大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で展開する賤ヶ岳の戦い。古城探訪家の今泉慎一さんは「秀吉と柴田勝家の決戦で世に知られる『賤ヶ岳の七本槍』以上に勝敗を決めたのは、白旗を揚げて賤ヶ岳砦から逃げたある武将だった」という――。

■秀吉の攻勢にほぞを噛む勝家
第22回:賤ヶ岳砦(滋賀県長浜市)
1582(天正10)年6月2日、織田信長が本能寺の変に散った。その約3週間後、6月27日には清洲城(愛知県清須市)にて、次の織田家の後継者を決める清須会議が行われた。その場では信長の嫡孫である三法師(のちの織田秀信)が当主となり、二人も重臣として支えることが決まった。だが、両者の確執は深まってゆく。
両者の亀裂は、秀吉が明智光秀との戦いの舞台にもなった天王山に、山崎城(京都府大山崎町)を築いたことによって決定的になった。清須会議では、新たな築城の禁止が決定していたのにもかかわらず……。
秀吉はさらに“攻め”の行動を次々と敢行。同年12月に長浜城(滋賀県長浜市)を攻め落とす。当時、長浜城には勝家の甥で養子となった勝豊がいたが、ほとんど抵抗もせずに城を明け渡したという。
■春になり勝家軍が動きだす
その後、勝家が清須会議で信長の後継者に推していた織田信孝(信長の三男)をも岐阜城(岐阜県岐阜市)で降伏させる。さらに、同じく信孝の味方だった重臣・滝川一益にも大軍で猛攻を仕掛ける。戦況は圧倒的に“秀吉有利”で、いずれ一益が耐えきれなくなることは必定という情勢だった。

「勝手なことばかりしやがって!」と、勝家は秀吉に対し怒り心頭に達していたはずだ。ただしその間、勝家は動くことができなかった。勝家が本拠地としていた越前国(現在の福井県東部)は豪雪地帯。雪によって道が閉ざされ、自由を奪われていたのだ。
やっと動き出したのは、年が明けた1583(天正11)年の2月(旧暦では春)。前田利家の嫡男、利長を先陣として北近江に向かわせ、自身は3月に居城の北庄城(福井県福井市)を出発する。
■真逆の行動に出た2人の武将
勝家勢、秀吉勢ともに、北近江の余呉湖(よごこ)(琵琶湖の北にある)とその周辺に着陣。その後はしばらく睨み合いが続いた後、同年4月、戦局に動きが見え始める。秀吉が降伏させたはずの信孝が、秀吉を裏切り、ふたたび岐阜城で挙兵。改めて信孝を討つため、秀吉は美濃へ向かい、17日に大垣城(岐阜県大垣市)に着陣している。
これに好機を見出した勝家勢は19日、秀吉のいない秀吉陣に対して攻撃を仕掛ける。勝家の甥の佐久間盛政が先陣を切り、秀吉方の中川清秀が守る大岩山砦に突撃。
戦局が大きく変わってゆく。
盛政は行市山砦(ぎょういちやまとりで)(福井県敦賀市)から南下し、余呉湖の西岸から南側を通って、東岸の大岩山砦(図表1②滋賀県長浜市余呉町川並)へ。途中、秀吉方の桑山重晴がいる賤ヶ岳(しずがだけ)砦(図表1①滋賀県長浜市木之本町大音)をスルーして大岩山砦に向かっている。当時、賤ヶ岳砦が未完成であったことから、それよりも戦力のある中川清秀の大岩山砦を陥落させよう、という思惑だったのだろうか。
■秀吉軍の高山右近は戦線離脱
大岩山砦から峰続きの岩崎山砦(図表1③滋賀県長浜市余呉町下余呉)には、やはり秀吉方の高山右近がいた。盛政の猛攻に対し、右近は早々に戦線離脱してしまう。たとえ着陣していても、戦意は武将それぞれ異なる。直臣ではなく、「あくまで味方している他家」の場合は尚更。大勢が集まる大規模な合戦では特に、味方は多いだけではダメなのだ。
■清秀の首を洗ったという首洗池
清秀も右近も、地元は同じ摂津(現在の大阪府北部)の武将。共に各地を転戦していた仲間だったはずなのだが……。
清秀はその場にとどまり奮戦するものの、堪えきれずに討死。
大岩山砦には、本丸にあたるとされる場所に清秀の墓があり、尾根道を南へ進んだ先の谷間には、清秀の首を洗ったという伝承がある首洗池が残る。
総大将・秀吉が不在の中、緒戦は完全に勝家方が優勢。秀吉方はこのまま押し切られるのもやむなし、という展開だった。
■次々と崩壊してゆく秀吉勢
高山右近の撤退、中川清秀の討死。圧倒的に押されまくり、劣勢の自軍の状況に「もはやこれまで」と感じたのか。その近くの重要拠点を任されていた武将が、ある決断をする。賤ヶ岳砦を任されていた桑山重晴だ。鎌倉幕府御家人の子孫であり、秀吉や丹羽長秀の配下に入り出世してきた武将で、当時既に60歳前後だった。
両軍の最前線となった余呉湖は、西・東・南の三方をU字型に尾根が囲んでおり、東と南に秀吉方が布陣していた。東尾根の岩崎山砦、大岩山砦は既に陥落。残る南尾根の賤ヶ岳砦が落ちてしまえば、秀吉方の前線は完全に崩れてしまう。
にもかかわらず、だ。
重晴はなんと、あっさり白旗をあげてしまうのだ。さらなる標的として賤ヶ岳砦をうかがう盛政に対して、戦わずして自ら降伏を申し出てしまう。
ただ、それではあまりにも不甲斐ないと思ったのだろうか。一説によると、盛政に対して「一晩だけ空鉄砲を撃ってくれ」「そうしたら翌日に山を降りる」と申し出たとか。実際、重晴が撤退したのは、翌日の4月20日。敵のいる余呉湖とは反対側、南の琵琶湖方面へと引き上げていったという(なお、撤退を決意したが、砦を放棄はしていなかったという見方もある)。
ところが、この「一晩の差」が、結果的に戦いの流れを大きく変えてしまうことになる。
■いくつかの偶然による形勢逆転
琵琶湖畔で、重晴は秀吉方の援軍としてやってきた丹羽長秀の軍勢2000と出会う。長秀は、考えを改めて戦線復帰するよう重晴を説得する。
同日、前日の大岩山砦陥落の報が、大垣城の秀吉のもとにも届く。秀吉は大垣まで進軍したものの、大雨による揖斐川(いびがわ)の増水に阻まれ、勝家方についた信孝の岐阜城まで近づけずにいた。災い転じて福となす。
今なら、岐阜城に背を向けて賤ヶ岳へと向かっても、信孝からの追っ手は追いつけない。
こうして始まった「美濃大返し」。沿道に炊き出しや松明を用意させ、日没後まで13里(約52km)を約5時間で踏破するスピード進軍。北近江は元々、秀吉の領地だったエリア。地域について知悉(ちしつ)していたのも功を奏したのだろう。
長秀と重晴のもとにも、総大将の秀吉がこちらへ向かっていることは、日中のどこかでは伝わっていたはずだ。重晴もこうなっては前言を翻すしかない。長秀とともに盛政勢へ攻めかかり、いったん放棄した賤ヶ岳砦を再び確保した。
■一度は逃げた重晴のその後
これでお膳立ては整った形に。翌日未明には、秀吉率いる大軍による大反撃が始まり、流れは完全に逆転。盛政は奮闘するも敗れ、捕縛、処刑された。前田利家が戦線離脱するなど勝家勢は総崩れとなり、“勝負あり”。

