連載第1回:指揮官と箱根駅伝/藤原正和(中央大学駅伝部監督)~前編~
現在、箱根駅伝に注力する学校の指導に当たる多くの指揮官は、自身もかつてランナーとして箱根路を走った経験がある。彼らにとって学生時代、そして指揮官となった今では、箱根駅伝はどのような存在なのか。
それぞれの歩みと心境の変化を紹介する本企画。第1回目は、中央大学・藤原正和駅伝監督にその思いを聞いた。
【「9人中9番目」から「5区なら走れるかもしれない」へ】
今季で就任11年目を迎えた中央大学の藤原正和駅伝監督。かつては箱根駅伝に4年連続で出場し、箱根路を沸かせたスター選手だった。
そんな藤原が箱根駅伝に憧れを持ったのは中学3年生の時だった。
「それまではそんなに記憶に残っていないので、見ていたのかな......。父が好きだったのでテレビはついていたかもしれないですけど、関西なので吉本のお笑い番組を見ていた気がします」
長距離走に取り組んでいたものの箱根駅伝にはそれほど関心を示していなかったが、この年の第72回大会(1996年)はスーパースターの走りに釘付けになった。
「2区で渡辺康幸さんがすごい走りをされて、5区で小林雅幸さんが区間新記録で走られたのを見て強烈にあこがれました。このあたりから走ることで頑張って上に行きたいという思いを持ちました」
当時、藤原があこがれていたのは早稲田大学だった。最終学年を迎えた渡辺がエース区間で快走し首位をひた走ると、山上りでは小林が圧倒的な走りを見せ往路を快勝した。
しかし、復路で早大の総合優勝を阻んだのが、のちに藤原が進学する中央大学だった。
「早稲田を応援していましたが、箱根を見て、中央も強いんだな、と。そういう伝統校で走りたいなという思いを持ちましたね」
中学卒業後は強豪・西脇工業高(兵庫)に進んだ。
高校3年間は「疲労骨折も4回しましたし、おそらく3年間のうち半分しかまともに走っていなかったのでは」と言うほどケガが多かったが、3年時のインターハイでは3000m障害で3位入賞を果たす。推薦枠が少なかった早大への進学は叶わなかったものの、無事に中大に進むことが決まった。
ところが、藤原の入学直前に前年度まで指導に当たっていた大志田秀次コーチ(現・明治大駅伝監督)が退任。キャプテンの小川智(現・Honda監督)がメニューを立てるなど、学生主体でチーム運営することになった。
「入学した時は4年間で1回でいいから箱根を走りたいと思っていました。自分はプロ野球のドラフト会議にたとえるなら(同期の)9人中9番目の選手だったので、箱根に出るには、ほかの8人に勝たなければなりません。そのためには練習の量を確保するしかないと思い、小川さんに与えられたメニューを自分なりにアレンジして、人一倍練習しようと心がけていました。
高校時代にケガが多かったかわりに、大半を体づくりに充てられたおかげで下地ができていて、ある程度のボリュームにも強度にも耐えられる体になっていました」
大学の練習を着実にこなし、めきめきと力をつけ、入学して早々にレースで結果が出始めた。7月には箱根5区を想定した練習でも好走し、「上りも下りも意外と強いんだっていう自信を得ました」と手応えをつかんだ。
「自分が山間部の坂しかないようなところで育ったのも多少は影響していたと思いますが、5区なら走るチャンスをもらえるかもしれないと思い、ワクワクしたのは覚えていますね。『小林雅幸さんみたいになれるかもしれない』って。やっぱりあこがれが強かったですから」
【白い手袋に刻んだあこがれの人のタイムと区間賞】
その後、出雲駅伝、全日本大学駅伝のふたつの駅伝でも活躍し、「4年間で1回でいいから走りたい」と思っていた箱根駅伝でも1年目から出番が回ってきた。藤原が任されることになったのは、中3の時にあこがれた小林が駆け上がった5区だった。
実を言うと、当初はエース区間の2区を走る準備をしていた。
「5区は1期上の富田(善継)さんが準備をしていましたが、足を痛めてしまったんです。1週間前の練習を終えて、小川さんに『調子はどうだ?』と聞かれたので『2区だったら、1時間8分台ではなんとかいけると思います』と応えたら、『富田の状態が悪いから、もしかしたらお前に上ってもらうかもしれない』と言われました。
その後にスタッフ陣が話し合う場に、僕と同期の池田(圭介)が呼ばれて、『池田が2区で、藤原は5区に持っていく』と告げられました。池田がコーチから『あこがれの2区を走れることになってよかったな』と言われていたのを聞いて、『俺だって2区を走りたかったんだよ』と内心思いつつ、"絶対にやってやる"と反骨心に火がつきました」
