを疑って動かなかったという。なお、信雄の息子・秀雄は西軍に身を投じたため、戦後、領地を没収されてしまった。ただし、信雄には何のお咎めもなかった。
■豊臣氏と徳川氏の関係決裂で大坂から逃げる
その後、信雄は大坂の天満屋敷に住むようになり、大坂城の豊臣秀頼のご意見番として豊臣家で重んじられた。
しかし、慶長19年(1614)、豊臣氏と徳川氏の関係が決裂すると、大坂から逃げ出し、幕府の京都所司代の保護を受け、嵯峨へ籠もってしまった。
家康はこの決断を喜び、使者を派遣して信雄を讃え、大坂城を攻撃するために立ち寄った京都の二条城で久しぶりに信雄と会見した。
豊臣家が滅亡した元和元年(1615)、信雄は大和、下野のうち5万石を与えられた。すでに長男の秀雄は5年前に死んでしまっていたので、信雄は四男の信良に2万石を分け与え、自分はそのまま京都にいて悠々自適の生活を送った。
その間、徳川家康も死に、将軍は秀忠を経て家光になっていた。寛永5年(1628)にはそんな将軍・家光が催した江戸城の茶会に参列している。それから2年後、信雄は京都の北野において73歳の生涯を閉じた。
■大名として存続できた要因
その遺領は、五男・高長が相続した。四男・信良の系統は上野小幡藩(群馬県甘楽郡小幡)として、五男・高長の系統は宇陀松山藩(奈良県宇陀市)として存続することになった。数多くいた信長の息子のうち、幕末まで大名としての地位を守ったのは、この信雄の家柄だけだった。
いずれにせよ、こうして信雄の人生を追っていくと、プライドが高い割には決断力に欠ける人情家で、お人好しの印象を受ける。
そんな性格が災いして、秀吉に天下を簒奪されてしまったものの、家康から危険人物と見なされなかったことが、大名として存続できた要因のようにも思える。
三男・織田信孝のように有能であったら、間違いなく信雄は天下人たちに生かされていなかっただろう。凡将であったこと、それが皮肉にも、命脈を保つ最大の要因となったのではなかろうか。
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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)

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