■「賤ヶ岳の七本槍」は本当に活躍?
そして、そのわずか3日後の4月24日には、北庄城で勝家は妻・お市(信長の妹)とともに自害。「信長没後の二大巨頭」の一人が、あっけなく散ってしまう。
この猛攻の際に活躍したのが、秀吉子飼いの若武者だった。加藤清正、福島正則、片桐且元、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、加藤嘉明。俗に「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」と呼ばれる彼らは、のちに豊臣政権を支える重臣となってゆく。
一般的にはこの7人が賤ヶ岳の戦いの功労者として語られることが多いが、戦いの経緯を見る限り、一番の功労者はやはり、桑山重晴ではないだろうか。もっとも、猛攻にビビっただけでなく、逸話通り「戦ったフリ」だけして逃亡したのであれば、完全に「棚からぼたもち」だが。
■桑山重晴は一国の大名に出世
七本槍の7人は、この戦いの論功行賞で一律3000石を拝領。そして重晴はというと……彼もまたその功績を評価され、それまで従っていた秀長の居城、竹田城を譲られている。その後も合戦や内政での貢献が認められ、和歌山城の城主となるなど加増。息子に家督を譲る前年の1595(文禄4)年には4万石にまでなっている。
もしあのとき、一晩待たずに即座に撤退していたら? その後、最終的に秀吉方が勝利を得たとしても、重晴の戦国武将としての人生は、賤ヶ岳で終わってしまっていただろう。それがまさかの展開で、出世に次ぐ出世。秀吉も幸運の持ち主だったが、重晴はそれを上回るほど「持っている」男だったのだ。

----------

今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

----------

(古城探訪家 今泉 慎一)
編集部おすすめ