こう振り返るように、藤原にとってもチームにとっても不本意な経緯からだったが、藤原の箱根デビューは当初予定していた2区から5区になった。
それでも、「期待される経験がなかったので、それに応えたいという思いが強かったです」と意欲は十分。そして、その舞台で圧巻の走りを見せた。
藤原がタスキを受けたのは8位。当時は15校の参加で、シード権が与えられるのは9位まで。中大は10年以上もトップ5を継続していたが、トップ5どころか、シード権争いに巻き込まれそうになっていた。
「これはちょっと順位を上げないとまずいなと思いました。確か序盤は雪がちらつくぐらい寒かったのですが、走っているうちにひとり、またひとりと抜いていって、リズムが出てきました」
身につけていた白い手袋には、函嶺洞門や小涌園前などの定点ごとの小林雅幸の通過タイムを記していた(※この年よりコースの一部が変更になり、小林の記録は旧コースの区間記録になった)。
「頂上(国道1号の最高点)付近で、自分のタイムと雅幸さんのタイムを見比べて、これだったら雅幸さんのタイムより1分遅いぐらいでいけると思って頑張れたのを思っています。下りに入って法政が見えてきて、箱根神社の大鳥居を越えてからは順大が見えてきて、次々とターゲットが出てきてくれて、もう休んでいる暇もなかったです。走り終わったあとは、憧れの舞台を走れてすごくうれしかったですし、達成感がありました」
藤原は4人抜きの活躍で、区間賞を東海大の柴田真一と分け合った。
また、この年からコースの一部が変わったことにより、フィニッシュタイムの1時間11分36秒は新たな区間記録となった。
「雅幸さんの記録(1時間10分27秒)が本物の区間記録であって、『これは区間記録じゃない』って思っていました。距離は同じでも、コースレイアウト的にも、雅幸さんの時のほうがきつかったですから」
自身はこう振り返る。
テレビ中継では熾烈な往路優勝争いが盛り上がりを見せていたが、淡々と箱根の山を駆け上がった藤原のインパクトもまた大きかった。
【ダブルエース体制で託された2度目の山上りの使命】
1年目の箱根の活躍があって「視座が高くなった」と言い、在学中のマラソン挑戦も志した。
そして、世界クロスカントリー選手権(yの部14位)で日の丸を付けると、トラックでは10000mで28分17秒38の日本ジュニア新記録(当時)を打ち立てるなど、学生長距離界を代表する選手に駆け上がっていく。
それでも、箱根ではまたしても2区起用が見送られた。この年は、板山学(現・NTT西日本コーチ)がエース格に成長したこともあって、チームの戦略上、藤原は早々に5区を走ることが決まっていた。
「エースがもうひとり、板山さんがいたので、まずは往路優勝しなんとか復路をしのいで勝ちきろうという戦略を、夏ぐらいの段階ですでに立てていました。2区を走りたい気持ちはもちろんありましたが、それよりも箱根で勝ちたいっていうほうが強かった。
2年目はわりと自由にやらせてもらっていたので、1日4部練をしてみるなど、自分の体でいろいろ試しながら、どういう練習をしていくべきかを考えていました。エラーのほうが多かったですけど......。でも、それらは今の指導者という立場には生きているのかなと思います。夏に思うように走れない時期がありましたが、日本インカレ、出雲、全日本となんとか走って、11月になって急激に調子が上がってきました。5区用の練習をしているなかでも10000mで28分17秒38の日本ジュニア新で走ることができて、自信を深めて、箱根を迎えられました」
藤原に託された使命は、単に往路優勝のフィニッシュテープを切るだけでなく、2位以下に対して大きなリードを作ることだった。
しかし、21世紀最初の大会となった第77回大会(2001年)の往路は、思わぬ強風に見舞われた。
中大は、1区の野村佳史が区間1位と好スタートを切ると、その後は法大に独走を許したものの、常に上位でレースを進めた。藤原がタスキを受けたのは、先頭の法大から1分10秒遅れの3位。41秒前には2位の順大もおり、藤原の実力をもってすれば、2校とも十分射程内といえた。
「小涌園(11.5km)ぐらいまでにはある程度勝負の算段がついているだろうと、自分の中では思っていました。
早めに奥田さん(真一郎、順大)に追いついて、奥田さんとふたりで大村(一、法大)さんを追いかけていって、上りきる前に捕らえるというレースを思い描いていました」と言うように、最高点を迎えるまでに勝負を決着させるつもりだった。
【三つ巴の戦いの末につかんだ37年ぶりの往路優勝と悔しさ】
ところが、そんな藤原の計算を狂わせたのが強風だった。
「自分自身では悪天候には強いと思っていました。(強風で)区間記録は狙えないけれど、自分向きのレースだから、自信を持って走ろうと思っていました。それなのに、思いのほか脚が動かないし、失礼ながら、大村さんが意外と強かった。ある程度、ふたりとの差を詰めてはいたんですけど、最高点を迎える前がものすごい強風で、これはまずいなと思い始めていました。
大村さんの前には第1中継車、奥田さんの前には第2中継車があって、僕のところだけ何もないんです。『うわっ、勘弁してくれよ』と思いながら走っていました。で、下りに入っても全然追いつけないから、『皆さん、すみません。今日は3位です』と心の中で謝っていましたね。
そう思いながら下っていたら、ようやく体が動きだしました。これならばと思って、ちょっとずつアクセルを踏むと、下りきる前の最後のカーブを曲がった時に『勝った』と確信できました。じりじりした展開ではありましたけど、(ふたりを抜いてからは)あとはどれだけ差をつけるかだなと思ったのを覚えています」
急傾斜を下りきって平坦な道になると、まずは奥田を抜き去り、続けて、大鳥居をくぐったところで大村をかわし、ついに先頭に立った。
しかしながら、2位の順大に対して8秒しかリードを作れなかったのは大きな誤算だった。
「『最低でも、絶対に往路は獲ろう』とみんなで言っていたので、それを達成した安堵感もありました。ですが、総合優勝するには、往路を終えた時点で貯金が1分は欲しかった。6区は、永井(順明)さんが前年ほどの調子ではなかったですし、順大の宮井将治さんが強いのも分かっていましたから。
あの強風がなければ、復路ももっと面白いレースになったと思うんですけど、往路が終わった段階で秒差しかつけられなかったのが非常に悔やまれました。そういう意味では、安堵感と悔しさとが半々でしたね」
この時の箱根5区の三つ巴の戦いは、今なお語り継がれる名勝負だ。その勝者の藤原もまた、人知れず悔しさを抱えていた。
後編につづく:「一度きりの2区で奪取した区間賞と指揮官として目指すもの」
Profile
ふじわら・まさかず/1981年3月6日生まれ、兵庫県出身。西脇工業高(兵庫)―中央大―Honda。出雲駅伝、全日本大学駅伝を含む3大駅伝には大学4年間すべて出場。箱根駅伝では1年時から3年連続で5区、4年時に2区に出走し、1年、4年時に区間賞を獲得。卒業直前のびわ湖毎日マラソンで当時の初マラソン日本最高記録で、夏の世界陸上パリ大会日本代表に内定した。卒業後はHondaで競技を継続し、世界陸上選手権には2013年モスクワ大会、15年北京大会のマラソンを含め計3回、日本代表に選ばれている。2016年3月に現役引退を表明するとともに、中大陸上部の駅伝監督に就任し、現在に至る。
和田悟志●取材・文 text by Satoshi Wada



![[アシックス] ランニングシューズ MAGIC SPEED 4 1011B875 メンズ 750(セイフティー イエロー/ブラック) 26.0 cm 2E](https://m.media-amazon.com/images/I/41dF0gpSbEL._SL500_.jpg)
![[アシックス] ランニングシューズ PATRIOT 13 1011B567 メンズ 010(ブラック/デジタルアクア) 25.5 cm 3E](https://m.media-amazon.com/images/I/41ZS3Bh2dVL._SL500_.jpg)
![[アシックス] ランニングシューズ GEL-KAYANO 31 1011B867 メンズ 001(ブラック/ブラック) 27.0 cm 2E](https://m.media-amazon.com/images/I/418iZuXV-tL._SL500_.jpg)




![【日本企業】 ぶら下がり健康器 懸垂バー 懸垂マシン [コンパクト/10段調節/日本語説明書/2年保証] 筋トレ チンニングスタンド (ブラック)](https://m.media-amazon.com/images/I/41B0yIoAZrL._SL500_.jpg)
![[Xiyaoer] 靴下 メンズ くるぶし 10足セット夏用 【吸汗 防臭 綿】 カラフルソックス カジュアルソックス 綿 24-27cm 靴下 おしゃれ スポーツ くつした メンズ 男性用 ビジネス クルーソックス くつ下 通気性 吸汗速乾 リブ柄 (10足セット6)](https://m.media-amazon.com/images/I/51dJIW6OMFL._SL500_.jpg)